3.夕闇
冬の訪れ――立冬。
世界で見ても数少ない、四季を持つ日本のとある日。
吐き出す息は白く、指先は冷え、行き交う人々も服を重ね始める。
雪が降るね、だとか、もうすぐクリスマスだね、だとか。
そんな軽い会話が町中で混ざり合う。
世間一般的に見れば、それだけ。
だが、本質はどうだろうか。
早く訪れる暗闇は、世界に孤独と恐怖を少しだけ多く引き寄せる。
それはあらゆる物事を陰に覆い日の目を浴びさせない。
泥棒、強盗、取引。
そして時には、暴力すらも――。
世界が完全な暗がりに染まった頃。
そっと、冷えた指先をポケットに突っ込み、白い空気を混ぜて言葉をこぼす。
周囲には少しだけ家の光とたまに聞こえる車のエンジン音のみで、特にこれといった特徴もない住宅街。
特徴的な部分といえば、せいぜい街灯が少ないことだろうか。
「......流石に十一月なだけ寒いか」
身を震わせながら息を吐き出し、空を見上げる。
満天の星空が、幾千もの瞳のように顔をのぞかせていた。
――そろそろ、人も少なくなっただろうか。
視線を下ろし、一瞬だけ瞼を閉ざす。
スッと吸い込んだ冷たい空気を身体全体に巡らせて、足を止めた。
ゆっくりと目を開いて、くるりと右足を軸に振り返る。
街灯が照らすその細道を見据えた。
「出てこいよ。こっちはずっと気づいてるぞ」
ポケットに入れていない片手で指の骨を軽く鳴らしつつ告げる。
視線を暗闇の道にすべらせるも、静寂だけが僕に襲いかかる。
「......」
ふっと小さく息を吐きだし、もう片方の手を冷気に晒す。
何もいないはずの虚空に、声を向けた。
「君、さっきからずっとつけてただろ」
放った言葉は暗闇のその存在を震わせる。
電柱の暗い影から、ぼんやりと人が真上の街灯に照らされた。
「......ふむ」
一度小さく頷き、その視線を下に向ける男を一瞥する。
それなりに寒いというのに、男は制服――ブレザーのみ。
光に照らされる顔は赤い点が多く、身体は少しばかり横に大きいだろうか。
「何か用か?」
小首を傾げ、軽快さを織り交ぜる。
男は依然僕を見ることなく、地面に向けて口を開いた。
「うるさいうるさいうるさい......」
うるさい、と何度も口にするその言葉は早く、小さく、静かな闇夜に響く。
その野太い声はだんだん大きくなっていき、やがて緒が切れたように爆発した。
「なんッでだよッ! なんでお前があの子と一緒にいるんだッ!」
「......ふむ? なんでか、か」
「なんでもクソもあるかッ!」
男は血走った瞳を僕に向け、荒々しく腕を振り上げる。
まるで、向かってきた言葉を振り払うかのようだった。
「なんでか聞いてきたの君な」
「黙れ黙れ黙れッ! こんのカスがッ! 葵ちゃんを陥れやがってッ!」
男は僕の言葉に取り合うことなく、顔を真っ赤にしたまま続けて口を開いた。
「葵ちゃんは俺の大事な大事な彼女なのにッ!」
「......葵ちゃん?」
聞き馴染みのない言葉に、一瞬疑問符が浮かぶ。
だが、先程藤宮が自己紹介していたのを思い出してすぐに解けた。
同時に、藤宮に抱いていた疑念に、脳裏で光が走った。
「......ああ、そういう」
一度頷いてから、前に手を突き出す。
男は言葉を放とうとする口を一瞬固め、唖然とした顔で僕を見た。
「一旦落ち着け。理由を話そう」
「はあッ? お前が脅してる以外の何の理由があるんだッ! この外道めッ!」
「まあそれと同じレベルでひどいもんだけどな」
憶測でしかないが。
「ひどいって、お前まさか葵ちゃんの弱みをッ――」
「話を聞け。本当に君が理由を知りたいなら、言葉に耳を傾けろ。君に関することだからな」
男はほんの僅かに目を見開き、一歩後ずさる。
それを見逃さず、僕は手を下ろして一歩踏み出した。
「まさか、俺が葵ちゃんになにかした?」
「あながち間違っちゃいないかもな。しかし、そうだな。こうはっきり言っちゃあなんだが」
顎に手をやり、空を見上げる。
星空が僕の視線を迎え入れ、すぐに細めて彼に戻した。
藤宮が僕に話しかけた理由、恐らくその一つが――。
「――君を追い払うくらいしか理由がないぞ」
「なッ!」
男は仰々しく目を見開き、口を開く。
わなわなと震える口からは、か細い声が漏れていた。
「なんでそんな......ッ!」
「なんで、ねえ」
そっと息をこぼし、地面の水たまりに視線をやる。
先ほど十字路で怯えを見せた藤宮の顔が、そこに映った。
「その反応、君も少しはわかってるんじゃないか?」
「何を馬鹿なッ」
「僕はずっと、そして藤宮も少しして、気づいてたんだぞ」
僕らが別れる前、契約者となった藤宮が気づく前。
僕は彼がいることには気づいていた。
男は巧妙に気配を隠し、立ち止まったときは電柱や街灯に。
数十メートル後方から僕らをつけていた。
「うッ」
男はほんの僅かに言葉を喉につまらせ、一歩後ろ向きに歩を刻む。
「嘘だッ。そんな、あの距離でわかるわけが」
「人の感覚器官ってのは意外と強いもんだぞ。特殊な人は、視線が肌を刺すように感じるらしい。それと、失敗したな、君」
視線鋭く、男を見据える。
ビクリと、少しだけ男の身体が震えた。
「今、君はそんなこと知らないと素知らぬフリをするべきだった。自分はつけていたと、自白したんだ」
一歩、男に向けて踏み込む。
男は再び言葉を腕で振り払い、荒々しく言葉を紡いだ。
「違うッ! 俺は彼氏として、葵ちゃんがお前っていう暴君に脅されているのを見てられなくて――」
「それをストーカーって言うんだ。わからないか?」
「なんだとッ!」
藤宮は男に怯えている節があった。
DVならともかく、付き合っているなら僕と関わることは賢い判断とはいえない。
「君、そうやって散々な理由をつけて藤宮を毎日つけてただろ」
男は一瞬目を見張る。
すぐに眉間にしわを寄せて口を大きく開いた。
「それの何が悪いっていうんだッ!」
「行動はともかく、その想い自体を否定するつもりはない。その気持ちは確かに清いものなんだろうよ」
吐き出した白い息は天高く舞い、虚空へと消える。
「で、だ。まあ藤宮が僕を近くにおいた理由だが、多分君の退治だな」
頭を軽く掻き、首を鳴らす。
藤宮は一緒に帰ることで、ストーカーの敵意の方向を僕になすりつけようとした。
そう僕は仮説を立てた。
何故、彼女が初めに『モテる』と言ったのか。
それは一種のSOSだと考えられる。
自分にストーカーが付いていることを踏まえ、共に帰ることで必然的に僕、或いはストーカーの彼を動かした。
ストーカーは僕と藤宮が一緒に帰っていた場面を目撃している。
であれば、純粋に恋を諦めるか怒りに身を任せるのは目に見えていた。
結果は明らか。
あくまで予想でしかないが、仮にそうなのだとすると、ある意味彼女は策士なのだろうか。
少なくとも、一介の男子高校生を警察沙汰に巻き込んでいる。
生半可な覚悟で計画したものでもないはず。
「藤宮も言ってたぞ。最近ストーカーがいるって」
何度もこぼれそうになる息をこらえ、彼の瞳を見据える。
「嘘だッ! お前たちはそんな話していなかったッ!」
「......もう隠す気ないだろ、君」
目を閉ざし、小さく言葉をこぼす。
静かだった故か。
先ほどより男の頭が冷えていた故か。
その言葉は男の耳に入り、瞬間。
僕の全身を、鋭利な何かが突き刺した。
ゆっくりと瞼を開いて、自身の身体に視線を落とす。
依然変わった様子もなく、僕は彼に視線を飛ばして拳を握った。
「俺の......」
ワナワナと震える身体は、一歩僕に向けて踏み出す。
「俺の葵ちゃんに近づくなんてッ......なんてひどいやつだッ! 少し痛い目見てもらうッ!」
呼吸は荒れ、血走った眼で男は胸元を探る。
取り出されたそれは月明かりで照らされた。
鋭利に輝く包丁は研ぎ澄まされており、冷たい風を割いた。
「いいのか? 包丁なんて持ち出して」
「後悔しても遅いッ! 脅しだと思うなよッ! 本気の本気だッ!」
グッと男は大きく踏み込む。
脇に包丁を抱えて走り出した。
「ウオオオオオオォォォッッッ!」
無我夢中に男は突っ込み、鋭い視線は胸を貫く。
「......恋は盲目とは上手いこと言ったな」
迫り来る刃を見据えた。
男は慣れているのか、雄叫びとは裏腹に冷汗をかいていない。
果たして、どれだけの者が被害に遭ってきたのか。
そして。
そして。
そして――。
やんわりと。
その手首を握った。