25.友人
「ん」
ふと目に天井の光が入り込み、眩しく感じながらパチリと少しずつ目を開く。
今何時だろうかと身体を起こせば、鈍痛が頭を、気だるさが身体の全体を覆っていた。
鼻水が溜まっていたのか喉の奥も腫れぼったく、鼻水はこもった熱で溶解されて鼻の中を這いずり回る。
ズズ、とすすれば鼻の奥の炎症が更に鈍痛を悪化させた。
「......お腹空いたな」
ポツリと呟き、どうしたものかと考えたその時、パタパタとスリッパが地面をこすれる音が静かな保健室に響き渡る。
正体は考えるまでもなく、ジャッと開かれたカーテンの向こうには意識が途切れる寸前にいた女性の姿があった。
「起きたのね。調子はどう?」
「最悪です」
「それはまた、風邪なのかしら」
冷静な先生を他所に、空いたお腹は音を奏でる。
「今何時ですか?」
「二時。六時間目が始まって十分くらい」
「そうですか」
体育は一時間目だった。
これだけ寝たのは単純な寝不足か日頃の疲れか原因はさておき、あれからかなり眠っていたことになる。
実際のところは何度か途中で意識を取り戻したが、かなり気分も悪くそのまま寝入っていた。
そして、身体を起こせる程度に体調も回復したのが今ということになる。
「高杉さんは、迎えに来られそうですか?」
僕の言葉に、養護教諭の先生の眉間に僅かなシワが寄る。
「あー、それなんだけど、忙しくてどうしても外せないみたい。迎えに行けても六時くらいだって」
「そうですか」
朝に葵から遅く帰る、という伝言を聞いた時点で何となく予想はできていた。
元一級執事とはいえ、現在はただの一般会社員。
高杉さんほど器用な人なら、会社内でも仲間内でも頼りにされているはず。
祖父母を呼ぶわけにもいかない。
今回ばかりは学校で大人しく待機するか個人で帰宅するしかなさそうだ。
「......お腹すいたな」
胃の中の虚無感に思わずお腹を抱え、小さく呟く。
休み時間なら弁当を取りに行くこともできたが、生憎今は授業中。
自習時間であればやりようはあったがそういうわけでもない。
安易に教室に向かえば変に目立つことになる。
呟きが聞こえたのか、養護教諭の先生は机の上を指差す。
「そうだ。貴方の友達が弁当を持ってきてたわよ」
「弁当?」
視線を指の方向になぞれば、見覚えのある藍色に包まれた弁当箱がそこに佇んでいた。
「友達って、一体誰が」
友達、という言葉で誰の姿も浮かばない。
「葵さんね。あの子が昼休みにわざわざ持ってきてくれたわ。ちょうど人が少ない頃に」
「藤宮が......」
先生の言葉に、言葉が詰まる。
――なんで友達。
――なんでわざわざ。
いくつもの疑問が頭を埋め尽くしたが、考える余裕もなく、巡る思考を放棄した。
「恋人なのって聞いたら真顔でいいえって言ってきたから、先生ちょっと怖かったわ〜」
雑談のつもりなのか、先生は口元を抑えてくすくすと笑う。
ここで心が傷まないあたり、自分が藤宮を意識していないことに心底安堵した。
「それにしても、秋夜くんが葵さんと友達までいってたのは驚きだったかな。そんな感じなかったから」
「それ、僕を見て言ってます?」
確かに僕は女子どころか人との関わりは少ないが、その感想はいかがなものだろうか。
「いいえ、二人を見て」
が、先生の柔らかに微笑むその顔を見て、負の感情は消え去った。
何を思っているのか、先生は微笑んだまま柔らかく言葉を続けた。
「当人のことだからあまり深いことは言えないけど。葵さんから男の子を『友達』って呼んでるのは初めて聞いたわよ」
「あの藤宮が?」
反応が面白かったのか先生は口元を軽い拳で抑えてクスクスと笑う。
「秋夜くんからしたら意外でしょうね」
「ええ、まあ」
確かに、葵は男子を嫌う傾向がある。
が、それはあくまで自身に好意を向けてくる人だけと聞いている。
女性や単純に親しくしたくて関わっている男子なら藤宮は友達のはず。
僕はその友達の中でも端くれだとばかり思っていた。
「まあ、相談室開いてるとよくある相談なんだけどね。『本当に相談できる友達がいません』みたいなこと」
「聞いたことあります」
前に読んだ誰かのエッセイで、日本人は自分の存在価値を他者の存在によって確定付けられると書かれていた。
つまりは友情などの人との関わりがなければ生きられない、といった人への依存。
それが日本人には多いのだという。
「葵さんが友達って言ったってことは、貴方のことはそれなりに信頼しているみたいよ」
信頼、という言葉が、頭に暗がりの記憶を映し出す。
回らない思考はその映像を断ち切ることはできず、自身の不甲斐なさにため息がこぼれた。
「それ、僕に言って良かったんですか?」
弁当箱を手に取り疑問をぶつければ、先生はニコリと微笑んだ。
「あら、必要だと思って言っただけよ。余計なお世話だったかしら?」
「ええ、大きなお世話です」
「あらあら」
思わず言葉にトゲが入るも、先生は気にした様子もない。
その姿勢にため息をこぼしたくなるもグッと堪え、弁当箱を机の上に置いて椅子に座る。
「いただきます」
軽く手を合わせ、箸を手に取った。
「弁当食べたら歩いて帰ろうと思います」
「あら、大丈夫なの?」
「多少歩ける程度には回復しましたし、家まで数十分も歩けば着きますから」
できれば歩いて帰りたくないというだけで、全く歩いて帰れないわけではない。
家に帰った後体調が悪化するのは確約される。
が、六時まで学校に残ることと比べたら大したことではないだろう。
藤宮と高杉さんには悪いが、今日の修行は中止になる。
「けど、外雨よ?」
「え」
外を眺めながら紡がれた先生の言葉に、足を止めて視線の先を追う。
言っていた通り、かなりの量の雨が窓に強く叩きつけられていた。
「朝は晴れてましたよね」
「そうね〜。天気予報で雨が出されたのは今日の朝だから、知らないのも無理ないわ」
「この地方は天気の急変が激しくて大変ですよね」
人生の八割以上を今の地域で過ごしているが、いつになっても天気の悪さは変わらない。
それこそ家には洗濯物を干す専用の部屋があるほどに雨は多い。
稀に快晴を見せることもあるが、逆にいえばその稀がなければほとんど曇天だった。
急な雨がないのはまだ救いだろうか。
「それで、雨は降ってるけど、大丈夫なの?傘とか」
「家に忘れてきましたね。予想してなかったですし」
幸い高杉さんの配慮で洗濯物は屋内に干されているためそこの心配はない。
が、自分の身の方は全くと言っていいほど考えていなかった。
「まあ、このくらいだったら急いで帰れば大丈夫でしょう。まだ暖かい時間にさっさと帰りますよ」
外の雨脚を一瞥し、箸を進める。
「駄目よ。傘もなしに病人が外を出歩くなんて、教師として許せないわ」
「足ありませんし、家もそんな遠くないので大丈夫ですよ」
「駄目ったら駄目。倒れたら誰が運ぶのよ」
「通りがかった人が救急車でも呼んでくれますよ」
「それを前提にしているなら余計に許せないわよ」
予想外にも頑なに否定し続ける先生にふと視線を向ける。
真摯な瞳の奥に確固たる決意が固まっていた。
「......といっても、帰る方法ないんですよね」
「せめて皆が帰れる時刻に帰りなさい。それこそ倒れた時に誰か助けてくれるわ」
「そうですかねー」
乾いた笑みが口からこぼれる。
仮に僕が倒れたとして、学校の生徒が僕のことを助けてくれるのか、と聞かれると怪しい。
今現在藤宮の件で皆から冷たい視線を浴びている以上、見捨てる人も少なくないと予想できる。
「ちょっと嫌われ気味なので、皆助けてくれるとは思えませんよ」
「そんな卑屈になったら、人生つまらなくなっちゃうわよ」
「まあ善処します。できれば」
「全く」
呆れ半分、責め半分含んだジトリとした目がこっちを覗く。
「ごちそうさま」
先生の疑心の目を無視し、パタンと弁当箱を閉じる。
「それで、帰っていいですか? ほんと、帰れるなら早く帰って寝たいんですよ」
学校でも寝られないわけではないが、やはり知らない天井だと寝付きも悪い。
「......貴方も頑なね」
「それが僕の長所なので」
「そうなのかもね」
冗談交じりの言葉に先生はうーんと頭を捻り始める。
割と早く言葉は出た。
「......仕方ない、取引しましょう」
「取引?」
久しく聞いた言葉に疑問符を浮かべれば、先生はニコリと微笑んだ。
「貴方に葵さんのこと教えちゃったから、それを黙っててくれるなら帰るのを許可してあげる」
「......元から藤宮に教える気なかったんですけど」
「あらそう。なら他のことでも頼もうかしら」
何にしようかな、と先生はウキウキといった風に天井を見上げた。
「すみません、聞かなかったことにしてください」
「そう? 気をつけて帰るのよ」
「まだ帰るわけじゃないですけど、覚えておきます」
そこでようやく微笑みが消え、悩むをにじませて言葉を放った。
「葵さんにも帰ったこと伝えておきましょうか」
「なんで藤宮に」
「だって、わざわざ弁当まで届けてくれたのよ? それくらいは教えてあげないと」
「でも」
「ああ、拒否権はないからね。これは養護教諭として貴方が雨の中傘をささずに帰ることを見逃す代わり」
あまりにも強かな発言に、開いた口が塞がらなかった。
「あら? どうかした?」
嫌な汗が背中をつたい、ハッと気づいて箸に意識を戻す。
「......まあ、そういうことなら伝えておいてください」
今、葵と僕は同じ家に住んでいる。
葵には先んじて帰っていることを伝えて置かなければ彼女が不安がる可能性もある。
「ちなみに倒れたら私の責任になっちゃうから、無理しちゃ駄目だからね?」
「それは勿論」
倒れるなら人通りの少ない裏路地にでもしておこう、と小さな決意が固まった。
「荷物はどうするの?」
「あと十分で授業終わるので、休み時間になったら取りに行こうと思います」
「そうね。それが良いわね」
先生も僅かに微笑み、満足したのかコクリと頷く。
そのまま手元の資料を覗き、自身の携帯を手に取った。
「一応親御さんには連絡しておくから、気を付けて――」
「親御さんって、父さんのことですか」
嫌な予感が脳裏に浮かび、思わず先生の言葉を遮って口を開く。
突然のことで驚いたのか、先生は目を丸くして僕を見ていた。
「ええ、まあ」
そこでようやく自分が何をしたのか気づき、視線を伏して弁当の片付けを始めた。
「すみません、なんでもないです」
「そう?」
不思議そうに小首を傾げる先生に、視線を合わせることなく扉に手をかけた。
「それじゃあ、鞄取ってきます。お世話になりました」
「帰る前に顔出しに来るのよ〜」
脳天気な声がピシャリと閉められた扉で掻き消える。
冷たい空気が身も心も突き刺した。
「......かなりやられてるな」
自嘲気味に呟き、その足を教室へと向けた。
遅い足取りは十分という時間を無限に感じさせ、上る足を鉛の如く変貌させる。
冷気とは別に段々と騒がしくなりつつある声が、今後の展望を考えさせてため息を吐かせた。
やがて教室に入り、妙な視線が身体中を鋭利に突き刺す。
それすら気にする余裕もなく鞄を持って教室を抜け出した。
同じ足で階段を下り、今度は先程よりも短い時間で保健室の扉を開いた。
「帰ります」
「はい、さよなら。気をつけて帰るのよ」
視界が僅かにぼやけ、その柔らかな声がぐるりと頭を巡る。
その言葉を飲み込むことなく扉を締め、玄関にて靴を履いた。
外はザーザーと強くもなければ激しくもない雨が降っているも、それすら心に陰を落とす。
鞄が濡れないように、だとか服が濡れないように、だとかそんな考えは一切浮かばない。
ただ響く雨音の中を、一歩踏み出した。
銅像の正面を抜け、校門をくぐり、車の少ない道を静かに歩く。
揺れる視界は更に身体と心の神経を摩耗させ、呼吸は深く幅は狭まっていく。
曇天の中響く雨音だけを頼りに意識を支え、小さな一歩を続けていた。
どれだけそんな時間が続いただろうか。
無限に感じる距離を歩き続けた末、見覚えのあるそれなりに豪華な民家が視界に入った。
普段通りであれば十秒もせずにたどり着くその温もり。
されど、その感じていた温もりが更に身体の中の熱を冷まし続けた。
ピシャリ、ピシャリと。
重たい足が水たまりに打ち付けられ、雨音に混ざる。
次第に闇に染まっていく視界に気づき、手で壁に体重をかけながら足を進めた。
ようやくその扉に手をかけ、ガチャリと開く。
「た、だい」
その言葉を言い切る前に、激しい鈍痛が身体に響く。
全身で触れるそれは、極寒の如く冷たい。
倒れた。
その事実に気づくとともに、揺れていた意識は次第に闇に消えていった。