24.代償
バシャン、と。
静寂に包まれた川沿いで、冷ややかな音が響き渡った。
同時に、数多くの視線が自分に集まったのを痛感した。
「大丈夫かい?」
心配そうに苦い笑みを浮かべながら准が顔を覗き込む。
髪はしっとりと沈み、水滴を落とす前髪は普段以上にだらりと下がっていた。
「わりーッ」
視界の隅で集団から一人の男子生徒が走り寄る。
側までやってきたかと思えば頭を下げた。
「ほんっとごめん! 悪気はなかったんだっ!」
小さくため息をつき、首を振って髪についた水滴を振り落とす。
「気にしないでくれ。ただ、タオルを貸してくれるとありがたい」
「あ、ああ!」
そう言い、男子生徒はペットボトルが投げられた方向に走っていく。
前髪を手でも軽く左右に振り、自身のジャージに視線を落とす。
下半身まで濡れたわけではない。
が、元々青かったジャージの両肩部分が深い青へと変色していた。
「これ使ったら良いよ」
視界の隅に畳まれた白いタオルが映り、差し出した人物に視線を向ける。
不気味なほどに爽やかな微笑みが、やはり覗いていた。
「さんきゅ」
差し出されたタオルを受け取り、頭に被せて両手で拭う。
「ジャージ、脱いだ方が良いんじゃない? 冷えるよ」
「確かに」
言われるがままにジャージの裾に手をかけ、上へと上げる。
僅かに湿った肌が自然の冷風に当てられ、思わず身体が震えた。
「お」
准が声をこぼし、まじまじと顕になった二の腕を見る。
「どうした?」
「秋夜、もしかして身体鍛えてたことある?」
自身の腕に視線を落とす。
脳裏に映る記憶がどんよりと頭を撫でた。
「一時期な。今はしてない」
「そっか」
深く瞬きをし、映像を奥に沈めこんで顔を上げる。
皆が僕らに視線を集中させていることに気づき、横目で体育科の先生を見た。
目が合い、先生は若干焦ったように川沿いの生徒に視線を戻す。
「はい、始めるぞー」
ピッと音がなるとともに、全員駆け出した。
直後、男性教師が僕らの元に駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「はい、怪我はありませんし」
「なら良いんだが......」
言いながら、先生は怪訝そうにペットボトルが放られた方向を見やる。
先程謝罪があった生徒が、僕に向かって走っていた。
「ごめんね、遅れたっ」
その表情は罪悪感で彩られていて、手には白いタオルが握られている。
僕の前で減速を始めた彼の前に先生が割って入れば、すぐに顔色も悪くなっていった。
「何をしていた」
鋭い視線が彼に突き刺さり、周囲の空気が重くなり始める。
「えっと......」
男子生徒は視線を逸らし、ふとペットボトルが放られた方向に視線を向ける。
先生も追って視線の方向を見る。
そこには彼がつるんでいるであろう、数人の男子が顔を青くしていた。
「あいつらが何か知っているのか」
目の前で固まる男子生徒を一瞥し、通り過ぎて青ざめる生徒たちに足を向ける。
途中でもう一人の体育科の先生に腰を折った。
「先生、しばらく頼みます。私は少し話を聞いてきます」
「はい」
年上らしいその先生は微笑みながら鷹揚に頷き、川に目をやる。
顔を上げた先生は、集団の男子たちにゆるりと足を動かし始めた。
彼らも青ざめるばかりで、逃げようとはしない。
やがて先生は目の前に立ち、睨みを利かせて数人の男子生徒達を攫っていった。
「あの先生が怒るなんて、珍しいこともあるもんだね」
隣で准が他の生徒に聞かれないよう呟く。
その顔には苦笑が浮かんでいた。
「そんな温厚な人なのか?」
「まあ平時で怒る人じゃないんだよね。強面の割に怒らないことで有名だよ」
「ふーん」
校舎の影に向かう先生の背中を一瞥し、一度頷く。
「それで」
視界の隅で、先生に連れて行かれなかった男子生徒に声をかけながら振り返る。
「君はどうしたんだ?」
問い掛ければ、彼はタオルを握って頭を下げた。
「その、謝りたくて」
「今更何を謝るんだよ。おおかたあいつらの悪ノリが原因だろ」
今朝の話を聞いていてもわかるが、自分の評判の悪さは自分がよく理解している。
目の前にいる彼が悪さをするような性悪の人には見えない。
それに、話していても嫉妬の視線は感じなかった。
「でも、俺は止められたし」
「気にすんな」
「でも......」
「あのな」
ふっと胸から息を吐き出す。
「そんなこと気にしてどうする。周囲の意見を自分が全部変えられる、なんて思うのは傲慢だぞ」
グループの空気。
合わせる空気。
目には見えない空気。
その空気が僕に悪戯する一因となっているのは確か。
自身を責める言葉を全て否定された彼は、居心地が悪そうに眉をひそめる。
ふっと微笑みがこぼれて、その肩に手を置いた。
「確かに、君の謝罪と僕を想って行動してくれようとしたのは嬉しい」
強張った彼の顔が僅かに緩む。
「けどな、そんな気負うなよ。僕が嫌われてるんなら、その評価をこれから変えていくだけだ」
こうも嫉妬の視線に晒されるのは三割ほど藤宮の責任ではある。
が、残りの七割は僕の責任になる。
僕の評価が低いから、皆藤宮に近づく僕を忌み嫌う。
なら、その評価は少しずつでも正していけば、自ずと悪戯は止む。
――だからこそ、少しづつ改善していかなければならない。
「......そっか」
「謝罪の意思はちゃんと受け取っとくぞ」
強張っていた顔が解け、小さく呟いた彼に素気無く返す。
「ああ、それで頼む」
「ほら、元のところに戻って女子達の応援でもしてやれ」
いやらしい目つきで川沿いに集まる男子達を視線で指し、タオルを頭から首に下ろす。
「俺をあいつらといっしょにしてほしくないんだけど......。まあ、応援はしてくる。ごめんな」
「気にすんなって」
なんだかんだ言いつつも川沿いに向かう背にふっと笑みをこぼし、身体から力を抜く。
川沿いで女子達を応援する大半の男子は藤宮目当ての人間達。
その数十人におよぶ男子達が、藤宮の人気度を表している。
「あー、そうだ准」
揺れる視界から意識を保ちつつ、隣で女子たちを遠目に見る彼を呼ぶ。
「僕は保健室に行ったと先生に伝えといてくれないか」
意外だったのか、准の目は丸くなる。
「ん? 良いけど、体調でも悪いの?」
「ちょっとだけな。熱測ってきたい」
「わかった。いってらっしゃい」
准の爽やかな見送りの言葉を首肯し、校舎の方に踵を返す。
川沿いから離れ、誰の姿も見えなくなった頃、校舎の壁に手をつきふっと大きく息を吐いた。
吐き出されたそれは白く濁っていて、いつもより熱っぽく湿っぽい。
いつもの倍近い時間で玄関に入り、靴を履き替えて階段を上る。
ズシリと身体は鉛が乗ったかのように重い。
足取りは力なく段差に引っかかった。
「あー、くそ」
普段の何気ない階段に苛立ちを感じつつ、されど壁に体重を預けて前に突き進む。
荒れる息は走っていた時の比ではなく、熱く弾み浅い。
階段を登り終え、壁伝いに誰もいない廊下を一歩ずつ進んでいく。
やがて目的地にたどり着き、ガラガラとスライドして中を確認する。
「あれ、どうしたの」
保健室の先生がパソコンに向かって座っており、驚いた表情で僕を見る。
一度大きく息を吐き出し、吸った息で声を絞り出した。
「少し、熱っぽくて。体温測ってもいいですか」
「ええ、良いけど......顔赤いわよ?」
「走った後なので」
「そう?」
言いながら、先生は体温計を手に立ち上がる。
「これ、体温計。とりあえず座りなさい。辛そうよ」
「はい」
体温計を受け取り、保健室に置かれているソファーに座り込む。
瞬間、どっと力が身体から抜け落ち、頭が真白に染まった。
ぼーっと回らない頭を使ってなんとか脇に体温計を差し込む。
じっと天井を見上げてその時を待つ。
数秒してピピピと音がなり、脇から取り出したそれを持ち上げて読み取った。
「......38.3」
「あら、熱あるわね」
「......走った後だからじゃないでしょうか」
回らない頭は回らない舌を力なく勝手に回す。
「夏ならともかく、今は冬でしょ。それだけ熱出てたら風邪かインフルよ」
「......ですかね」
乾いた笑みが浮かび、視界は狭まり意識は闇に誘われる。
「ほら、病人は布団に入ってゆっくりする。親御さんは?」
「......生憎海外ですね。忙しい人なので」
先生は保健室の棚から緊急連絡先用のファイルを取り出し、ペラペラとめくっていく。
「......あら、緊急連絡先少ないじゃない」
ポツリと呟き、ファイルをパソコンの側に置く。
パソコン前の椅子に座り、側にある受話器を手に取った。
「誰か迎えにこれる人はいる?」
「......家族は皆出払ってるので」
そこまで言って、脳裏に切れ長の髪を持つ執事の姿が浮かぶ。
「......迎えを呼ぶなら、高杉さんにお願いします。仕事中ですので、電話に出るかはわかりませんが」
ソファーから立ち上がり、先生の机の前にある長テーブルの鉛筆を手に取る。
「これ、電話番号です」
近くの白紙のメモ用紙に高杉さんの電話番号を記した。
「わかったわ。それじゃ、後はなんとかしとくから病人は寝なさいな」
先生はメモ用紙を確認し、ジャッとベッドのカーテンを開く。
「......そうします」
残された力を振り絞ってベッドに座る。
靴を脱いで足をベッドに乗せる。
頭を枕の上に乗せれば、何とも言い難い解放感が僕の身体を襲った。
「じゃ、ゆっくりね」
最後に先生がそう言い残したのを聞き、僕の意識は闇に消えていくのだった。