ホーム永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌剣の乙女11 名を呼ぶ時
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剣の乙女11 名を呼ぶ時

サレルノを包囲した皇帝軍は城壁に近づくことができなかった。城壁のぐるりには深いほりが水を満々とたたえて横たわっているからだ。跳ね橋が上げられている今、堀を埋めなければ渡ることはできない。
 工兵隊が、カッツェと異名をとる移動式小屋に隠れながら、地面に深く穿たれた水堀に土をどどうと流し、藁や枝を束にしたものや、切り倒した木、石、岩、牛馬の死骸、なんでもおかまいなしに放りこむ。
 堀が埋めたてられた時、攻城塔を城壁まで押し寄せた皇帝軍が雪崩のように襲いかかるだろう。
 もちろん、サレルノの守備兵たちも埋め立て作業を黙って見ているわけがない。
 移動式小屋に隠れている兵を狙って矢が炎の尾をひき、降りそそぐ。
 攻撃側も、負けてはいない。
 敵兵が潜む胸壁めがけて矢を放つ。
 そして、攻城の手段のひとつが投石機だ。
 天秤式投石機は巨大だった。石を投げ飛ばす腕木アームが八メートルもある。操作するにも多数の兵士が必要だった。上空から眺めれば、兵士たちは投石機に群がる蟻のように見えるだろう。
 腕木アームの先端に投げ飛ばす石弾を詰めこみ、十人以上の兵士が力をあわせて滑車を回していく。すると天辺にあった、腕木に取り付けた平衡重りが落下する。その勢いで腕木が跳ね上がり、弾は空高く弧を描いて、城壁を粉砕した。
 カーラインはこんなに大きく、大がかりな投石機を見たのは初めてだった。そしてその威力を目の当たりにするのも。
 この投石機の指揮をとっている男は、照りつける陽射しの中、黒の軍衣を羽織っている。ドラッヘンフェルスの領主オスヴォルト。
 まだ名前で呼んだことはない。そこまで親しくはない。だが話す機会は何度もあったというのに、頑なまでに名前を呼んでいないのはかえって意識しているのではないか。眉をしかめる。
 作業中の兵士と冗談を飛ばしているその逞しい背中に向けて。
「オスヴォルト卿」
 名前を呼んだ。呼んでから、後悔した。顔が火照りだす。うかつな自分を罵る。こんなところで名を呼ぶなんて! 次に何を言ったらいいのかわからないじゃないの。
 陽に焼けた精悍な顔が振り返った途端、固まってしまった彼女に、男は悪戯を思いついた悪童の表情で笑いかけてくる。
「弾が石ばっかりでは面白みがないと思わないか。何かこう強烈なものをぶっ放して、奴らの度肝を抜いてやりたいんだが。何がいいかな? カーライン」
 最後にさらりと敬称をつけずに名前を呼ばれた。彼女はどう反応するか一瞬決めかねたが、結局。
「......面白いかどうかで決めることじゃないでしょう」
  眉をひそめて、言うにとどめた。
「なれなれしいヤツ」
 彼女の一歩うしろに控えている従者のマルティンが、ぼそっと毒づいた。
 カーラインはマルティンの肩になだめるように手を置く。
 オスヴォルトの耳にも届いたはずだが、彼は少年の噛みつきなど蚊が刺したほどにも感じていないようだ。
「坊やの意見も聴いておこうか?」
 マルティンは坊や呼ばわりされても怒りだしたりはしなかった。そばかすの浮いた鼻を馬鹿にしたように鳴らして。
「オレが坊やならあんたはオッサンだろ」
「マルティン!」
 カーラインの一喝をうけ、オッサン呼ばわりされても笑うだけで気にしてなさそうな男に悪びれない顔で非礼をわびると、慇懃に答える。
「小官は、糞爆弾が強烈だと愚考します」
 にっと笑うと、うってかわって乱暴な口調でつけくわえた。
 くそまみれで悶絶できるぜ」
「たしかに強烈だな」
 オスヴォルトは顎に手をやって、愉しげに言う。
 カーラインが思いっきり嫌そうに顔をしかめた。まさにその時。
「伏せろ!」
 オスヴォルトが叫ぶ。
 青空に黒い染みが浮かび、敵軍の投石機が放った弾はうなりをあげて――
 炸裂した。
 敵の攻撃を防ぐために張りめぐらした防御柵の前で。
 汚らしい黄土色の汁が飛び散る。嘔吐しそうになる猛烈な臭いが充満する。
 身を伏せていたカーラインにも、びちょりとかかった。目の前が暗くなり、血の気が失せていく。
「やれやれ。奴らに先を越されてしまったな」
「さすが糞爆弾、強烈だぜ」
 鼻をつまんでいたマルティンは、肩を震わせている主人を見て慌てた。
「カーライン様! だ、大丈夫ですか?」
 ゆっくりと顔をあげた彼女の涙でにじんだ目は、完全に据わっている。
「――――目には目を、歯には歯を」
 地獄から這うような声だった。
「糞には糞を!」と、マルティン。
 それに重々しくうなずいて見せて、カーラインはオスヴォルトに向き直った。
「先ほどの話だけど、蜂の巣は強烈じゃないかしら?」
 男はにやりとした。
「阿鼻叫喚まちがいなしだ」
 そして早速、部下に命じる。
「修道院で蜂が目一杯つまった巣を調達してこい」
 修道院に行けば間違いなく蜂の巣を入手できる。修道士たちは蜂蜜と蜜蝋を採取するために蜜蜂を飼養しているからだ。
 皇帝の宿営地になっている修道院に向かって駆けだす兵士を見送り、オスヴォルトは腕組みをすると、言った。
「蜂の巣が届くまで、石で我慢するか。――弾をこめろ」

 巣箱の蓋をあけると、その蜂の巣は、目一杯に詰まっていた。気持ち悪くなるほどびっしりと。無数の蜂のうなる羽音が恐怖をあおる。
 すかさず煙でいぶして、大人しくさせたとはいえ、刺されないかとびくつきながら投石機の網に巣箱ごと押しこむ。
「弾籠め完了しました」
「よし。滑車をまわせ」
 オスヴォルトは不敵に笑う。
「この贈り物は気にいってもらえるかな」
 兵士たちも笑う。
「悲鳴をあげて泣いて喜んでくれますよ!」
 やけに愉しそうだ。
 指揮官と兵士が互いに冗談を叩きあって、共同作業をしている。陽気に笑いながら。そのなかで、カーラインも笑っている自分に気づいた。戦場では、吐きそうになるほど緊張していて、冗談を飛ばしあって笑う、そんな余裕なんてなかった。
 オスヴォルトは勢いよく手を振りあげて、下ろす。
「発射!」
 糞爆弾を投げてきたところへ、蜂の巣弾が飛んでいく。まっしぐらに。
 カーラインのかわりに、蜂が復讐を果たしてくれるだろう。

 怒れる蜂が大暴れしてくれたのはまちがいない。敵方の弾が飛んでこなくなったからだ。刺しまくる蜂と一緒に悲鳴をあげて踊っていて、それどころではないのだろう。
 歓声があがる。弾ける笑い声にまじってカーラインも高らかに笑う。笑いすぎて腹が痛くなるほど。涙がにじむ。
 腹を抱えて笑い転げていたマルティンは、笑っている彼女の姿を見上げると、主人に飛びつく子犬のようにうれしそうになる。
「こんなに楽しそうに笑っているカーライン様を見るの、ひさしぶりだ」
 アルベルトが亡くなったと知らされてから、彼女が笑うことは滅多になかった。彼女からかろうじて笑顔をひきだせるのはマルティンぐらいだった。それでも、こんなに腹の底から笑ったことはなかった。
「カーライン。蜂の巣の贈り物は大反響だったな」
 肩を親しみをこめて叩かれて、振りかえれば彼がいた。男の笑顔がなぜかまぶしかった。きっと、陽射しのせいだろう。
「気にいってもらえたようでわたしも嬉しいわ。オスヴォルト」
 満開の笑顔で答えてあげた。
 名前で呼ばれた男は、一瞬、目を見張り、そして顔をほころばせた。
 そのなんだか嬉しそうな顔を見たカーラインは、薔薇の棘のようにちくりと刺さずにはいられなかった。
「あなたが敬称つけないのに、どうしてわたしがつけなきゃいけないのかしら。それだけだから、変な期待なんてしないでね」
 どうせこの男にはこの程度の棘なんて痛くもかゆくもないのだ。面白がらせるだけで。
「それでも、名前で呼び合うのは大きな前進だ」
 と、やはり棘など意にかいさずに朗らかに笑って言う。
 この男の分厚い面の皮をはがしてやりたい。特に肩をしょぼんとさせて途方にくれた顔をみてみたい、とカーラインは思うのだった。
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永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌作者:松木響子
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サレルノを包囲した皇帝軍は城壁に近づくことができなかった。城壁のぐるりには深いほりが水を満々とたたえて横たわっているからだ。跳ね橋が上げられている今、堀を埋めなければ渡ることはできない。
 工兵隊が、カッツェと異名をとる移動式小屋に隠れながら、地面に深く穿たれた水堀に土をどどうと流し、藁や枝を束にしたものや、切り倒した木、石、岩、牛馬の死骸、なんでもおかまいなしに放りこむ。
 堀が埋めたてられた時、攻城塔を城壁まで押し寄せた皇帝軍が雪崩のように襲いかかるだろう。
 もちろん、サレルノの守備兵たちも埋め立て作業を黙って見ているわけがない。
 移動式小屋に隠れている兵を狙って矢が炎の尾をひき、降りそそぐ。
 攻撃側も、負けてはいない。
 敵兵が潜む胸壁めがけて矢を放つ。
 そして、攻城の手段のひとつが投石機だ。
 天秤式投石機は巨大だった。石を投げ飛ばす腕木アームが八メートルもある。操作するにも多数の兵士が必要だった。上空から眺めれば、兵士たちは投石機に群がる蟻のように見えるだろう。
 腕木アームの先端に投げ飛ばす石弾を詰めこみ、十人以上の兵士が力をあわせて滑車を回していく。すると天辺にあった、腕木に取り付けた平衡重りが落下する。その勢いで腕木が跳ね上がり、弾は空高く弧を描いて、城壁を粉砕した。
 カーラインはこんなに大きく、大がかりな投石機を見たのは初めてだった。そしてその威力を目の当たりにするのも。
 この投石機の指揮をとっている男は、照りつける陽射しの中、黒の軍衣を羽織っている。ドラッヘンフェルスの領主オスヴォルト。
 まだ名前で呼んだことはない。そこまで親しくはない。だが話す機会は何度もあったというのに、頑なまでに名前を呼んでいないのはかえって意識しているのではないか。眉をしかめる。
 作業中の兵士と冗談を飛ばしているその逞しい背中に向けて。
「オスヴォルト卿」
 名前を呼んだ。呼んでから、後悔した。顔が火照りだす。うかつな自分を罵る。こんなところで名を呼ぶなんて! 次に何を言ったらいいのかわからないじゃないの。
 陽に焼けた精悍な顔が振り返った途端、固まってしまった彼女に、男は悪戯を思いついた悪童の表情で笑いかけてくる。
「弾が石ばっかりでは面白みがないと思わないか。何かこう強烈なものをぶっ放して、奴らの度肝を抜いてやりたいんだが。何がいいかな? カーライン」
 最後にさらりと敬称をつけずに名前を呼ばれた。彼女はどう反応するか一瞬決めかねたが、結局。
「......面白いかどうかで決めることじゃないでしょう」
  眉をひそめて、言うにとどめた。
「なれなれしいヤツ」
 彼女の一歩うしろに控えている従者のマルティンが、ぼそっと毒づいた。
 カーラインはマルティンの肩になだめるように手を置く。
 オスヴォルトの耳にも届いたはずだが、彼は少年の噛みつきなど蚊が刺したほどにも感じていないようだ。
「坊やの意見も聴いておこうか?」
 マルティンは坊や呼ばわりされても怒りだしたりはしなかった。そばかすの浮いた鼻を馬鹿にしたように鳴らして。
「オレが坊やならあんたはオッサンだろ」
「マルティン!」
 カーラインの一喝をうけ、オッサン呼ばわりされても笑うだけで気にしてなさそうな男に悪びれない顔で非礼をわびると、慇懃に答える。
「小官は、糞爆弾が強烈だと愚考します」
 にっと笑うと、うってかわって乱暴な口調でつけくわえた。
 くそまみれで悶絶できるぜ」
「たしかに強烈だな」
 オスヴォルトは顎に手をやって、愉しげに言う。
 カーラインが思いっきり嫌そうに顔をしかめた。まさにその時。
「伏せろ!」
 オスヴォルトが叫ぶ。
 青空に黒い染みが浮かび、敵軍の投石機が放った弾はうなりをあげて――
 炸裂した。
 敵の攻撃を防ぐために張りめぐらした防御柵の前で。
 汚らしい黄土色の汁が飛び散る。嘔吐しそうになる猛烈な臭いが充満する。
 身を伏せていたカーラインにも、びちょりとかかった。目の前が暗くなり、血の気が失せていく。
「やれやれ。奴らに先を越されてしまったな」
「さすが糞爆弾、強烈だぜ」
 鼻をつまんでいたマルティンは、肩を震わせている主人を見て慌てた。
「カーライン様! だ、大丈夫ですか?」
 ゆっくりと顔をあげた彼女の涙でにじんだ目は、完全に据わっている。
「――――目には目を、歯には歯を」
 地獄から這うような声だった。
「糞には糞を!」と、マルティン。
 それに重々しくうなずいて見せて、カーラインはオスヴォルトに向き直った。
「先ほどの話だけど、蜂の巣は強烈じゃないかしら?」
 男はにやりとした。
「阿鼻叫喚まちがいなしだ」
 そして早速、部下に命じる。
「修道院で蜂が目一杯つまった巣を調達してこい」
 修道院に行けば間違いなく蜂の巣を入手できる。修道士たちは蜂蜜と蜜蝋を採取するために蜜蜂を飼養しているからだ。
 皇帝の宿営地になっている修道院に向かって駆けだす兵士を見送り、オスヴォルトは腕組みをすると、言った。
「蜂の巣が届くまで、石で我慢するか。――弾をこめろ」

 巣箱の蓋をあけると、その蜂の巣は、目一杯に詰まっていた。気持ち悪くなるほどびっしりと。無数の蜂のうなる羽音が恐怖をあおる。
 すかさず煙でいぶして、大人しくさせたとはいえ、刺されないかとびくつきながら投石機の網に巣箱ごと押しこむ。
「弾籠め完了しました」
「よし。滑車をまわせ」
 オスヴォルトは不敵に笑う。
「この贈り物は気にいってもらえるかな」
 兵士たちも笑う。
「悲鳴をあげて泣いて喜んでくれますよ!」
 やけに愉しそうだ。
 指揮官と兵士が互いに冗談を叩きあって、共同作業をしている。陽気に笑いながら。そのなかで、カーラインも笑っている自分に気づいた。戦場では、吐きそうになるほど緊張していて、冗談を飛ばしあって笑う、そんな余裕なんてなかった。
 オスヴォルトは勢いよく手を振りあげて、下ろす。
「発射!」
 糞爆弾を投げてきたところへ、蜂の巣弾が飛んでいく。まっしぐらに。
 カーラインのかわりに、蜂が復讐を果たしてくれるだろう。

 怒れる蜂が大暴れしてくれたのはまちがいない。敵方の弾が飛んでこなくなったからだ。刺しまくる蜂と一緒に悲鳴をあげて踊っていて、それどころではないのだろう。
 歓声があがる。弾ける笑い声にまじってカーラインも高らかに笑う。笑いすぎて腹が痛くなるほど。涙がにじむ。
 腹を抱えて笑い転げていたマルティンは、笑っている彼女の姿を見上げると、主人に飛びつく子犬のようにうれしそうになる。
「こんなに楽しそうに笑っているカーライン様を見るの、ひさしぶりだ」
 アルベルトが亡くなったと知らされてから、彼女が笑うことは滅多になかった。彼女からかろうじて笑顔をひきだせるのはマルティンぐらいだった。それでも、こんなに腹の底から笑ったことはなかった。
「カーライン。蜂の巣の贈り物は大反響だったな」
 肩を親しみをこめて叩かれて、振りかえれば彼がいた。男の笑顔がなぜかまぶしかった。きっと、陽射しのせいだろう。
「気にいってもらえたようでわたしも嬉しいわ。オスヴォルト」
 満開の笑顔で答えてあげた。
 名前で呼ばれた男は、一瞬、目を見張り、そして顔をほころばせた。
 そのなんだか嬉しそうな顔を見たカーラインは、薔薇の棘のようにちくりと刺さずにはいられなかった。
「あなたが敬称つけないのに、どうしてわたしがつけなきゃいけないのかしら。それだけだから、変な期待なんてしないでね」
 どうせこの男にはこの程度の棘なんて痛くもかゆくもないのだ。面白がらせるだけで。
「それでも、名前で呼び合うのは大きな前進だ」
 と、やはり棘など意にかいさずに朗らかに笑って言う。
 この男の分厚い面の皮をはがしてやりたい。特に肩をしょぼんとさせて途方にくれた顔をみてみたい、とカーラインは思うのだった。
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