眠りの城03 夢を采配する者
鴉が出現する前にさかのぼる。
オスヴォルトは、世界が白く塗りつぶされていくのを見ていた。
卓子も椅子も料理も、宴の参列者の姿も綺麗さっぱり消えていた。
白い霧の中にいるみたいに距離感がわからない。
あの坊や――と言ったら、オッサンと言い返されるだろうが、マルティン達の姿がぼんやりと見えた。
あまりにも異常すぎて、現実感がない。
隣にいるカーラインに話しかける。
「あのアルベルトの顔でヨハネスみたいなやつが『もう何度目なのかな、この初夜の話』って言ってたよな」
カーラインの琥珀色の瞳が怒りに燃える。
「ええ、何度もあいつに弄ばれて、その度に記憶が消されていたということよね。いつからおかしくなったのかしら。この宴の前で覚えているのは......」
「そうだな。俺は、昨夜のことは覚えている」
カーラインも思い出したのか、顔が赤くなっている。
「昨夜は、婚礼の宴がうまくいくか段取りで頭がいっぱいになってたのに、あなたったらそんな私を寝台から待ちぼうけを食らった犬みたいに見ていたわよね」
「その後の夫婦の営みについては記憶があるんだがなぁ。......そこから記憶がない。気がついたら婚礼の宴の最中だった」
その時。突風が霧を吹き払い、一羽の鴉が乱入してきた。
カーラインは、突如、この白い空間に出現した鴉に見覚えがあった。
翡翠色の、あの人の目に似ている。
「アルベルト様!」
「アルベルト兄ちゃん!」
姉弟の声が、カーラインの、今でも思い出すと涙が溢れる人の名を呼ぶ。
鴉だった灰色混じりの翼が外套に変わり、月光が煌めき流れ落ちるかのように青年が膝をついていた。
「今度は鴉がアルベルトになったぞ」
オスヴォルトが呆然と呟く。
カーラインは言葉にならない。
どういうことなのか、理解できない。
アルベルトが二人いた。
「蜘蛛の巣と知って虫が自ら飛び込むなんて、勇敢なのか、無謀なのか、それとも――」
「私の意識を眠らせてカーライン様を穢そうとしたな。私の肉体を使って」
底冷えした声が、抑揚をつけた声を遮った。
「君が覗いていたのは知っていたよ。そちらも俺が覗いていたことを知っているだろう?」
「無論だ。気づかれることはお互い想定済み。それを見越して、盤上の一手を指している」
鴉から人型になった方は、膝をついたまま、挑むように見上げた。緑衣のサーコートを着た方は、腕を組んで首を傾げる。
「君の狙いは、さて何だろう。君はさらに自分で自分を引き裂いて分霊を作っているじゃないか? そんなに薄く引き延ばした存在で、この俺に敵うわけがないのにな」
「狙いはもちろん、返してもらいたいだけだ。それは私の体だ」
緑の双眸が互いを見た。
「残念ながら、これは俺の器だよ。君は鴉だ。鴉に戻れよ」
無造作に言い放つと、鴉と言われた方の姿が縮んでは伸び、黒い炎のようにゆらめく。
「君が竜の血脈に連なる者を追いかけなかったら、そもそもこんなことにはなってなかった。裂け目に落ちていくのをただ見ていたな。それが何を意味するかわからず。二つの世界に存在し、二つの相反する感情に引き裂かれて苦しんでいた。無防備に――目を逸らすなよ。それが真実だ」
助けに来てくれたんだ。
カーラインにはわかった。
いつだってあなたは、私を守ろうとした。
あなたが死んだと聞いた時から私は自分を守るため、心を茨で閉した。
もう私は茨で己を守らなくていい。
私は、あなたを守りたい!
オスヴォルトは、鴉に変じかけては、人に戻ろうとして、伸びたり縮んだりしている黒い影を見ていた。
やられそうでやられない。
時間を稼いでいるのか?
俺の知っているアルベルトは、まるで鳥のように俯瞰して見ることができる戦略家だった。
「アルベルト兄ちゃんが負けるわけない!」
マルティンは叫んだ。悔しさに握りしめた拳が震える。
俺は、俺たちを助けるために駆けつけてくれた騎士が劣勢に立たされているのに、見ていることしかできないのか。
雨が降る音? 風の音?
ザーザー鳴っている音がする。
エルザの耳は、音で溢れていた。
二人のアルベルトを中心にして、白一色だった背景に黒が混ざって、格子模様になり、白が黒に黒が白に目まぐるしく変わっていく。
鴉に戻そうとする力と人間に戻ろうとする力がせめぎ合っているのだ。
あの傲岸な緑の外衣を着ている男の注意がそれたのを感じた。
拘束していた力が緩んでいく。
アルベルト様が自分より強大な力と戦って、あの魔性の目を引きつけてくれている。
「君は、自分を魔女だと思っていないと思うが。異界の霧の夢をほどくことも、鴉の私を見て名前を当てたことも、常人ではありえないことだ」
彼の美しい緑の瞳がエルザを見ていた。これは城門をくぐる前の、記憶を消される前の会話だ。
「わたし、現実では魔女らしきことはできないですけど。薬草を使った治療ぐらいしか。でも、夢の中だけはわたし、最強の魔女になれるんですよね」
エルザとマルティンの二人を眠りの城に突入させることに負い目を感じている騎士に、大丈夫と言ってあげたかった。
怖い夢を見て泣いていた、幼かったわたしにおばあちゃんが言った。
「化け物に襲われる夢を見た時は、逃げるな。立ち向かえ! 逃げたらもっと怖くなる。これが夢だと気づけたら、お前こそが夢の主だ。化け物だって怖くないよ」
「じゃあ、わたしは魔女になる。おばあちゃんやお母さんみたいな魔女になって化け物やっつけるもん!」
そう、それからわたしは、夢の中ではどんな魔物も怖くない。どんな恐ろしげな、例えば闇の妖精とか、頭が三つに分かれた犬とか、ドラゴンだって、わたしは蝶々に変えたり、頭が一つだけの普通の犬にしたり、トカゲに、変えられる。想像できる。物心をついた時から空想していたわたしの想像力は、夢の世界で魔法になる。
まずはこの夢の世界に向かって、エルザは宣言した。
「わたしは、魔女になる!」
「何だよ、いきなり」
振り返ったマルティンの目がまるくなる。
姉がとんがり帽子を被って、黒い外套が風を孕んで膨らんでいる。そして、杖を手にして叫んだ。
そして、この世界を夢と定義する。
「これは夢です! 夢だから思い浮かべたことが形になります。皆さんが思い描くものを言ってください。わたしが魔法で変換しますから!」
エルザが叫んだと同時に、カーラインは、これが夢だといわれて、すんなり受け入れた。夢なら夢の戦い方がある。
「私が今、欲しいものは、茨の棘よ! あの顔だけアルベルトに似ている男を突き刺すね!」
妻と同時に、オスヴォルトは、剣帯に手をやったが剣がなくなっていることに気づいて、短く一言。
「剣を所望する」
マルティンは、言わなくてもいい。と思っていたら、睨まれた。
「犬じゃねぇ。狼にしろ!」
突然の魔女宣言に驚いた顔をしているのは、魔性のアルベルトもだ。
もう一人のアルベルトを鴉から黒い炎に変えて、手中に収めようとしていた刹那だった。
完璧に整った美しい顔が歪んだ。
胸に突き刺さった茨が槍のように太く、鋭く、しかも棘付き。
同時にオスヴォルトの剣が、一刀両断する一振りで脇腹を裂いた。
さらなる追撃。白鳥のように優美な首に噛みついてきたのは、犬ではなく狼。
しかも、黒い炎から鴉に戻ったアルベルトが、エメラルド色の瞳を抉ろうとしてきた。
そのかぎ爪を手で払う。風が刃となって鴉を襲った。羽根が舞い落ちる。
「魔女よ。この夢で負った傷は、現実の体も傷つけるとわかっているのか。アルベルトの肉体は本物だぞ」
魔女が怯んだその隙に夢の支配権を奪い返す。
首筋を噛んでいた狼を子犬に変えて放り投げた。彼の手が茨に触れると砂のように崩れた。オスヴォルトの手から剣が消失した。
カーラインは白い床に鴉が落ちるのを見た瞬間、駆け寄っていた。弱々しく、傷ついた躯をそっと抱き上げて膝にのせる。姿は変わっても、カーラインにはわかった。
「アルベルト、お願い。目を覚まして」
彼女の涙に濡れた頬を包み込む大きな手は、蝶を触るように優しくて、記憶の通りで、あいつがしたように口付けで涙を吸ったりしないのだった。彼女の腕の中で、人間に戻ったアルベルトが傷ついた白鳥に見える。不意に幼い頃の記憶がよみがえってくる。なぜか薔薇が咲く温室にいた、アヒルみたいな姿でふわふわの薄い灰色の白鳥の子ども。可愛くて、寝台に連れ込んで、一緒に寝た。孤独な心を温めてくれる羽毛に包まれて。あの時の白鳥の子どもは――
「私はあの日。あなたと別れる時に言いました。片割れをなくした白鳥にかけて約束します。必ず帰ってくると。――遅すぎましたが、帰ってきました」
「全く泣けるね。夫としては焼けるんじゃないか?」
こちらは、茨と剣と牙で攻撃を受けて傷を負ったアルベルトが、城主が座っていた椅子を呼び出すと、椅子の背にもたれ、足を組んで座った。
オスヴォルトは妻と戦友に背を向けて、もう一人のアルベルトと対峙していた。
「邪魔するなよ。剣がなくても俺は強い」
この男の肉体が武器になる。拘束していたはずなのに、頭突きと蹴りを喰らったことはもちろん忘れていない。
エルザは、唸っている子犬を抱き上げた。腕の中でジタバタしているから、お尻をつけておろしてあげる。
「さっさと自分で戻りなさい。あんたは子犬じゃないでしょ」
すると、子犬の淡い金色のもふもふ毛が麦わら色の癖毛になり、黒い鼻がそばかすの散った鼻になり、少年から青年になろうとしている体に戻っていた。
それを見てとってからエルザは、夢の支配権をめぐって対戦した魔性と向き合った。
尊大な態度でふんぞりかえっていたのが今は組んだ手に顎を乗せて、待ちくたびれているようだ。急所をやられた傷口が塞がっていない。傷を見ていることに気づいた魔性が微笑んだ。
「治してくれるの?」
エルザは、傷付いた人や動物を見ると自分ができる範囲で治してあげたいと思うのだが。
「姉ちゃん、近づくなよ!」
「エルザ、そいつに同情したらつけ込まれるだけよ」とカーライン。
「傷は塞がるので、放っておいても大丈夫です。むしろ弱まった方が好都合」
これは、アルベルト。自分の肉体だというのに容赦がない。
「やっぱり、治すのやめとくわ。自分で治せるんでしょう? どうせその傷付いたアルベルト様の姿で動揺を誘おうとか、そういう魂胆なのはわかってるんだからね」
エルザはそっけなく言った。
蛇の瞳孔のようにエメラルドの瞳が細くなった。
「魔法なんて使ったこともないという顔をしてたくせに、やってくれるじゃないか」
「現実では使ったことなんてないわよ。夢だから使えるんじゃない」
「俺から采配する者の権限を一時的に奪い、夢の織り目を解いて、君自身の魔法の糸を混ぜ込んで反撃してきた。魔力をその未熟な器に通して、普通と変わらないでいられるなんて、君って凄いね」
「やだ、気持ち悪い!」
思っていなかった返しに魔性はどんな表情をしたらいいのか迷った。傷付いた顔か、それとも怒った顔か、結局は、呆然とした顔になった。
「気持ち悪いってなんでそうなる?」
褒めたつもりなのに。
「私もエルザと一緒よ。気持ち悪いわ。アルベルトと同じ顔で中身があの自己陶酔激しいヨハネスに似ているなんて最悪よ」
今まで黙っていたオスヴォルトが口を開いた。
「俺も同感だ。お前は盤上の主気取りで、俺たちを駒扱いしてチェスゲームに興じている胸糞悪いやつだ」
自分の力を過信して、人間の反撃を許し、気持ち悪いとか胸糞悪いとか言われてるのに、この魔性の男は心底、嬉しそうに笑った。
エメラルドの瞳が無邪気な子どものように輝いていた。
「ああ! この一戦は実に楽しかった。鴉のやつ、弱者の戦いを仕掛けて、ちゃっかり過剰になっていた魔力を俺に吸わせて、身軽になりやがった。示し合わせていないのに、魔女を経由しての連携プレイも冴えてたね。やっぱりチェスゲームは対戦者がいないとね。一人でやっても面白くないんだよな」