もんもんぐんぐん
老職人のX氏は、職人街の組合で最も高い座に就いていた。
薄くなった頭に丁寧になでつけられた白髪。大きな鷲鼻。黒縁の眼鏡の奥に、神経質そうな鋭い目が光っている。
ぱっと見の印象どおり気難しいところがある男だった。
X氏は街で最も職人としての歴が長く、それに比例するように腕も良い。
それは誰もが認めるところだったが、彼には不思議な、そして極めて厄介な権能があった。X氏が「気に食わない」と思った人間の工房の扉に、外側から勝手に鍵を掛けることができるのだ。
理由を聞くこともない。
話し合うこともない。
ただX氏が不快感を覚えた瞬間――
カチリ。
小さな音とともに、その職人は街の表側から閉め出される。
「あいつの顔は見たくない」
誰かを追い出すたび、X氏はいつも決まってそう言った。
自分をもんもんと不快にさせるものを視界から消し、お気に入りの者たちだけに囲まれる。それはX氏にとって、ひどく心地よい世界だった。
X氏は日に日に機嫌を良くし、鼻をぐんぐんと高くした。割を食うのは、残された者たちだ。ある若手職人は、毎日生きた心地がしなかった。下手に目をつけられれば、いつ自分が鍵を掛けられるか分からない。
そして閉め出された職人の中には、大切な友人もいた。取引相手もいた。自分には到底真似できない技術を持つ、尊敬する職人もいた。
「おい、あいつの工房から素材を仕入れているのが長に知られたら、お前も終わりだぞ」
「でも、あの人の部品がなければ、うちの製品は完成しません」
「分かってる。だから隠せ」
街の空気は、少しずつ歪んでいった。
職人たちは、ものづくりに向けるはずだった集中力を、X氏の機嫌を読むことに使うようになった。
「あの人の話はするな」
「その名前は長の前で出すな」
「あいつと話しているところを見られるな」
技術を競い合うはずだった職人たちは、互いの腕ではなく、互いの危険度を見るようになった。
けれど、人間は閉じられた場所でも繋がる。表で語れなくなった話は、裏で交わされるようになった。閉め出された職人へ道具を届ける者。密かに注文を回す者。失われた技術を守ろうとする者。街の地図にも、組合の帳簿にも載らない細い道が、少しずつ増えていった。
表向きの交流が閉ざされるほどに、職人たちの胸の内では、口に出せない鬱屈がもんもんと燻り続けた。誰にも言えない苛立ち、誰にも見せられない疲弊。それは晴れることのないまま、日々沈殿していく。
そんなある日、新入りが若手職人に言った。
「あの人は長なんですよね?」
「そうだな」
「揉め事が起きたら間に入って、みんなをまとめるのが長の仕事じゃないんですか」
私は答えられなかった。
「あの人にとって、長という立場は......」
若手職人は少し考えてから言った。
「誰よりも我慢しなくていい場所なんだろうな」
自分は何も受け入れない。周囲だけに気を遣わせる。それが一番楽だから。
その頃から、別の変化も起き始めた。弟子たちは、少しずつ学んでいった。何を話せばX氏が喜ぶのか。何を話せば眉をひそめるのか。
誰の名前を出せば機嫌が悪くなるのか。誰の名前なら笑顔になるのか。誰に教わるでもなく、皆が覚えていった。
そして街の話は、人から人へ渡るたび、X氏の耳に収まるのにちょうどよい形へと削られていった。
ある職人の新しい技術が、大きな成果を上げ、ぐんぐんと成長を遂げていた。だが、その職人は以前、X氏に鍵を掛けられた者と交流があった。だから、その話は途中で消えた。
ある工房が、閉め出された職人たちの助けによって復興を遂げていた。だが、その話をX氏が喜ばないことを皆知っていた。だから、その話も届かなかった。
そうしてX氏のもとへ集まる話は、いつしかよく似たものばかりになった。
「X氏のおかげで街は平和です」
「最近は良い職人ばかり集まってきました」
「問題を起こす者はいなくなりました」
X氏は満足そうに頷いた。
「そうだろう。私が正しく導いているからな」
X氏は今日も、自分の工房を満足そうに眺める。そこには、自分を褒める者たちがいる。反論する者はいない。不愉快な話を持ってくる者もいない。X氏は思う、街は自分を認めている、と。
その頃、街外れでは新しい工房が次々と生まれていた。新しい技術が試され、新しい繋がりが育っていた。X氏の知らない、見ようとしなかった場所で。
工房は、平和だった。少なくとも、X氏の目にはそう見えていた。自分の耳に届く世界こそが、街のすべてだと信じていた。
だがその世界は、いつしか街の小さな一角に過ぎなくなっていた。
彼は今日も、鍵を掛ける。
カチリ。
小さな音とともに、その職人は街の表側から閉め出された。