13.一級
しばらくして藤宮は一メートルはあるキャリーケースを手に家についた。
高杉さんが来るにもまだ時間はかかる上に今日も底冷えする寒さだった。
故に、彼女には風呂に入るよう促す。
ドライヤーの位置などを教えた後に風呂に入れる、許可を得たためまとめて洗濯に回す。
我が家の洗濯機はバスルームの眼の前。
つまり洗面所にあるのだが、そこの前を通る時にシャワーの音が響いていた。
風呂の音程度で興奮はしないが、それ以上に鼻歌が聞こえて気になったのは内緒である。
いくつかの洗剤を混ぜて投入し、洗濯開始のボタンを押した時ちょうどチャイムが鳴り響いた。
若干重たい足を引きずり、玄関へと向かう。
ガチャリ、と扉を開けると、そこには一人の女性の姿が。
腰付近で揃った艷やかな黒髪。
人を寄せ付けない鋭い目。
年齢を感じさせない肌。
一目で只者ではないと感じさせる立ち振舞。
かつて我が家に仕えていた一級執事、高杉志穂である。
高杉さんは丁寧に腰を折り曲げ、冷たい風が僅かに甘い香りを漂わせた。
「お久しぶりです。主様」
「その呼び方はやめろ。久しぶりだな」
治らない呼び方を指摘しつつ、その変わらない姿に小さく安堵の息をこぼす。
「順を追って説明する。とにかく入れ」
「はい」
背筋を伸ばし、寸分違わぬ歩幅で玄関に入る。
どこまでも隙のない立ち振舞は、やはり一級執事ということを痛感させられた。
リビングに入ると、ほんの一瞬高杉さんの顔が綻んだ気がした。
余っていたコーヒーを別のマグカップに注ぎ、高杉さんの前に置く。
同時にマグカップの隣に一枚の紙を置いた。
「契約書だ。目を通しておけ」
促せば、コーヒーを口にすることなくじーっと紙を見つめる。
内容に関しては給料、雇用期間、禁止事項が書かれている。
と言っても昔と違い現在高杉さんは一般企業で働いているし、夜に過度な働きをさせるつもりは毛頭ない。
「はい。これで問題ありません」
鞄から印鑑を取り出し、僕の印の隣に押す。
ちょうどその時、ガチャリとリビングの扉が開いた。
「ふ〜、スッキリした〜」
藍色の瞳に同じ色の髪を持つ人物、葵である。
その顔はゆるゆるに綻んでおり、廊下の寒さ故か身体からは僅かに湯気が昇っていた。
彼女は椅子に座る高杉さんに気づき、綻んだ笑顔を他所に小首を傾げる。
「あれ、どなた?」
高杉さんは音を立てることなく立ち上がり、丁寧に腰を曲げてお辞儀する。
「本日より葵さんの指導ご鞭撻を行います。高杉志穂です。よろしくお願いします」
「こ、これはご丁寧にどうも......」
彼女も慌てたように腰を曲げる。
互いに頭を下げ合っているわけだが、僅かに覗く彼女の瞳は動揺を隠せずにいた。
コーヒーを啜り、ゆっくりと息をつく。
「高杉さんは昔我が家に仕えていた執事だ。これから給仕の仕事はこの人に教えてもらうことになる」
声を上げれば、瞳には動揺の代わりに疑問が浮かんでいた。
「貴方じゃ駄目なの?」
腰を曲げたまま訴えられる。
高杉さんの腕を案じているのか、はたまた僕が給仕業に乗じて何かすると踏んでいたのか。
「生憎、給仕業は専門じゃないんだよ。指導はその道のプロに教わったほうが良いだろ」
「そうだけど......」
不服そうに眉をひそめる。
期待外れ、というよりはこの先を案じているかのように見える。
僕がわざわざ専門家を呼んでまで修行をつけさせることに気圧されているのだろう。
「お言葉ですが」
姿勢を正し、高杉さんが葵に向かって口を開く。
「秋夜様は白鷺家の御曹司です。曲りなりとはいえ、給仕を務めるならばそれなりの覚悟と修行が必要でしょう」
「まさかそれを知ってて私に給仕を頼んだんじゃ......」
彼女の言わんとすることは尤もだ。
僕にとって、藤宮葵という存在は棚からぼた餅のように偶然起きた幸福のようなもの。
仮に彼女が僕の前に現れなければ同年代ぐらいの女性執事を雇って、高杉さんに修行をつけさせるつもりでいた。
無論、その女性執事たちは藤宮より腕も立っている。
そこまでの修行は必要ないだろうが、彼女は違う。
完全な初心者。
十を百に成長させるのと、零を百に成長させるのとではレベルが全く違う。
もしその厳しい修行を伝えていれば彼女は了承しなかっただろう。
偶然とはいえ契約初日に問題に巻き込まれた仕返しのようなものである。
彼女も僕にその情報を伝えずに契約を完了させたわけだし。
「正直、身体を壊さない程度には頑張ってもらうつもりではいた」
伝えれば、彼女は身を上げて口をきゅっと結ぶ。
「代わりに、休息だとか給料みたいなのは出してやるから」
「いらない」
眉間にシワが寄った。
「休息いらないのか?」
「そっちじゃなくて、給料のほうがいらないって意味。というか前いらないって話したよね」
金目当てで近づかれるのは嫌いな僕が言うことではない。
が、果たして彼女は給料なしで良いのか。
先ほどの口ぶりからして一人暮らしのようだし、お金はいくらあっても困らないはず。
「良いのか?」
「ここでの生活費を折半してもらうだけで充分だよ。今までも一人で暮らしてきたわけだし、不必要なお金はいらない」
金で釣られるというのは癪ということか。
「なら、困っていることがあったら僕に頼め。できることはしよう」
「じゃ、それでお願い」
納得したように顔の強張りを解いて息を吐く。
気が抜けたのか、机に突っ伏せた。
「それで、今日からここに泊まるので良いんだな?」
万が一にも手を出すことはないと信じたいが、僕も男だ。
何かあってからでは遅い。
「良いよー」
「なら、早速修行をしてもらおうかと思うんだけど」
高杉さんに視線を向ければ、理解したように頷く。
彼女は机の上で腕を組み、その隙間に顔を埋めた。
「今日はもう疲れた。明日からするー」
ややくぐもった声から聞こえる呼吸はゆっくりと落ち着いていた。
大幅な移動、新しい環境で疲れが出るのはわかる。
が、そのまま寝られては少し困る。
「藤宮――」
と呼びかけたその時、側に立っていた高杉さんが彼女の元に歩み寄った。
そのまま両手で両肩を揺らせば、不思議と少しずつ身体が起き上がっていく。
瞼は閉じられたままだというのに、姿勢はピンとまっすぐになっていた。
椅子を回転させ、彼女の前にしゃがみ込み片方の手を両手で包む。
「葵さん、起きてください」
真摯な表情で呼びかける。
「んー」
完全に睡眠に入っていた彼女からは、僅かに鼻提灯が見えた。
その安らかに寝息を立てる姿に呆れたのか、高杉さんは小さくため息をこぼす。
「仕方ありませんね」
呟きながら、高杉さんは彼女の手をこねくり回し始める。
次の瞬間、彼女がハッとしたように目を覚ました。
「な、何っ?」
焦ったように、彼女の頬が紅潮し始める。
「ツボか」
前にテレビで聞いたことのある技術だった。
「葵さん、修行を始めますよ。起きてください」
「だ、だから明日から〜」
視線を右上に逸らし、逃げるように再び身体を机の方に動かそうとする。
だが、高杉さんに握って止められる。
「葵さんの場合、そう言ってずっとやらないのがオチでしょう。ほら、立ってください」
「え〜」
促されるがままに立ち上がり、周囲を動き回る高杉さんに丸くなっていた姿勢を正されていく。
眠たげな表情は変わらないものの、その姿勢は最早女子高生と認識できないほどに整えられていた。
「それでは主様、目標はいかがいたしますか?」
彼女の矯正を終え、姿勢をピンと正した高杉さんが問いかける。
「主様はやめろ。しかし、そうだな......」
くるりと視線は宙を描き、空を見つめて止まる。
彼女の腕をある程度見てから決める腹づもりだったので、まだ目標を決めるつもりはなかった。
高杉さんならば彼女を世界に数人の一級執事に育て上げることも可能だろう。
が、今回はあくまで子供間の契約。
一級まで育て上げようにも時間が足りない。
更に言えば、仮に詰め込めたとしても確実に日常生活に支障が出る。
僕らはあくまで学生。
ただの契約を優先して学業を疎かにするなどという事態は絶対に避けなければならない。
「二級。できれば準一級まで仕上げてくれ」
「かしこまりました」
「準一級......」
考え込むように藤宮が呟く。
「本当に、やらないと駄目なんだよね?」
「ああ」
大きく頷いて、言葉を続ける。
「仮にこれが失敗すれば、僕の人生は大きく変わる。それを避けるために頑張ってもらいたい」
「そっか」
藤宮は俯き、喉を唸らす。
再び顔を上げた頃には、その瞳に硬い意志が宿っていた。
「わかった」
「よし」
小さく微笑みながら頷き、高杉さんに視線を移す。
「給料に関しては契約通り。細かい一日の予定表は別で送っておいた。時間がある時に目を通しておいてくれ」
「かしこまりました」
「予定表?」
隣で藤宮が小首を傾げる。
「ここで生活してもらうからには、ある程度こっちの習慣に慣れてもらうぞ」
「それは私もそのつもりだったんだけど、そうじゃなくて」
彼女の手が空気の箱を手にして、何もない横に置く。
「具体的に何が変わるのかなって」
「夜家に帰った後に給仕修行を始めるだけだ。多分そっちの生活とそこまで変わらない」
「ふ〜ん」
藤宮は宙に視線を滑らして疑問符を浮かべる。
取り合うことなく高杉さんに向き合った。
「じゃあ、早速頼む。僕は二階でやることがあるし、何かあったら呼んでくれ」
未だ考え込む藤宮を他所に手をひらひらと振り、息を吐きながら立ち上がる。
マグカップを洗剤で拭いてから水で濯ぎ、水切りかごにひっくり返した状態で置く。
扉に手をかけたところで、声が聞こえた。
「では葵さん、今から私が給仕の真髄を教えて差し上げましょう」
「え? 寝間着でやるの?」
「勿論、私の持参した給仕服を着ていただきます」
「メイド服っ!?」
「正装であれば何でも構いませんが、冬夜様......秋夜様のお父様が相手ならば変装するに越したことはないでしょう」
「変装って、白鷺くんのお父さん、どんな人なの......」
ポツリと呟かれたその言葉を最後に、バタンと扉が閉められる。
彼女が父さんの人間性を訝しむのは尤もではある。
が、今教えたところで考えることを増やすだけだろう。
ひとまず、給仕修行に関してはこれで安心だ。
聞いたところ、彼女はあまり勉強ができない。
前回は赤点ギリギリの危ないラインだったらしく、良くて上位四十パーセントだという。
本人曰く「勉強よりもやることが多くって」と目が泳いでいた。
父さんは何かと質問したがる特性がある。
息子の(偽)恋人ともなれば、学業や運動、地位などありとあらゆる物を調べようとするだろう。
無論、金の力を使うことも予想される。
直接彼女に聞かれないのなら、後は調査を妨害することでどうとでもなる。
万が一にも妨害できなかった場合に備えて、彼女をできる限りの完璧人にしておく。
これでも成績優秀者である僕が教えれば、二時間程度で何とかなるだろう。
自室に入り、パソコンが置かれている机の前に座る。
明かりをつけ、パソコンを起動して画面と向き合った。