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もんもんぐんぐん

「ユウキ君ってカッコいいよね。今度、誘っちゃおうかな」

 そう言った智慧に、美来が即座につっこんだ。

「チエじゃ、無理でしょ」

 他愛ない会話のはずなのに、どこか遠い話に聞こえてくるのは何故だろう?

「マコトもそう思うでしょ?」

 美来が私に話を振ってくるが、私はユウキ君が誰なのか知らなかった。

「ユウキ君って、そんなにカッコいい?」
「スポーツ万能で、成績もトップクラス、おまけにイケメン」
「チエは、そのおまけが大事なんでしょ」
「うっさい」

 じゃれ合う二人は、いつもと変わらない。

 だが、そんなに褒めるほどの人物を、いつも一緒にいる私が全く聞いたこともない、ということなどあり得るだろうか。もんもんと違和感が胸に募ったが、その時は、それ以上考えなかった。私が知らないだけ。きっと、そういうことなのだろう。

 翌日、智慧が泣いていた。

「ユウキ君に振られた......」
「だから無理だって言ったじゃん」

 美来は容赦がない。けれど、そのはっきりしたところが美来の長所でもあった。

「好きな人がいるんだって......」
「へえ」

 私は相槌を打った。智慧が好きだった相手に振られた。まあ、よくある話だ。

「マコトは興味ないの?」
「何に?」
「ユウキ君」
「だから知らないって」

 そう言うと、二人は顔を見合わせた。ほんの一瞬だった。けれど、その目に何か引っかかるものがあった。

「......そうなんだ」

 その日の昼休み、美来が言った。

「チエ、私もユウキ君に告白してみようかな」
「え?」
「だって、好きな人がいるって言われたんでしょ。じゃあ、その人に勝てばいいじゃん」
「誰なのか知らないくせに」
「知ってるよ」

 美来は私を見た。

「マコト」
「......え?」

 冗談だと思っけれど、美来は笑っていなかった。

「ユウキ君が好きなの、マコトなんでしょ?」
「知らないよ。そんな人」
「またそれ?」

 智慧の声が冷たくなった。

「何が?」
「ユウキ君のこと知らないって言うの」
「本当に知らないんだけど」
「じゃあ、なんでユウキ君はマコトのこと好きなの?」

 私には何も答えられない。会ったことがないどころか、姿を見たことさえない。そんな人が私を好きな理由なんて知るはずもない。

「......私に聞かれても」
「そうやってとぼけるんだ」

 美来の言葉には、昨日までなかった棘があった。
 翌日から、二人の態度が変わった。智慧は私と目を合わせなくなり、美来は私の近くでわざとユウキ君の話をするようになった。

「ユウキ君、昨日もマコトのこと見てたよ」
「だから、私は知らないって」
「その顔」
「え?」
「そうやって知らないふりするところ」

 冷たい笑顔、というものを私は初めて感じた。美来は笑っているのに、少しも楽しそうではなかった。

 私はクラスメイトに聞いてみた。

「ユウキって知ってる?」
「誰それ?」

 別の子にも聞いた。

「ユウキ君? うちのクラスにはいないよ」
「じゃあ、他のクラスかな」
「さあ。聞いたことない」

 学校中を探しても、ユウキという名前の男子はいなかった。
 担任の先生にも聞いてみた。

「ユウキ? そんな生徒いたかな?」

 名簿にもいない。掲示板にもいない。学校のホームページにも、卒業生の記録にもいない。
 なのに、智慧と美来だけは知っている。

 スポーツ万能。
 成績はトップクラス。
 イケメン。

 智慧も、美来も告白して振られた。そして、その原因が私らしい。
 そんな話を二人は口を揃えて言う。

 ある日の放課後。

「マコト」

 美来に呼び止められた。

「何?」
「ユウキ君に会わせてよ」
「だから、知らないって」
「もういいよ」

 美来はそう言って、私を睨んだ。

「そういうの」
「......何が?」
「自分だけ知らないふりして、裏で会ってるんでしょ? 私たちのこと嘲笑ってるんだ」
「そんなことない!」
 
 隣にいた智慧が泣きそうな顔をしていた。

「私、ユウキ君のこと本当に好きだったんだよ」
「うん」
「なのに......」

 智慧が私を見た。

「なんでマコトなの?」

 私は何も答えられなかった。知らない。ユウキなんて人は知らない。
 話したこともない。顔さえ知らない。それなのに二人の目には、まるで私がユウキ君を奪ったかのように映っている。

「お願いだから返してよ」

 智慧が言った。

「......何を?」
「ユウキ君を」

 私の知らない人を、どうやって返せというのだろう。
 それでも二人には、私が何かを隠しているようにしか見えないらしい。

「マコト」

 美来が言った。

「ユウキ君と、何をしたの?」
「何もしてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんでユウキ君はマコトが好きなの?」
「知らないよ!」

 思わず声を荒らると、二人が黙った。粘つく視線をこちらに向けてくる。
 窓の外では、部活を終えた生徒たちが笑いながら歩いていた。

 いつもの学校。

 いつもの放課後。
 
 いつもの友達。

 つい最近まで、何も変わらない日常だったはずなのに。
 ユウキという人物が全てを狂わせた。

 智慧と美来は、じっと私を見ていた。私が、宝物を奪った犯人であるかのように。
 その視線だけが、いつまでも私に突き刺さっていた。

 翌週、家に帰ると母がテレビを見ながら言った。

「そういえば、ユウキ君って子、最近うちに来ないわね」

 箸が止まった。

「......誰、それ」
「やだ、忘れたの? 中学の時、よく一緒に帰ってた子でしょう。玄関先まで送ってくれたじゃない」

 母の顔に、嘘をついている様子はなかった。

 記憶の底を必死にさらっても、そんな光景は出てこない。なのに母の中には、まるで色褪せた写真のように、確かな手触りを持って残っているらしかった。

「......そう、だったかな」

 それだけ言うのが、精一杯だった。その夜、卒業アルバムを引っ張り出した。
 小学校のクラス写真。並んだ顔の中に、見覚えのない男の子が写っていた。

 いや――見覚えがない、というのはおかしい。写真は昔から変わっていないはずなのに、確かに「見た記憶がない顔」がそこにあった。

 名札には「ユウキ」とだけ、フルネームは掠れて読めない。

 ページをめくる手が震えた。中学の集合写真にも、いた。高校の入学式の写真にも、いた。

 まるで最初から、そこにいたかのように。

 そして、写真の隅――去年撮った文化祭のクラス写真。

 そこに、私がいなかった。

 智慧と美来の間に、不自然な隙間が空いている。まるで最初から三人ではなく、二人だったかのように。もんもんと、胸の底で何かが渦を巻いた。これは、記憶違いなんかじゃない。
 
 二人が入れ替わっていく。そう思った。ユウキが濃くなるたび、私の記憶が薄くなる。なら、この世界には――誰かが存在するための場所が、決まっているのだろうか。

 智慧と美来がユウキ君を思い出すたび、疑うたび、恋するたび、憎むたび――彼はぐんぐんと輪郭を濃くしていく。

 そして、その分だけ、私は薄くなっていく。教室に着くと、様子がおかしかった。窓際の一番後ろの席に、見知らぬ男子が座っていた。

 スポーツ刈りで、日に焼けていて、笑うと八重歯が覗く。智慧と美来が、その席の周りで楽しそうに笑っている。

「ユウキ君、また寝坊したんだ」
「相変わらずだね」

 その光景に、誰も疑問を持っていなかった。まるで最初から、彼がそこにいるのが当たり前であるかのように。

「あ、マコト」

 美来が振り返って、私を見た。その目に、少しだけ――本当に少しだけ、戸惑いの色が浮かんだ。

「......えっと、誰だっけ」
「は?」
「ごめん、なんか、名前が」

 智慧も首を傾げていた。

「あー、うちのクラスの子だよね? なんか、うん、そうだ、そうだった気がする」

 二人は笑って誤魔化した。悪意はなかった。ただ、本当に――思い出せなくなっていたのだ。

 窓際の男子が、こちらを見た。
 初めて会うはずなのに、その目には、確かな親しみがあった。

「マコト」

 名前を呼ばれた。声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 ――知っている、この声。

 思い出せそうで、思い出せない。まるで、水面の下でずっと見ていた誰かの顔が、水面に映る自分の顔と重なって、どちらがどちらか分からなくなるように。

「ずっと、探してたんだ」

 ユウキ君は、そう言って笑った。

 その笑顔が、もんもんと胸をざわつかせる違和感と、ぐんぐんと膨らんでいく既視感の、両方を同時に連れてきた。

 私は、彼を知らない。なのに、彼は、私のことを知っている。

 まるで、私という存在が薄れていく分だけ、彼の中の「私」の記憶が、確かなものとして固まっていくかのように。ただ、誰の器に注がれるかが、少しずつ移り変わっていくだけ。

 放課後、誰もいない教室で、鏡を見た。顔が、思い出せなかった。昨日までの自分の顔が、どんな形をしていたか。もんもんとした輪郭だけが、そこにあった。中身のない、輪郭だけが。

「マコト、一緒に帰ろう」

 廊下から、ユウキ君の声がした。その声には、まるで昔からずっとそうしてきたかのような、自然な親しみがあった。私は、その声に、少しだけ――ほんの少しだけ、覚えのある温かさを感じてしまった。

 ぐんぐんと、彼が実在していく。

 もんもんと、私が透けていく。

 教室のドアを開けて、彼のもとへ歩き出す足を、私はもう、止めることができなかった。マコト」という名前は、もう、どこにも残っていなかった。窓際の一番後ろの席には、誰も知らない女の子が座っている。

 智慧と美来は、その子を見て、少しだけ首を傾げた。

「......あれ、あの子、最初からいたっけ?」
「さあ。前からいた気もするけど」

 二人は、すぐに笑いながら、いつもの話に戻った。誰かが実在するたび、誰かが薄れていく。

 その繰り返しだけが、この教室では、もんもんぐんぐんと、静かに続いていく。
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もんもんぐんぐん作者:らぱすてー
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「ユウキ君ってカッコいいよね。今度、誘っちゃおうかな」

 そう言った智慧に、美来が即座につっこんだ。

「チエじゃ、無理でしょ」

 他愛ない会話のはずなのに、どこか遠い話に聞こえてくるのは何故だろう?

「マコトもそう思うでしょ?」

 美来が私に話を振ってくるが、私はユウキ君が誰なのか知らなかった。

「ユウキ君って、そんなにカッコいい?」
「スポーツ万能で、成績もトップクラス、おまけにイケメン」
「チエは、そのおまけが大事なんでしょ」
「うっさい」

 じゃれ合う二人は、いつもと変わらない。

 だが、そんなに褒めるほどの人物を、いつも一緒にいる私が全く聞いたこともない、ということなどあり得るだろうか。もんもんと違和感が胸に募ったが、その時は、それ以上考えなかった。私が知らないだけ。きっと、そういうことなのだろう。

 翌日、智慧が泣いていた。

「ユウキ君に振られた......」
「だから無理だって言ったじゃん」

 美来は容赦がない。けれど、そのはっきりしたところが美来の長所でもあった。

「好きな人がいるんだって......」
「へえ」

 私は相槌を打った。智慧が好きだった相手に振られた。まあ、よくある話だ。

「マコトは興味ないの?」
「何に?」
「ユウキ君」
「だから知らないって」

 そう言うと、二人は顔を見合わせた。ほんの一瞬だった。けれど、その目に何か引っかかるものがあった。

「......そうなんだ」

 その日の昼休み、美来が言った。

「チエ、私もユウキ君に告白してみようかな」
「え?」
「だって、好きな人がいるって言われたんでしょ。じゃあ、その人に勝てばいいじゃん」
「誰なのか知らないくせに」
「知ってるよ」

 美来は私を見た。

「マコト」
「......え?」

 冗談だと思っけれど、美来は笑っていなかった。

「ユウキ君が好きなの、マコトなんでしょ?」
「知らないよ。そんな人」
「またそれ?」

 智慧の声が冷たくなった。

「何が?」
「ユウキ君のこと知らないって言うの」
「本当に知らないんだけど」
「じゃあ、なんでユウキ君はマコトのこと好きなの?」

 私には何も答えられない。会ったことがないどころか、姿を見たことさえない。そんな人が私を好きな理由なんて知るはずもない。

「......私に聞かれても」
「そうやってとぼけるんだ」

 美来の言葉には、昨日までなかった棘があった。
 翌日から、二人の態度が変わった。智慧は私と目を合わせなくなり、美来は私の近くでわざとユウキ君の話をするようになった。

「ユウキ君、昨日もマコトのこと見てたよ」
「だから、私は知らないって」
「その顔」
「え?」
「そうやって知らないふりするところ」

 冷たい笑顔、というものを私は初めて感じた。美来は笑っているのに、少しも楽しそうではなかった。

 私はクラスメイトに聞いてみた。

「ユウキって知ってる?」
「誰それ?」

 別の子にも聞いた。

「ユウキ君? うちのクラスにはいないよ」
「じゃあ、他のクラスかな」
「さあ。聞いたことない」

 学校中を探しても、ユウキという名前の男子はいなかった。
 担任の先生にも聞いてみた。

「ユウキ? そんな生徒いたかな?」

 名簿にもいない。掲示板にもいない。学校のホームページにも、卒業生の記録にもいない。
 なのに、智慧と美来だけは知っている。

 スポーツ万能。
 成績はトップクラス。
 イケメン。

 智慧も、美来も告白して振られた。そして、その原因が私らしい。
 そんな話を二人は口を揃えて言う。

 ある日の放課後。

「マコト」

 美来に呼び止められた。

「何?」
「ユウキ君に会わせてよ」
「だから、知らないって」
「もういいよ」

 美来はそう言って、私を睨んだ。

「そういうの」
「......何が?」
「自分だけ知らないふりして、裏で会ってるんでしょ? 私たちのこと嘲笑ってるんだ」
「そんなことない!」
 
 隣にいた智慧が泣きそうな顔をしていた。

「私、ユウキ君のこと本当に好きだったんだよ」
「うん」
「なのに......」

 智慧が私を見た。

「なんでマコトなの?」

 私は何も答えられなかった。知らない。ユウキなんて人は知らない。
 話したこともない。顔さえ知らない。それなのに二人の目には、まるで私がユウキ君を奪ったかのように映っている。

「お願いだから返してよ」

 智慧が言った。

「......何を?」
「ユウキ君を」

 私の知らない人を、どうやって返せというのだろう。
 それでも二人には、私が何かを隠しているようにしか見えないらしい。

「マコト」

 美来が言った。

「ユウキ君と、何をしたの?」
「何もしてない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ、なんでユウキ君はマコトが好きなの?」
「知らないよ!」

 思わず声を荒らると、二人が黙った。粘つく視線をこちらに向けてくる。
 窓の外では、部活を終えた生徒たちが笑いながら歩いていた。

 いつもの学校。

 いつもの放課後。
 
 いつもの友達。

 つい最近まで、何も変わらない日常だったはずなのに。
 ユウキという人物が全てを狂わせた。

 智慧と美来は、じっと私を見ていた。私が、宝物を奪った犯人であるかのように。
 その視線だけが、いつまでも私に突き刺さっていた。

 翌週、家に帰ると母がテレビを見ながら言った。

「そういえば、ユウキ君って子、最近うちに来ないわね」

 箸が止まった。

「......誰、それ」
「やだ、忘れたの? 中学の時、よく一緒に帰ってた子でしょう。玄関先まで送ってくれたじゃない」

 母の顔に、嘘をついている様子はなかった。

 記憶の底を必死にさらっても、そんな光景は出てこない。なのに母の中には、まるで色褪せた写真のように、確かな手触りを持って残っているらしかった。

「......そう、だったかな」

 それだけ言うのが、精一杯だった。その夜、卒業アルバムを引っ張り出した。
 小学校のクラス写真。並んだ顔の中に、見覚えのない男の子が写っていた。

 いや――見覚えがない、というのはおかしい。写真は昔から変わっていないはずなのに、確かに「見た記憶がない顔」がそこにあった。

 名札には「ユウキ」とだけ、フルネームは掠れて読めない。

 ページをめくる手が震えた。中学の集合写真にも、いた。高校の入学式の写真にも、いた。

 まるで最初から、そこにいたかのように。

 そして、写真の隅――去年撮った文化祭のクラス写真。

 そこに、私がいなかった。

 智慧と美来の間に、不自然な隙間が空いている。まるで最初から三人ではなく、二人だったかのように。もんもんと、胸の底で何かが渦を巻いた。これは、記憶違いなんかじゃない。
 
 二人が入れ替わっていく。そう思った。ユウキが濃くなるたび、私の記憶が薄くなる。なら、この世界には――誰かが存在するための場所が、決まっているのだろうか。

 智慧と美来がユウキ君を思い出すたび、疑うたび、恋するたび、憎むたび――彼はぐんぐんと輪郭を濃くしていく。

 そして、その分だけ、私は薄くなっていく。教室に着くと、様子がおかしかった。窓際の一番後ろの席に、見知らぬ男子が座っていた。

 スポーツ刈りで、日に焼けていて、笑うと八重歯が覗く。智慧と美来が、その席の周りで楽しそうに笑っている。

「ユウキ君、また寝坊したんだ」
「相変わらずだね」

 その光景に、誰も疑問を持っていなかった。まるで最初から、彼がそこにいるのが当たり前であるかのように。

「あ、マコト」

 美来が振り返って、私を見た。その目に、少しだけ――本当に少しだけ、戸惑いの色が浮かんだ。

「......えっと、誰だっけ」
「は?」
「ごめん、なんか、名前が」

 智慧も首を傾げていた。

「あー、うちのクラスの子だよね? なんか、うん、そうだ、そうだった気がする」

 二人は笑って誤魔化した。悪意はなかった。ただ、本当に――思い出せなくなっていたのだ。

 窓際の男子が、こちらを見た。
 初めて会うはずなのに、その目には、確かな親しみがあった。

「マコト」

 名前を呼ばれた。声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。

 ――知っている、この声。

 思い出せそうで、思い出せない。まるで、水面の下でずっと見ていた誰かの顔が、水面に映る自分の顔と重なって、どちらがどちらか分からなくなるように。

「ずっと、探してたんだ」

 ユウキ君は、そう言って笑った。

 その笑顔が、もんもんと胸をざわつかせる違和感と、ぐんぐんと膨らんでいく既視感の、両方を同時に連れてきた。

 私は、彼を知らない。なのに、彼は、私のことを知っている。

 まるで、私という存在が薄れていく分だけ、彼の中の「私」の記憶が、確かなものとして固まっていくかのように。ただ、誰の器に注がれるかが、少しずつ移り変わっていくだけ。

 放課後、誰もいない教室で、鏡を見た。顔が、思い出せなかった。昨日までの自分の顔が、どんな形をしていたか。もんもんとした輪郭だけが、そこにあった。中身のない、輪郭だけが。

「マコト、一緒に帰ろう」

 廊下から、ユウキ君の声がした。その声には、まるで昔からずっとそうしてきたかのような、自然な親しみがあった。私は、その声に、少しだけ――ほんの少しだけ、覚えのある温かさを感じてしまった。

 ぐんぐんと、彼が実在していく。

 もんもんと、私が透けていく。

 教室のドアを開けて、彼のもとへ歩き出す足を、私はもう、止めることができなかった。マコト」という名前は、もう、どこにも残っていなかった。窓際の一番後ろの席には、誰も知らない女の子が座っている。

 智慧と美来は、その子を見て、少しだけ首を傾げた。

「......あれ、あの子、最初からいたっけ?」
「さあ。前からいた気もするけど」

 二人は、すぐに笑いながら、いつもの話に戻った。誰かが実在するたび、誰かが薄れていく。

 その繰り返しだけが、この教室では、もんもんぐんぐんと、静かに続いていく。
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