23.噂
寝坊とは裏腹に時間通りに登校し、席に座ってブレザーを脱ぐ。
「......暑いな」
第一ボタンを外してパタパタと空気を送り込み、額に流れる汗を掌で拭う。
「おい、あれ......」
何やらボソボソと声が聞こえ、横目でその方向を見る。
窓側の隅っこの席で三人組で話す男子の姿が映った。
「お前どう思う?」
「どうって、何の話?」
男の一人がわからないと言うように首を傾げる。
「白鷺と杉本のやつだよ。ほら、昨日藤宮さんが助けに入ったやつ」
「あー」
思い出したように相槌を打つ。
話を聞いていたもう一人の男子が口を開いた。
「オレはあんまし興味ねーかな」
そう言う男に、話を出した男が怪訝そうに疑問符を浮かべる。
「ノリ悪いな。オレが思うに、あいつ媚売ってるぜ」
「葵さんに?」
未だ意見を出していない男が言う。
「ああ」
「確かに仲は良いかもしれないけどさ、媚を売るっていうのは難しくね? だってあの塩対応の葵さんだぞ?」
「友達関係までなら行けるだろ。あいつが普通にやって藤宮さんに好かれるわけねーし」
「そういうもんか?」
男はその発言に首を傾げ、不思議そうに声を漏らす。
「そういうお前はどうなんだよ」
「俺? 別に聞いても面白くないと思うけど」
「いいだろ言えよ」
詰め寄る発言者に、男はそっと息を吐き出して困ったように笑顔を浮かべた。
「俺は、見直したかな。白鷺が自分から手を出さなかったのは良い点だと思うよ」
「えー、そうか?」
「ははは」
乾いた笑い声が聞こえ、彼らへの意識を切る。
学校に入った時から多種多様な視線にさらされていた。
が、基本的な内容は先の会話と同じ。
多少悪く言われるぐらいなら藤宮も関わるわけにもいかず、僕が説教をやめるよう伝えている。
下手に彼女が動けば、この噂が広がる可能性も高い。
それでも、僕を悪く言うような言葉はいつもより少なく、昨日の彼女の努力を感じ取れた。
「ほら皆、席についてー」
チャイムが鳴り響くと同時に、前の扉が開き先生が言い放つ。
各自席につき、或いは自分の教室に戻り、ホームルームが始まった。
今日の時間割変更、近づく定期テスト、自習時間の追加、と普段とは少し違うようだ。
部活動停止は来週からだそうで、歓喜に身を震わすもの、残念そうに顔を歪ませるもの。
比較的後者が多く見えた。
一時間目から男女ともに外での体育があるため、ホームルームは数分もしないうちに終わった。
席から立ち上がり、急いで更衣室に向かう男子をゆっくりとした足取りで追いかける。
どこか、足が重たく感じていた。
・・・・・・
紅葉が色づき、地面も段々と朽葉色と黄蘗色に染まっていく中。
いつものクラスの二倍いる男子は川沿いを走っていた。
「はい、おつかれー」
強面の先生の重厚感ある声が耳に入り、先程まで回っていた足を止める。
「十分三十三秒」
「ありがとうございます」
二キロを十分半ばで走れたというと、ちょうど学年で中の下ぐらいだろうか。
川沿いから外れ、すぐ側にある学校の敷地に入る。
ペットボトルを手にして口に運ぶ。
長袖長ズボンのジャージからじんわりと汗が覗いた。
息を吐いて揺れる肩を落ち着かせていく。
「ふう」
現在、体育では体力測定としてマラソンが行われている。
学校すぐ側には川があり、学校側が許可を取って川沿いを男子は二キロ、女子は一キロでタイムを測っている。
事実上の進学校である我が校が一流の経営者だけでなくスポーツ選手も排出している。
その理由は、体育でも頻繁に行われる体力づくりが一因だろう。
毎年、二年生には大手企業の経営者か、稀にスポーツ選手が教えに来るのも有名だ。
「白鷺くん、タイムは?」
クラスの体育委員女子に話しかけられ、口元からペットボトルを離す。
「十分三十三秒」
「おっけー」
教えると同時に振り向き、近くの男子に向かう。
ペットボトルの蓋を締め、ぼーっとする中川沿いで続々とゴールする男子に意識が向いていた。
「白鷺くん」
声のした方向をゆっくりと振り返る。
黒髪黒目の端正な顔つき。
眉を超えるほど伸びた前髪を、七と三に分けてどかしている。
身長も僕より数センチ大きく、上まで閉められたジャージから覗く爽やかな笑顔は世界を照らしていた。
昨日の出来事が脳裏に蘇り、目を細めて見据える。
「ああ、君か」
昨日、杉本との争いを沈静化した人物。
「名前は確か」
「そういえばちゃんとした自己紹介まだだったね。桜花准。桜の花に、大学の准教授で准」
昨日聞いたその名に、ゆっくりと首肯する。
「隣の学級委員様がなんでここに?」
「なんでって、そこまで深い理由はないけど」
困ったように苦笑を浮かべ、ゆったりとした足取りで僕の隣に立つ。
ジッとその澄んだ瞳を見据えるも、淀んだ何かは見えなかった。
「少し、お話したいなと思って」
「生憎、桜花と話すことはなにもないな」
素気なく告げれば、桜花は面白そうに笑う。
冷たく見られていることに気づいたのか、爽やかな微笑みに戻し口を開いた。
「准で良いよ。僕も秋夜で良い?」
「好きに呼んでくれ」
突き放すように告げれば、取り直した准は太陽で光り輝く川を見つめながら言葉を紡いだ。
「それじゃあ秋夜。君に聞きたいことがあるんだ」
「奇遇だな。僕も聞きたいことがあるんだ」
「ん? 何かな」
最後の一人が肩を揺らしながらゴールを終える。
落ちる木の葉とともに髪が揺れる。
その晴れた瞳で准をまっすぐに見据えた。
「なんであの時、准は僕達を止めたんだ?」
僕らの間を冷たい風が駆け抜け、凍える肌が身体を硬直させる。
その中、准はきょとんと目を丸くしていた。
「なんでって、そんな特別な理由もないんだけどね」
一度瞬きをする頃には、准に浮かんでいた動揺も消え去っていた。
「単に、目の前で喧嘩されるのが嫌だっただけだよ。教室を通ったのもたまたまだし」
視線を伏せ、そこに宿ったのは僅かな憂い。
感じ取った違和感は言及するまでもない間で、准はすぐにパッと顔を上げた。
「それじゃ、次は僕が質問して良いかな? 二つほど」
「ああ」
触れるまでもなく新たな言葉で違和感が掻き消え、当然だと言葉を返す。
ちょうどその時、女子がぞろぞろと川沿いへ出ていく。
乾いた風が視界を揺らした。
「昨日の件、あれは君が何かしたのかい?」
思わぬ言葉に口をつぐみ、横目で自らの瞳を優しく覗き込む准を見る。
依然として爽やかな微笑みを湛えていた。
視線を川沿いに戻し、そっと息を吐き出す。
「少なくとも、僕に心当たりはない」
「そっかそっか」
藍色の髪が視界に入り、視線の先をその一点に向ける。
「じゃあ二つ目の質問」
先生が笛を手に持ち、口元へ運んでいく。
「君は藤宮さんと――」
「危ないッ!」
笛を吹くかといったその時。
突如として叫び声が聞こえ、皆驚いてその方向に視線を向ける。
准と僕をちょうど繋いだ一直線上。
蓋の空いたペットボトルが宙で舞っているのが視界に映る。
グルグルと縦に回転しながら水をまくそれは、准へと放られていた。
「おっと」
准は半歩を後ろに下がり、撒き散らされる水を躱す。
躱そうと足に力を込めようとする。
が、揺れる意識が足を縫い止めた。
バシャン、と静寂に包まれた川沿いで、冷ややかな音が響き渡った。