19.静止
杉本が呟き、互いに地を蹴りかけたその時。
爽やかな風が、頬をくすぐった。
「はーい、そこまで」
軽快さはまるでない、高校生とは思えないような落ち着いた声。
一瞬身体が縛られたような錯覚に陥り、自然と足が止まった。
目を細め、吟味するように声の主を見やる。
彼は前の扉からこっちに向かってゆっくりと歩いていた。
制服、雰囲気からして教師ではない。
だが、教師でもない彼が僕らの喧嘩を止める理由がどこにある。
僕らの間合いのちょうど間に入ったところで、彼は足を止めた。
その瞳は、優しく僕らを交互に見る。
「それ以上は認められないかな。ただの口論ならいざしらず、喧嘩まで発展するなら僕も見過ごせない」
「君は誰だ?」
目を細め、静謐な瞳を見返す。
「そうだね。一応自己紹介させてもらおうか」
彼は自身の胸に手を置く。
「僕の名前は桜花准。隣のクラスの学級委員だ」
「お隣の学級委員様が何をしにここへ来た?」
先程まで強気だった杉本が、忌々しそうに口を開く。
「さっきも言ったけど喧嘩を止めに来た。流石に学校で問題を起こしたくないしね」
ニコリと桜花は澄み切った笑顔を浮かべる。
――警戒する必要はない。
――ただの生徒だ。
そう自分に言い聞かせていても、何故だか意識を彼から離せなかった。
「......今やめるなら僕も見なかったことにしよう。どうする?」
一瞬細められた目に、僅かに身体が強張る。
微笑みから発せられる異様なまでの威圧感に、身体がずしりと重たくなった。
妙な、されど大きな違和感を抱きつつも、目の前の桜花を見返す。
爽やかな微笑みが、優しく返ってきた。
「わかった」
殺意を消し構えるのをやめれば、桜花は威圧感を消して微笑ましそうに笑った。
「......チッ」
杉本も拳を下げてそっぽを向く。
大人しく矛を収めたことにほっと胸をなでおろし、事の経緯を推し量る桜花准を見返した。
「杉本くんは教室に戻ってね。それまで僕はここにいるから」
柔らかな声の奥に滲む芯が、声音に宿る。
「おい白鷺」
緊迫感がまた生まれ、身体に力を込める。
「次は覚悟しとけ」
そう吐き捨て、杉本は廊下に消えていき、身体から力が抜けていく。
その姿を確認してか、見覚えのある女性が駆け寄ってくる。
直前で立ち止まって、藤宮は目尻を下げて僕の顔を覗き込んだ。
「大丈夫? 怪我はない?」
「ああ」
そう言葉を返しつつ、少し近めの藤宮から一歩距離を取る。
「本当? 嘘じゃないよね?」
それでも藤宮は顔を歪めながら更に距離を詰め、小さな衝動が胸の奥に生まれた。
「嘘じゃないから。安心してくれ」
小さく笑みを浮かべ、柔らかく言葉を返す。
ほんの僅かに、藤宮の締まっていた顔が緩んだ。
「喧嘩に発展しなくてよかった。桜花も、ありがとう」
桜花に声をかけるも、杉本がいなくなったのを廊下にまで覗き込んで確認していた。
「ん、ああ」
呼びかけに気づいたのか、桜花は目を丸くした後ニコリと笑みを浮かべる。
僕らの元に歩み寄り、近くで立ち止まった。
「私からも、ありがとう」
藤宮は未だ顔を歪めたまま大げさに頭を下げる。
桜花はにこやかな笑みを湛えたまま左右に手を振った。
「いいよ気にしなくて。前から彼の行動は目に余ってたからね」
「学級委員ともなると大変だな。そんなことに巻き込まれるなんて」
「まあ僕がやるしかないからね。今回はたまたま居合わせただけだし、いつもこんな風にはいかないよ」
ハハハ、と桜花は冗談っぽく声を上げて笑う。
「そういえば、一つ聞いていいか?」
「ん? 何かな」
即座に笑いを控え、桜花は小首を傾げる。
「杉本が桜花に少し怯えてるように見えたんだ。何かあるのか?」
桜花はくすりと口元を抑え、左右に首を振る。
「さあ、なんでだろう。僕にもわからないな」
その爽やかな笑みが胸の奥をざわつかせ、思わず眉をひそめる。
「ごめんね。僕もう行かないと」
言いながら、桜花は廊下に足先を向けて手を振る。
「ああ、悪い。時間取らせたな」
「ううん。じゃ、また」
手を振り返せば、変わらぬ微笑みを湛えて廊下の向こうに消えていった。
嵐が去ったことに安堵の息がこぼれ、自分の席に戻ろうしたその時。
手首あたりに引っ張られる感覚が走った。
「白鷺くん」
「どうした?」
袖を引っ張られていることにようやく気づき、彼女に向き直る。
その顔は俯いていて、はっきりとは見えない。
「何かあったら、私に言ってね」
それでも何を考えているのかが不思議とわかって。
「ああ。頼りにしてる」
依然消えない黒く燃え盛る炎を胸に、そう言葉を返すのだった。