18.問題
瞳に力を込め、その本を握りしめてほぐそ微笑む彼を見据える。
「返せ」
うちに籠る熱を抑え込みながら、声を発する。
「断る」
してやったり、と言いたげな下卑た笑みが僕に向けられる。
誰にも気づかれないよう小さく息を吐き、胸の奥で生まれたトゲを消化していった。
「それで、何のようだ?」
されど生まれる小さな衝動をなだめつつ、冷気が乗った視線を彼に返す。
「少し考えりゃわかるだろ?」
「さあ、さっぱりだ」
彼がただ本を奪うためだけに僕の元まで来たとは思えない。
何か、目的があるはず。
「通じねえやつだな。ちょっと面貸せよ」
「断る」
冷たく告げれば、彼は眉を顰めて本の両端を両手で掴んだ。
「お前が断れる立場だと思ってんのか?」
断れば、本を破るとでも言いたげだった。
「逆に、君は僕を従えられると思っているんだな」
吐き出す息がため息に変わり、呆れのこもった視線が彼を一瞥する。
「ノリ悪いな。そんなんだから葵ちゃんの評価も下がるんだよ」
「で?」
不思議と呆れに怒気がこもり、視線が熱を帯びる。
「藤宮のことも、御託ももう良いだろ。要件があるならさっさと言ってくれ」
一瞬足を震わせた彼であったが、誤魔化すように笑みを取り戻す。
一度本から右手を離し、左手でそれをだらりと下げた。
「金だけのお坊ちゃん程度、俺の支配下にあるぐらいがちょうどいい」
誤魔化すような笑みが、そこには浮かんでいた。
「ふーん」
彼が金だけ、というのも無理はない。
周囲の人間から見れば、僕はただの御曹司。
運動神経も並な上に勉強も平均程度の、肩書以外は一般人だ。
「なあ、一つ言っておきたいんだが」
言葉とともにジッと彼の瞳を見据え、その奥底に宿る想いを紐解いていく。
「藤宮は君のこと、好きじゃないみたいだぞ」
同時に、赤黒く染まった燃え盛る炎が目に映る。
その顔は引きつった我慢するような笑みへと変貌していく。
「お前、今は葵ちゃんのことは関係ねえだろ」
「あいつの話を持ち出したのはそっちだ」
彼の憤る姿が不思議と胸の奥で燻っていた熱を消火していく。
宿るのはただ鬱屈とした気持ちだけになっていた。
「それで、具体的には何をするんだ?」
杉本はゆっくりと机に本を置く。
回り込んで僕の隣に立ち、体重をかけるように机の上に手を置いた。
「そうだなー。お前は、俺に何で勝てると思う?」
「なら、君は僕に何で勝てるんだ?」
体制を整えて座り直そうとしたその時、風を切る音が聞こえた。
眼前に迫る拳に手を動かそうとするが、場所を考えてやめた。
僅かに首を後ろに傾け、威力を減衰させる。
「ッッ......」
違和感がないように椅子を倒し、受け身を取りながら地面に横たわる。
前とは違い席の場所は後ろ扉に近い位置となっていて、上半身は廊下へと出ていた。
「いつつ」
身体を起こし、視線を落としてポケットに手を入れ身体の状態を確認する。
怪我どころか、痛めた箇所もない。
朝早いクラスメイトは当然来ていて、周囲に目を向ければ絶句した表情で僕を見ていた。
「上手い具合に飛べたな」
視線を杉本に戻し、憤怒の表情を浮かべる彼を冷ややかに見つめる。
「てめえ、黙って聞いてりゃあ、いい加減にしろよッ!」
教室に声が響き渡り、クラスメイト全員が彼に視線を集める。
「俺がお前に劣ってるだってッ? そう言いてえのか?」
「それくらい自分の頭で考えろ」
冷たく乾いた空気が身体と同様に心を冷やしていく。
皆の視線が肌を刺し、思わず瞼を閉ざしてため息がこぼれる。
「ねえやばいって。先生呼ばないと」
「でも呼んだら何されるか」
「言わなかったら学校問題になるぞっ」
「関係ねえよっ、もみ消されんだぞっ」
口々にクラスメイトが言葉を交わすも、杉本が一瞥して黙る。
予想外の言動にピクリと眉が動き、冷めていく心に更なる理性が加わった。
「......学校は解決してくれないのか」
ポツリと言葉をこぼし、杉本に視線を飛ばしてどうしたものかと頭を捻る。
何かが蠢くのが視界に入った。
「おい杉本ッ!」
クラスメイトの男子が声を荒げ、杉本に向かって一歩踏み出す。
「やりすぎだッ! 殴る必要はなかっただろッ!」
「あ?」
顔をしかめ力強く言葉を放つ彼に対して、杉本はキッと鋭く彼を見据える。
ピクリと、彼の表情に焦燥と恐怖が滲んだ。
「なんだお前、邪魔すんなよ」
一歩、杉本は彼に向かって歩を刻む。
呼応するように、彼は一歩後ずさった。
「父親の会社が潰れて良いのか? あ? それで良いんだな?」
「そういうわけじゃない、けど、これは間違ってるッ!」
「良いのか? お前の言葉で家族が苦しい思いするんだぞ?」
熱のこもった冷気が杉本の身体から発せられ、クラス内をピリついた空気が覆う。
彼の顔は段々青くなっていき、一瞬開かれた唇は強張って噤まれた。
「それで良いんだ。わかったら黙ってろ」
ペッと唾を彼の足元に吐き出す。
杉本は先程よりも更に鋭い視線を保ちながら僕に向き直る。
緊張感がその場に迸り、立ち上がろうと足に力を込めたその時。
「え」
小さな声が耳に入り、先生かと期待が胸に生まれる。
「何、してるの?」
が、聞き覚えのある声が耳に入り、視線の方向をそっちに向ける。
「......なんでここに」
藍色の女性が心配そうに顔を歪めて僕を見ていた。
まずい、と急いで立ち上がろうとした時には後の祭り。
藤宮は僕に駆け寄ってしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
「大丈夫だ」
背中を支えようとするその手を遮り、激しい怒りが僅かな動揺に変わった杉本に視線を戻す。
つられて藤宮も視線をなぞり、一瞬呆気にとられた後。
眉間にシワを寄せて歯を食いしばった。
「やめろ」
冷たく口を開こうとする藤宮の言葉を小声で遮る。
藤宮は半ば驚いたように僕の顔を見る。
すぐに後悔したように顔は歪み、深藍の瞳は揺れた。
「これは私が貴方に関わったから起きたこと。私が解決しないと」
「藤宮が関わらなくても彼は僕に喧嘩を売ってたぞ。僕が何とかしないと、根本的な解決にはならない」
今回の件、彼女ならばすぐに喧嘩の原因を理解できるだろう。
それでも、もう彼女の悲痛に歪んだ顔は見たくない。
そんな想いを胸に言葉を続けた。
「それに、これは僕が解決すべき問題だ」
「だからってっ」
「頼む」
まっすぐに藤宮の藍の瞳を捉え、固い決意を持って見据える。
仮に藤宮が再び冷たく言えば、僕は『藤宮葵に助けてもらっている男子』というレッテルを貼られる。
周囲にレッテルが漏れれば注目どころではない。
殺意を向けられるのは必至な上に、僕の小さなプライドが廃る。
それだけは避けたかった。
納得したのか説得を諦めたのか藤宮は閉口して苦しそうに視線を落とした。
「怪我だけは、しないでね」
「勿論だ」
心配そうに紡ぐ言葉に、はっきりと肯定の言葉を返す。
立ち上がれば藤宮はすんなりと離れ、見守る形で教室の外に出た。
僕に任せるのは不安だろうが、当然とも言える。
今までの白鷺秋夜は『力もないただの御曹司』という印を押されていた。
それは藤宮も感じていたことで、高校生とは言え喧嘩を好む人間とは到底思えないだろう。
だからこそ、ストーカーの一件も踏まえ少しは変える必要性があった。
離れてくれたことに小さく安堵の息をこぼし、杉本に視線を戻す。
下卑た笑みは狂気に変わり、その目は僕ではなく教室の外を見ていた。
「葵ちゃんもいるんだね、良かった」
横目で彼女を見てみれば、気色悪そうに身を引く。
ならばこそ、契約者として、一個人として藤宮葵を助けなければ。
と、不思議と小さな熱が胸の奥で生まれた。
「杉本、その報い、しっかりと受けてもらおうか」
「ふーん」
狂気に満ちた笑みは嘲笑へと変わり、僕に向けられる。
敗北という文字は見えなかった。
「やってみなよ」
先ほどとは半ば違う、格闘技のような振る舞いで杉本は拳を構える。
手刀を作り、構えるようにして杉本に切っ先を向けた。
「じゃ、行くよ」
杉本が呟き、互いに地を蹴りかけたその時だった。
爽やかな風が、頬をくすぐった。