20.成長
杉本との対峙後、その日は何事もなく家に帰った。
ソファーに座り込み、大きく息をついて瞼を閉じる。
既に十時半を過ぎており、勉強時間は終了したのだが、今日の出来事が脳裏に映ってなかなか集中できなかった。
同様に勉強が終わったのか、藤宮が隣に座り困ったように微笑む。
「もう一回風呂入ってきたら? すっきりするよ」
「気づいてたのか」
「まあ、それだけ大きくため息をついてたらわかるよそりゃあ」
「これは失礼」
立ち上がり、両手を天にあげて瞼を閉じたままグッと背中を伸ばす。
「風呂上がりは甘めのコーヒーで良い?」
「そうだな。お言葉に甘えさせてもらおう」
手を下ろし、瞼を開けば藤宮は携帯をつつき始める。
珍しい行動に、ほんの少し目を見開いた。
「それにしても珍しいな。藤宮がこんな時間に携帯を触るなんて」
藤宮は間食以外は規則正しい生活を過ごしている。
寝る一時間前はできる限り携帯を見ないようにしている彼女が、わざわざ十時半過ぎに触るのに違和感を覚えた。
「別に、私も生真面目ってわけじゃないからね」
「まあそうなんだけど」
藤宮の場合、人付き合いがあっても夜遅くまで携帯を触ることはしない。
本当に大事な用事の時だけ、という印象が強い。
小首を傾げていることに気づいたのか、藤宮は困ったように微笑んだ。
「本当は誤魔化したいところだけど、正直に言うと情報統制」
脳裏に杉本の姿が映る。
「というと今日のことか」
「そ。今日は貴方に近づきすぎちゃったから、その噂を最小限に留めてる」
その指から放たれるタップのスピードは異常なぐらい早い。
「なるほどな」
彼女の現実的な行動に思わず感嘆の息を漏らし、廊下へと続く扉を開く。
「じゃ、風呂入ってくる」
「いってらっしゃーい」
底冷えする空気に身を晒し、足早に洗面所に入る。
身につけていた衣服を着替え用として洗濯機の上に置き、風呂の扉を開いたその時。
カサッ、と何かが擦れる音が静寂の中木霊した。
鼓動が止まり、空気が固まった。
その中、茶色の塊が素早く動く。
「よし」
呼吸を整え、バスタオルを一枚手に取る。
パンツを履いている身体に巻き付け、冷気が流れ込む扉を閉めた。
嫌な汗が背中と額を伝い、その物体がいた場所に視線を向ける。
拳を前に出して構え、一瞬止まった茶色を見つめた。
直後、奴は羽を大きく広げ、耳に劈く音を響かせながら飛び上がった。
飛び上がった一直線上には、僕の顔がある。
突然のことに拳は動かず、脳を全力行使して首を傾けて躱す。
振り返って奴を見れば、その腹部に黄色い陰が見えた。
「クソッ」
舌打ちとともに放たれる鋭い声が、排水溝を、換気扇を、壁を突き抜ける。
再び飛び込んでくる奴に対して拳を握るも、嫌な未来が腕を縫い止めた。
あまりの理不尽に息を吐き、物体を見据えて腕をだらりと下げる。
俺はその絶望を、見ることしかできなかった。
「どうしたのッ?」
突如、扉が開かれ藍色の髪を持つ女性が包丁を持って現れる。
濁っていた意識が呼び覚まされ、絶望を前に両腕を構えた。
奴は俺の腕にぶつかることなく、彼女のその猟奇的な姿に驚いたのか、方向転換して壁に止まった。
息を吐く間もなく、俺は藤宮の隣に立って奴を見据える。
「奴が現れた」
呼吸荒ぶる俺とは反対に、彼女の呼吸は落ち着いている。
「奴って?」
息を吸い、ゆっくり吐いては心を落ち着かせる。
「虫だ」
「それはわかるけど、種類は?」
「何だろうな。昆虫かもしれないが、知りたくもない」
視線を奴から離さずいると、藤宮は視線をなぞってその茶色い物体を見やる。
「ああ、ゴキブリね」
口にしたくもなかったその単語に、悪寒が走る。
「どうにかして追い出したいんだが、殺せない以上どうしようもなくてな」
「殺せないって、触れないってこと?」
「それもあるが、卵の陰が見えてな。潰すと洗面所中に卵が四散することになる」
掃除すれば問題ないという話だが、生理的に受け付けない物をわざわざ散らばせるのは気が進まない。
「なら捕まえれば良い話なんじゃ」
「それもそうだが、生憎と触れなくてな」
周囲に気を配る僕に、藤宮は目を丸くする。
「ちょっと意外。虫苦手なんだ」
「ゴキブリに関しては全国共通だと思うが?」
「そう、なのかな?」
何やら視線を空に向けて言葉を濁す藤宮を横目で見て、すぐに失態に気づいた。
その一瞬の隙を狙って、奴が羽を広げる。
「藤宮ッ」
思わず叫ぶが時既に遅く、飛び出した一直線上には藤宮がいた。
「え」
小さく言葉を発し、視線を戻す。
既に眼前数メートルにいた。
やむを得ないと藤宮に迫りくる奴へ奮う拳を握る。
腕が動いたその直後だった。
「えいっ」
腕を奮う間もなく空気が揺れ動いた。
同時に、茶色く蠢いた物体は包丁を手放した白く澄んだ掌に包まれる。
羽ばたく音も壁や地面を走り回る音も消える。
ただその場には換気扇が回り続ける音だけが木霊していた。
眼の前の光景に唖然とし、ぎこちなく動く目を彼女に向ける。
藤宮は、居心地悪そうに目を逸らした。
「えーっと、これで良いの、かな?」
バツが悪そうに放たれた言葉に、固まっていた脳をフル活動して口を動かす。
「あ、ああ。聞きたいことはごまんとあるが、ともかくありがとう」
「ううん、気にしないで」
言いながら、藤宮は片手で掴んでいるそれを両手で包み直す。
硬直していた身体を動かし、大きく息をついて脳を休める。
休むために入るはずだった風呂場は、より大きな疲労を蓄積させていた。
「引いた、よね」
僅かに顔を青くしていた藤宮が口を開く。
息を吐いたのは失態だった、と気付いた時にはもう遅かった。
後悔を胸に押し止め、頭を掻いて縮こまる彼女を見る。
「別に。人間得意不得意がある。藤宮が虫を触れたところでなんらおかしいことはないぞ」
「ほんとに?」
「なんで嘘を付く必要がある。僕だって台所に立ってるだろ」
かなり古い概念ではあるが、かつて男は台所に立つことすら許されなかったと聞く。
おかしかったのか、彼女はふふっと笑った。
「確かに、貴方が料理どころか家事ができたのは意外かな」
「それはそれで複雑だな」
自分で言ったことではあるけども。
「だって、御曹司が自分で家事をしてる、なんて想像できる人いないよ普通」
「小説や漫画だとそういうのも多いからな〜」
何せ小説や漫画で出る御曹司はお坊ちゃんが大半を占めている。
料理・家事は執事やメイドに任せてることが多い。
推理小説で言うなら、殺人事件発生時は最初に部屋へ戻り殺される可愛そうな生き物だ。
「一人暮らしも意外だったし」
「そういう藤宮も一人暮らしだったろうに」
「まあね」
僕も人のことは言えないが、学年一。
下手すれば学校一の美少女と謳われる藤宮葵が一人暮らしなんて、どこの恋愛小説だというところ。
「あ、そうだ」
何か思いついたように藤宮は声を上げる。
「何か入れ物とかない?」
「それまたどうして」
突然の要求に疑問符を浮かべると、藤宮は気色悪そうに自分の手を見た。
「ほら、流石にずっと包んだままは気持ち悪いし」
「ああ、それならガシャポンの空があるし、それにでも入れよう」
風呂上がりに着る予定だった寝間着をボタンとめることなく羽織り、扉を開く。
廊下に出れば、彼女も続いた。
「そこは普通虫かごでは?」
「生憎虫が苦手だから、家には置いてないんだよ」
「使わないってことね」
そう軽口を混じえながら、僕らは階段を上り進めていった。