眠りの城02 境界を侵犯する者
アルベルトは腹を抱えて、笑い出した。
こんな馬鹿にしたような笑い方はしない。アルベルトを知っている者は皆そう思った。
アルベルトの姿をした緑衣の騎士は、卓子の料理を無造作に払った。料理が乗った皿とゴブレットが石床に転がっていく。葡萄酒の血のような赤色の水たまりを踏みつけて、卓子に長い足を組んで座った。上半身を捻るようにして、カーラインの顎を掴んで覗き込んだ。その睨みつけている琥珀色の瞳を味わうように。
「君は、何もわかっていない。この男の暗い欲望を。君は見たいものを見ているだけ。私がアルベルトではないと思いたいのだろう?」
男の指が薔薇の花びらを撫でるようにカーラインの唇をなぞった。
この指を噛み切りたいとカーラインは思った。いや。思うまでもなく、噛んでいたはずだ。睨むことしかできない。
アルベルトはそんなカーラインを面白がるように見た。
「指を噛み切りたかったかい? 本当に君は凶暴な薔薇の君だね」
薔薇の君ですって! この男の話し方、気持ち悪い。肌がゾワゾワするこの感覚、あいつに似ている。でもあの男は死んだはず。アルベルトの姿をして現れるはずがない!
すると、この目の前の姿だけは美しい男は、歌うようにカーラインの思考を言葉にして読み上げた後、両手を広げて肩をすくめてみせた。
「傷つくなぁ。気持ち悪いだなんて。女は、男もか。最初は私を恐れ、それが官能に変わって涙を流して快がるのにな。試してみる?」
この男は私の思考を読めるというの?
カーラインは震えることしかできない。
夫であるオスヴォルトの方を視線だけ動かして見た。鍛え抜かれた腕が剣を抜こうとしたまま、激しく震え、果たせずにいる。彼も動けないようにされているのだ。
またあの男の指が顎を捉え、アルベルトの唇が触れた、彼女の唇に。
それは、ふわりと羽根が触れるような優しい口付け。
アルベルトと交わした口付けと同じ。カーラインは混乱した。
「本当に君は美味しい。禁じられた恋の味がする」
カーラインの頬を涙が伝った。その涙を彼はそっと口で吸った。
触れたところが熱くなり、疼き出す。
「私たちは異母兄妹なのに愛し合ったね。あの嵐の夜。薔薇の花びらを敷き詰めた褥で。私たちは病める薔薇のように口付けを交わした。さあ、あの時の続きをしよう」
「やめて、やめて! 私の思い出を穢さないで」
その声の弱々しさが。涙しか出ない無力感が。
許せない!!
握りしめた拳がアルベルトの顔をした男の横面を殴りつけていた。
男は信じられないという顔をしてすぐに、へぇと面白がった。
「ふーん、それだけは許せないって。こんなに欲しがっているのに抱かないとはね」
独り言のように言って、カーラインから手を離し、背後を振り返る。
喉元に剣の切先が突きつけられていた。
いつでも鷹揚とした態度を崩さない、朗らかなオスヴォルトが削ぎ落とされて、灼熱の怒りで闇のように黒く聳えるように立っていた。
そのオスヴォルトを見て、エメラルド色の瞳が陶然となった。
「兄上、今度こそ僕を殺すの?」
オスヴォルトの剣の柄を握っていた手が力をなくし、床に剣が落ちていく音が反響した。
「お前は一体、誰だ!? アルベルトの顔でヨハネスのように振る舞いやがって!」
「さて。僕は誰だろうね。アルベルトの体にヨハネスが宿っているのかもしれないし」
くすくすと笑うと、「それとも」とオスヴォルトのたくましい上半身を卓子にやすやすと押し倒して、驚愕の表情を浮かべている、濃紺の瞳を覗き込んだ。
「母上が言っていただろう。僕たちはドラゴンの血脈。母上は、恐れていた。僕たちの暗い欲望が目覚めることを――」
そして、オスヴォルトとヨハネス二人の兄弟しか知らないことを滔々と話し出した。
「まだ僕たちが幼かった頃、一緒に寝ていたことを覚えてる? 隣の寝室から悲鳴が聞こえてきたよね。夜の静寂を切り裂いて。哀願するように忍び泣いては、悲鳴を上げている。兄上は、鍵のかかっていない扉を開けた。助けに行こうとして。そして、僕たちは見た。母上が父上にのしかかられて、悲鳴を上げながら、やめてやめてって、嫌がっていたのに。それがだんだん喘ぎだしてさ。馬の交尾みたいなことして。そして母上は僕たちが見ていたことに気づいた」
「やめろ!」
オスヴォルトは、絶叫した。初陣でさえ、初めて人を殺した時でさえ、俺は怖くなかった。あの時の母上の目の方が怖かった。見てはいけないものを見たから、俺たちは呪われた。
アルベルトの顔で、ヨハネスの記憶を持つ男は、優しくオスヴォルトの癖でうねる黒髪に指を絡めた。
「あれで僕は、女を抱けなくなったんだよね。気持ち悪くて。でも兄上は違ったんだ。へぇ、十五歳で女の味を知ったんだね」
これはヨハネスだって知らない記憶。まだ少年の俺を抱いた年上の女。俺は嫌だった。抱きたくなかった。なのにあの女は、男なんだから、女を抱くのは気持ちいいでしょと笑った。俺を咥えて、締め付けてきた。感じたくなかったのに感じていく快楽に、俺は吐いた。吐いても吐いても気持ち悪い。
「ああ、兄上。僕にも味合わせて。僕も欲しいんだ。黄金の娘が――」
言い終わる前に、顎に頭突きを喰らって、ヨハネスになりきっていた男は体勢を崩した。そこをさらに容赦なく腹を蹴り上げる。
そして、オスヴォルトは吐いた。
「オスヴォルト、オスヴォルト」
俺のために泣いているカーラインの声が聞こえた。体の自由を奪われても、喋ることだけはできるようにされていた。
「あの腐れ外道の言葉より私の声を聞いて! あなたはお母様が呪ったような男じゃない! 夫婦になったけど、私がまだどうしていいかわからなかったら、あなたは君がその気になるまで待つと言って、そのまますぐイビキをかいて私の隣で寝出したわね。全くあなたったら、私がいいと言うまで抱かないつもりなんだなって。恥ずかしいより何より、もう我慢できなくて。私はあなただから境界を越えることを許した。私が許したからあなたは私を抱けた。そして私を境界に入れることを許してくれたからあなたを抱けたの」
カーラインは顔を真っ赤にして、涙を流しながら必死で喋っている。それが可愛くて抱き寄せたかったが、動けないので彼も喋ることにした。
「ああ。お互い許していたから、気持ち良かったんだな。気持ち良くても大丈夫だった。――俺はやっと呪いに打ち勝てたと思ってたんだが、違ったらしい。呪いは呪いのままだ。だが、それが俺を父親のような、あの女のような、許しなく他人の体を味わって、踏み躙る気持ち悪い奴にならなくて済んだのかもしれない。これからはそう思うことにする」
「もう何度目なのかな、この初夜の話」
その間、忘れられていた男はうんざりした顔で言った。
エルザは赤裸々な夫婦の営みの話を赤面しながら聞いていた。耳に入ってしまうのだ。聞きたくなかったけど!
突然、床がグラグラと揺れ出す。空気がたわんだ音がして、目に映る光景が歪んでいく。
夢が壊れようとしている。エルザはそう感じた。
でも、この夢が壊れても――
アルベルトの姿をした男の独り言が聞こえた。
「あいつはもうこの先を見たくないと言っている。はぁ。この先になかなか進めないな」
「もうやめて。こんな夢見たくない! カーライン様とその夫を辱めるような夢なんて!」
エルザの叫びにアルベルトの姿をした異形は、興味を惹かれたように振り返った。
「ああ。招待していないのにあの鴉に導かれ、夢に潜り込んできた子か。ふーん、やめてって言われてどうしてやめないといけない?」
エルザはビクッとした。一瞬で目の前に立たれたからだ。優美な長身を屈めて、エメラルド色の双眸は妖しく輝いてた。
魔性の存在に人間の理など、通用するはずもない。
「やめろって私が言ったからよ!!」
怒鳴りつけると。その魔性は、目を瞬かせ、へぇと言った。
細身に見えても筋肉がついている肉体に抱き寄せられ、エルザは息ができなくなる。その耳元に熱い息がかかった。
「面白いな。君は最初から夢だと気づいて、私の編んだ夢を解こうとしてきた。君からは魔女の血の匂いがする。でも、力をまだ使いこなせていないね。よくこんな小娘をこの私の元に送ってこれたものだ。血も涙もないよ。あの鴉」
頭を痺れさせる甘い香りがした。唇をきつく噛み締めて、痛みで正気を保とうとするけど、夢の中では痛みも本物ではない。だから私も守ってくれない。
「――鴉は、鴉の名前は」
「姉ちゃんから手を離せ!!」
マルティンは、アルベルトの姿をした魔性の背中に頭からぶつかって行った。よろよろと力が入らないのに膝から崩れながらも。それでも。姉が辱められるところなど絶対に見たくない!
「おや、もう一匹いたね。可愛い子犬じゃないか」
男の手が癖の強い麦わら色の髪をわしゃわしゃとかき回している。人が子犬に対して抱くのと同じ愛情を向けられて、はらわたが煮えくりかえった。
彼を犬扱いする手は傷ひとつなく綺麗だった。
「お前はやっぱりアルベルト兄ちゃんじゃない」
俺を叙任するために鉄の剣を持ったせいで、焼けただれたんだ。魔性にとって、鉄は毒。傷は治らない。魔女だと信じている奇妙な俺の家族が言っていた。
「俺は、子犬じゃない。誓いを立てた騎士だ。弱きものを守るため、戦うと誓った」
「マルティン! 思い出したわね」
「ああ! 俺たちが思い出したら」
手の綺麗な魔性は、一瞬呆気に取られたが、笑い出す。
「なるほど。騎士と魔女か。いいね。なかなか良い指し手だ、鴉よ。」
世界の崩壊は、いつの間にか止まっていた。この男が止めているのだ。
そして動いているのは、この姉弟だけなのだった。
そう、この時を待っていた。
突風が吹いた。
夢のほどかれた一点を突いて、灰色混じりの鴉が、この世界に顕現した。