ホーム永遠の恋人——薔薇の姫君 夜明けの歌/白鳥の騎士 黄昏の歌剣の乙女10 影は深く
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剣の乙女10 影は深く

 勝利を告げる喇叭が鳴り響くなかで。
 なぜこんなに体が重いのだろう。出陣のときは白かった軍衣が、今はこんなにも赤い。耐えきれず、よろめいた足が血のなかに沈んでいく。

 王旗の鷲が空高く舞い、勝利に湧く歓声のなかで。
 旗を持ち上げている手が、腕が、肩が、震える。いつまでこの赤く濡れそぼった鷲の旗を振りつづけなければいけないのか。

 わたしは勝利した。名誉を手に入れた。これをわたしは望んでいたのではなかったか。
 いいえ、違う! こんなのが欲しかったわけじゃない!
 魂が飢えて焦がれて狂いそうになる。それは、決して手に入らない。なのに諦めきれない。
 こぼれ落ちていく何かを掴もうと伸ばした手は――
 どす黒く濡れていく。
 血で錆びついた剣の下は、血の海。首、腕、手、足、腹からはみでた はらわた、それらの体の断片が、ぷかぷかと浮かんでいた。


 目覚めは決まって最悪だ。
 カーラインは額に張りつく汗に濡れた髪をかきあげ、息を吐き出す。もういい加減うんざりだった。血で彩られた悪夢は。
 主人が目覚めた気配を感じたのか、一言ことわりをいれて、マルティンが入り口の垂れ幕をあげて入ってきた。
 水をたたえた盥と手ぬぐいを置くと、主人の身の回りの世話をするために元気よく動きまわり、鏡と櫛、着替えを用意した後、ワインを酒杯 ゴブレットに注いで手渡す。
「ありがとう。もう下がっていいわ」
 少年は立ち去ろうとせずにもじもじとしていたが、意を決したように口を開いた。
「......あの、俺に出来ることは何かありませんか」
「もう充分してもらったわ」
 マルティンは、もどかしげに頭を振る。
「カーライン様、鏡をご覧になってください。血の気のひいた青白い顔をなさっておいでです。毎晩うなされて飛び起きていらっしゃるのを俺が気づかないと思っているんですか?」
 真摯な声と目で訴えてくる、彼女を慕っている子犬のような少年。自分が不甲斐ないせいで、こんなにも心配させているのだ。人の上に立つものが弱気になってはいけないのに。またそれを見せてはならないのだ。彼女は強いて笑顔をつくる。
「わたしは大丈夫だから、心配しないで」
「全然、大丈夫そうにみえません」
 間髪 かんはつをいれずに断言すると、少年は眉根を寄せて哀しげな顔になった。少年は眉根を寄せて哀しげな顔になった。
「カーライン様がなにか思い詰めていられるのは見ていてわかります。俺では力になれませんか」
 彼女は、今度は笑顔を作らなかった。少年の真心を踏みにじる、偽りの笑顔も言葉も向けたくない。
「ありがとう、マルティン。......でも、これはわたしが乗り越えなくてはいけない問題なの」
 視線を手に落とせば、血の色も臭いも感触も綺麗に除かれて、汚れなどないように白い。それは偽り。本当は赤黒く染まっているのだ。罪の色に。うなだれていたのはだが一瞬だった。彼女は、決然と顔を上げる。
「わたしはこれからも悪夢をみるでしょう。自分が殺した人の怨恨の声を聞き、血の海に溺れていく、この夢から逃れる術はないわ。人は己の罪から逃れることはできない。自分の罪を肩代わりしてもらうことはできないのだから」
 マルティンの顔が歪んだ。眩しいものを見上げるようだった。そして打ちのめされたようでもあった。言葉もなく唇を噛みしめ、一礼して立ち去る。その肩が震えていることに気づいて、彼女は動揺した。自分の言葉が彼を傷つけてしまったことに。
「......泣いて頼れば良かったというの」
 カーラインは、ため息をついた。
 彼女は女である前に領主だ。臣下の前で弱い女を出すことがどうしてできるだろう。それは強いからではない。ただの女になれるのは、アルベルトの前だけなのだから。その彼がいない今、一人で耐えるしかないではないか。


 天幕を出たカーラインは、まばゆい陽射しに目を細める。
 森の海に孤立している故郷の夏は、目が眩むほど強い陽射しが肌を焦がしはしない。明るく輝く空を見上げることも。海から渡ってくる潮を含んだ風に髪がなぶられることも。
 眩暈を覚えるのはこういうときだ。故郷から遠く離れた異国にいるのだと実感するのは。
 短く断ち切られた髪が今では波打ちながら肩にかかるほど伸びていた。一房をつかみ、忌々しげに見る。どんなに短く切っても、幾度、断ち切っても、髪は旺盛な生命力をみせる夏の草のように伸びてしまう。自分の心を裏切って。
 皇帝軍の野営地が置かれた丘から、石灰の壁が強烈な日射しに褪せる白いサレルノの街が一望できる。そして輝く碧い海が広がっていた。
 港に群れるカモメが騒いでいる。昼下がりの気怠げな青い空に舞い上がり、白く、白く。どこまでも。どこまでも海は広がっていく、遠く遠く目をやっても果てがみえず、波はうねり轟く。
 故郷を出るまでは海を知らなかった少女を打ちのめす。こんな果てのない海にぽつんと浮かんで、たどりつくことのない旅路にでた小舟のように。
 彼女は少しだけ泣いた。


 大軍が駐屯する野営地は、臭いがすさまじい。
 風呂に入らない男たちが何千人も集まったその体臭と便所から漂ってくる糞便の臭い、くわえて何千頭の馬も糞をいたるところで落としていく。ましてや季節は夏である。臭いはさらに強烈になる。
 そのなかで、奇跡のごとく一輪の薔薇が咲いていた。
 骰子さいころを転がし賭けに興じる者、剣の稽古に励む者、娼婦と遊ぶ者、殴り合いの喧嘩をしている者、そんなむさ苦しい男たちの視線を集めて、男装の乙女が颯爽と歩いていく。にもかかわらず、声をかけるものはいない。女だと甘くみて陣屋に連れ込もうとした者たちはみな鼻柱を折られるか、急所を蹴り上げられて悶絶するか、どちらにしろ血の雨が降った......。
 そして、凶暴な麗しの薔薇は足をとめた。天幕が慌ただしく畳まれているのに行き当たったのだ。
 鞍をつけられ、出発を待つ馬のいななき。命令する騎士の怒鳴り声。従者たちは次から次へと荷物を運びだす。砂埃を巻きおこし、騒々しい音をたてながら。
「慌ただしい出発だな」
 カーラインは眉をひそめて、いつのまにか堂々と隣に立っている、黒の外衣サーコートを羽織った男を見上げた。オスヴォルトは荷作りの様子から彼女へと視線を移して、鷹揚に笑いかけてきたが、裸身を見られた恨みを忘れていないカーラインは、にこりともしなかった。
「あの人たちはまだサレルノは陥落していないというのに領地に帰るというの?」
「軍役義務は一応、四十日と定められているからな。戦闘の途中だろうが、義務さえ果たせばさっさと故郷に帰ってしまう。皇帝から封土をを受けた家臣は、な」
 カーラインは眉を寄せる。
「それでは、いざ戦争というときに軍として成り立たないわ」
「心配は無用だ。最初から皇帝陛下は封臣を当てにしていない。軍の主力は傭兵隊だからな」
 肩をすくめて、皮肉気に笑う。
「サイン伯殿も義務をすでに果たしているはずだが。お帰りにならないのかな?」
 揶揄されたと感じたカーラインは、男を真っ直ぐに見据えて、平坦な声になるよう強いて言った。
「わたしは皇帝陛下から旗手を任されたのです。戦闘の途中で帰ったりなどしません」
 それは不意打ちだった。顎に手がかけられ上向かされる。かわすこともできず距離を詰められたことに目を見開く。癖のある黒髪から覗く深い色の瞳が彼女をとらえた。
「そいつはご立派な覚悟だが、目の下に目立つくまをつくっているようでは、無理しているとしかみえないな」
 手を払いのけ、毛を逆立てた猫のように飛び退る。瞳を金色に燃やして。
「わたしをからかうのがそんなに楽しい? ――悪魔とだって親友になれるほど性格が悪いわね」
 悪魔と親友になれると言われた男は、苦笑しつつ、かぶりを振った。
「別にからかったつもりはないんだがな。気に障ったんなら謝る。......戦場という地獄を生き抜いた後で悪夢を見ないやつはいないさ。はじめて人を殺した感触は忘れられんよ――俺も、な」
 率直な言葉に、カーラインは戸惑った。この強靱な精神を持っていそうな男でさえも悪夢を見たりするのか、と。今までになかった親しみを男に感じた。
「......たとえわたしが無理をしていたとしても、今さら後戻りはできないわ。旗手に任じられる前ならともかく」ため息をついて、「すでに軍役の義務を果たしているのは貴方も同じでは?」
「俺は最後までつきあうさ。戦場暮らしが長いからな。領地に腰を落ち着けるより、生と死が背中合わせの戦場で剣を振るっている方が血が燃え立つ――人を殺しすぎて、頭がいかれてしまったんだろうよ」
 そう言って短く笑ったが、微かに苦々しいものが混じっていた。
「......貴女はまだ知らない。包囲された都市が陥落したら、どうなるか。兵士は怪物になる。戦の狂気に浮かされるままに逃げまどう人々を殺しまくり、血の河となった街路を行く――全てを食らいつくす いなごの行進のように。扉を蹴破り、金目のものとみれば全てを奪い尽くし、それが女ならば、老婆だろうと幼女だろうとおかまいなしに犯す。怪物になった男は、嗤いながら、殺し、奪うことができる......。寝不足で兎の目をしたお嬢さん、あなたはそんな悪夢に耐えられるのか」
 どうしてこの男は、手のひらを返すように良い人かと思えば嫌な奴になるのか。唇を噛みしめながら、彼女は思った。この男の真意を見抜けずに、反射的に怒りをみせてはならない。
「――もしも間違っていなければ、あなたは戦場に不慣れなわたしのことを気遣っておいでなのかしら?」
 オスヴォルトは、ニヤリとした。
「わかってくれて嬉しいよ。俺はあなたを怒らせてばかりだからな」
 一転、顔を引き締めて続ける。いつものからかう口調ではなく。
「俺は戦が終わった後には心が壊れてしまった奴を嫌になるほど見てきた。あなたも心が壊れてしまう前に帰った方がいいと忠告したかったんだが......」
 カーラインがそれに応えて口を開く前に。
「覚悟はしている、と言うのだろう?」
 言おうとしていた言葉を奪われて、頬が熱くなるのを感じる。
 そんな彼女をみても男は、揶揄したりはしなかった。かわりに剣を握る者の肉厚のある無骨な手が彼女の髪に優しく触れた。警戒して強ばった顔を濃紺の瞳に映した男は微かに苦笑して、少女の柔らかな髪を、くしゃ、とかきまぜた。
「夜、眠れないときは、俺のところに来いよ」
 言いたいことだけ言って、振り返らずに去っていく背中に向けて、カーラインは精一杯の言葉を投げつけた。
「馬鹿じゃないの! 狼のところにのこのこと食べられに行くわけないでしょ」
 愉快そうな太い笑い声だけが、返ってきた。
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 勝利を告げる喇叭が鳴り響くなかで。
 なぜこんなに体が重いのだろう。出陣のときは白かった軍衣が、今はこんなにも赤い。耐えきれず、よろめいた足が血のなかに沈んでいく。

 王旗の鷲が空高く舞い、勝利に湧く歓声のなかで。
 旗を持ち上げている手が、腕が、肩が、震える。いつまでこの赤く濡れそぼった鷲の旗を振りつづけなければいけないのか。

 わたしは勝利した。名誉を手に入れた。これをわたしは望んでいたのではなかったか。
 いいえ、違う! こんなのが欲しかったわけじゃない!
 魂が飢えて焦がれて狂いそうになる。それは、決して手に入らない。なのに諦めきれない。
 こぼれ落ちていく何かを掴もうと伸ばした手は――
 どす黒く濡れていく。
 血で錆びついた剣の下は、血の海。首、腕、手、足、腹からはみでた はらわた、それらの体の断片が、ぷかぷかと浮かんでいた。


 目覚めは決まって最悪だ。
 カーラインは額に張りつく汗に濡れた髪をかきあげ、息を吐き出す。もういい加減うんざりだった。血で彩られた悪夢は。
 主人が目覚めた気配を感じたのか、一言ことわりをいれて、マルティンが入り口の垂れ幕をあげて入ってきた。
 水をたたえた盥と手ぬぐいを置くと、主人の身の回りの世話をするために元気よく動きまわり、鏡と櫛、着替えを用意した後、ワインを酒杯 ゴブレットに注いで手渡す。
「ありがとう。もう下がっていいわ」
 少年は立ち去ろうとせずにもじもじとしていたが、意を決したように口を開いた。
「......あの、俺に出来ることは何かありませんか」
「もう充分してもらったわ」
 マルティンは、もどかしげに頭を振る。
「カーライン様、鏡をご覧になってください。血の気のひいた青白い顔をなさっておいでです。毎晩うなされて飛び起きていらっしゃるのを俺が気づかないと思っているんですか?」
 真摯な声と目で訴えてくる、彼女を慕っている子犬のような少年。自分が不甲斐ないせいで、こんなにも心配させているのだ。人の上に立つものが弱気になってはいけないのに。またそれを見せてはならないのだ。彼女は強いて笑顔をつくる。
「わたしは大丈夫だから、心配しないで」
「全然、大丈夫そうにみえません」
 間髪 かんはつをいれずに断言すると、少年は眉根を寄せて哀しげな顔になった。少年は眉根を寄せて哀しげな顔になった。
「カーライン様がなにか思い詰めていられるのは見ていてわかります。俺では力になれませんか」
 彼女は、今度は笑顔を作らなかった。少年の真心を踏みにじる、偽りの笑顔も言葉も向けたくない。
「ありがとう、マルティン。......でも、これはわたしが乗り越えなくてはいけない問題なの」
 視線を手に落とせば、血の色も臭いも感触も綺麗に除かれて、汚れなどないように白い。それは偽り。本当は赤黒く染まっているのだ。罪の色に。うなだれていたのはだが一瞬だった。彼女は、決然と顔を上げる。
「わたしはこれからも悪夢をみるでしょう。自分が殺した人の怨恨の声を聞き、血の海に溺れていく、この夢から逃れる術はないわ。人は己の罪から逃れることはできない。自分の罪を肩代わりしてもらうことはできないのだから」
 マルティンの顔が歪んだ。眩しいものを見上げるようだった。そして打ちのめされたようでもあった。言葉もなく唇を噛みしめ、一礼して立ち去る。その肩が震えていることに気づいて、彼女は動揺した。自分の言葉が彼を傷つけてしまったことに。
「......泣いて頼れば良かったというの」
 カーラインは、ため息をついた。
 彼女は女である前に領主だ。臣下の前で弱い女を出すことがどうしてできるだろう。それは強いからではない。ただの女になれるのは、アルベルトの前だけなのだから。その彼がいない今、一人で耐えるしかないではないか。


 天幕を出たカーラインは、まばゆい陽射しに目を細める。
 森の海に孤立している故郷の夏は、目が眩むほど強い陽射しが肌を焦がしはしない。明るく輝く空を見上げることも。海から渡ってくる潮を含んだ風に髪がなぶられることも。
 眩暈を覚えるのはこういうときだ。故郷から遠く離れた異国にいるのだと実感するのは。
 短く断ち切られた髪が今では波打ちながら肩にかかるほど伸びていた。一房をつかみ、忌々しげに見る。どんなに短く切っても、幾度、断ち切っても、髪は旺盛な生命力をみせる夏の草のように伸びてしまう。自分の心を裏切って。
 皇帝軍の野営地が置かれた丘から、石灰の壁が強烈な日射しに褪せる白いサレルノの街が一望できる。そして輝く碧い海が広がっていた。
 港に群れるカモメが騒いでいる。昼下がりの気怠げな青い空に舞い上がり、白く、白く。どこまでも。どこまでも海は広がっていく、遠く遠く目をやっても果てがみえず、波はうねり轟く。
 故郷を出るまでは海を知らなかった少女を打ちのめす。こんな果てのない海にぽつんと浮かんで、たどりつくことのない旅路にでた小舟のように。
 彼女は少しだけ泣いた。


 大軍が駐屯する野営地は、臭いがすさまじい。
 風呂に入らない男たちが何千人も集まったその体臭と便所から漂ってくる糞便の臭い、くわえて何千頭の馬も糞をいたるところで落としていく。ましてや季節は夏である。臭いはさらに強烈になる。
 そのなかで、奇跡のごとく一輪の薔薇が咲いていた。
 骰子さいころを転がし賭けに興じる者、剣の稽古に励む者、娼婦と遊ぶ者、殴り合いの喧嘩をしている者、そんなむさ苦しい男たちの視線を集めて、男装の乙女が颯爽と歩いていく。にもかかわらず、声をかけるものはいない。女だと甘くみて陣屋に連れ込もうとした者たちはみな鼻柱を折られるか、急所を蹴り上げられて悶絶するか、どちらにしろ血の雨が降った......。
 そして、凶暴な麗しの薔薇は足をとめた。天幕が慌ただしく畳まれているのに行き当たったのだ。
 鞍をつけられ、出発を待つ馬のいななき。命令する騎士の怒鳴り声。従者たちは次から次へと荷物を運びだす。砂埃を巻きおこし、騒々しい音をたてながら。
「慌ただしい出発だな」
 カーラインは眉をひそめて、いつのまにか堂々と隣に立っている、黒の外衣サーコートを羽織った男を見上げた。オスヴォルトは荷作りの様子から彼女へと視線を移して、鷹揚に笑いかけてきたが、裸身を見られた恨みを忘れていないカーラインは、にこりともしなかった。
「あの人たちはまだサレルノは陥落していないというのに領地に帰るというの?」
「軍役義務は一応、四十日と定められているからな。戦闘の途中だろうが、義務さえ果たせばさっさと故郷に帰ってしまう。皇帝から封土をを受けた家臣は、な」
 カーラインは眉を寄せる。
「それでは、いざ戦争というときに軍として成り立たないわ」
「心配は無用だ。最初から皇帝陛下は封臣を当てにしていない。軍の主力は傭兵隊だからな」
 肩をすくめて、皮肉気に笑う。
「サイン伯殿も義務をすでに果たしているはずだが。お帰りにならないのかな?」
 揶揄されたと感じたカーラインは、男を真っ直ぐに見据えて、平坦な声になるよう強いて言った。
「わたしは皇帝陛下から旗手を任されたのです。戦闘の途中で帰ったりなどしません」
 それは不意打ちだった。顎に手がかけられ上向かされる。かわすこともできず距離を詰められたことに目を見開く。癖のある黒髪から覗く深い色の瞳が彼女をとらえた。
「そいつはご立派な覚悟だが、目の下に目立つくまをつくっているようでは、無理しているとしかみえないな」
 手を払いのけ、毛を逆立てた猫のように飛び退る。瞳を金色に燃やして。
「わたしをからかうのがそんなに楽しい? ――悪魔とだって親友になれるほど性格が悪いわね」
 悪魔と親友になれると言われた男は、苦笑しつつ、かぶりを振った。
「別にからかったつもりはないんだがな。気に障ったんなら謝る。......戦場という地獄を生き抜いた後で悪夢を見ないやつはいないさ。はじめて人を殺した感触は忘れられんよ――俺も、な」
 率直な言葉に、カーラインは戸惑った。この強靱な精神を持っていそうな男でさえも悪夢を見たりするのか、と。今までになかった親しみを男に感じた。
「......たとえわたしが無理をしていたとしても、今さら後戻りはできないわ。旗手に任じられる前ならともかく」ため息をついて、「すでに軍役の義務を果たしているのは貴方も同じでは?」
「俺は最後までつきあうさ。戦場暮らしが長いからな。領地に腰を落ち着けるより、生と死が背中合わせの戦場で剣を振るっている方が血が燃え立つ――人を殺しすぎて、頭がいかれてしまったんだろうよ」
 そう言って短く笑ったが、微かに苦々しいものが混じっていた。
「......貴女はまだ知らない。包囲された都市が陥落したら、どうなるか。兵士は怪物になる。戦の狂気に浮かされるままに逃げまどう人々を殺しまくり、血の河となった街路を行く――全てを食らいつくす いなごの行進のように。扉を蹴破り、金目のものとみれば全てを奪い尽くし、それが女ならば、老婆だろうと幼女だろうとおかまいなしに犯す。怪物になった男は、嗤いながら、殺し、奪うことができる......。寝不足で兎の目をしたお嬢さん、あなたはそんな悪夢に耐えられるのか」
 どうしてこの男は、手のひらを返すように良い人かと思えば嫌な奴になるのか。唇を噛みしめながら、彼女は思った。この男の真意を見抜けずに、反射的に怒りをみせてはならない。
「――もしも間違っていなければ、あなたは戦場に不慣れなわたしのことを気遣っておいでなのかしら?」
 オスヴォルトは、ニヤリとした。
「わかってくれて嬉しいよ。俺はあなたを怒らせてばかりだからな」
 一転、顔を引き締めて続ける。いつものからかう口調ではなく。
「俺は戦が終わった後には心が壊れてしまった奴を嫌になるほど見てきた。あなたも心が壊れてしまう前に帰った方がいいと忠告したかったんだが......」
 カーラインがそれに応えて口を開く前に。
「覚悟はしている、と言うのだろう?」
 言おうとしていた言葉を奪われて、頬が熱くなるのを感じる。
 そんな彼女をみても男は、揶揄したりはしなかった。かわりに剣を握る者の肉厚のある無骨な手が彼女の髪に優しく触れた。警戒して強ばった顔を濃紺の瞳に映した男は微かに苦笑して、少女の柔らかな髪を、くしゃ、とかきまぜた。
「夜、眠れないときは、俺のところに来いよ」
 言いたいことだけ言って、振り返らずに去っていく背中に向けて、カーラインは精一杯の言葉を投げつけた。
「馬鹿じゃないの! 狼のところにのこのこと食べられに行くわけないでしょ」
 愉快そうな太い笑い声だけが、返ってきた。
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