11.甘味
夜、家にて。
風呂に入って数十分が経っていた。
「上がるか」
上った熱を覚まそうと、波を揺らしながら立ち上がる。
身体を軽く洗い流し、折れ戸を開いた。
バスタオルで身体に染み付いたお湯を拭い終え、部屋着に手をかける。
その時、ピンポーンパッポパポ、と軽快な音が家中に鳴り響いた。
僅かに冷めた身体を冬用の衣で覆い、洗面所の電子時計を確認する。
時刻は七時を指していた。
「思ったより早かったな」
部屋着を着てから扉を開く。
廊下に溜まる冷えた空気が未だ火照った身体を収縮させた。
玄関に灯りをともし、ゆったりと足取りで玄関へと歩みを進める。
玄関の扉を押し出せば、廊下よりもひんやりとした空気が身体を襲った。
扉の向こうに現れた人物は藍色の髪から覗く耳を赤く染めている。
青色のキャリーケースを手にムスッとした怒り顔で待ち構えていた。
「遅い」
「一分は遅いのか?」
「この寒空だと一分は一時間なの」
「間違いない」
確かな事実に、大きく頷く。
「それよりこれだよ、これ」
彼女はそのまま物申したげに先程押したであろう呼び鈴を指差す。
「何この音。ちょっと恥ずかしかったんだけど」
「これが一番反応しやすいって友達が言ってたからな」
脳の周波数だとか精神状況だとかで科学的に証明されている、と旧友が言っていた。
事実かは定かではないが、一応信じてはいる。
「なら良いんだけど」
「良いのか」
それともただ単に考えるのが面倒なだけか。
「それで、何しに来たんだ?」
冷えてきた指先をポケットに突っ込みながら問いかければ、彼女はふんと鼻を鳴らし告げた。
「何って、給仕の修行。貴方が言ったことでしょ」
「だよな」
思わず重ための溜息がこぼれる。
「気乗りしない、とか思ってないよね」
「とりあえず家に上がってくれ。寒い」
「逸らした」
言いながら、彼女はキャリーケースを転がして家に入る。
彼女が靴を脱いでいる間にキャリーケースを抱きかかえ、呆気に取られているのを他所に廊下を進めば藤宮も続いた。
「それで、ここまではどうやって来たんだ?」
リビングの扉を開き、温まった空気に身をさらす。
続いて彼女も入り、キャリーケースを床に横たわらせた。
「電車でちょっとね。家、隣町だし」
「隣町から学校に来るとか、割と大変だろ」
「もう慣れたよ。おかげで体力もそれなりに」
キッチンに入り、ポットに水を入れてスイッチをいれる。
棚を開き、自分用にコーヒー豆を取り出した。
「飲み物はコーヒーで良いか?」
「苦いの苦手。甘いのにしてー」
「ならココアだな」
コーヒー豆の隣に置かれているココアの袋はまだずっしりと重い。
台所に置き、飲み物の準備を終え後はお湯が沸くのを待つ。
僕の視界にリビングに立ちすくむ彼女が入った。
視線で促せば、食卓の椅子に座った。
「話は戻るけど、隣町にも進学校はあったし、そっちは考えなかったのか?」
「ん〜まあそうなんだけど」
僕たちの通う学校は最寄りの駅からでも徒歩数十分はかかる。
経済・経営学部を目指すなら納得だが、わざわざ今の学校に通ってまで学びたいという熱意があるようには感じられなかった。
そのせいか、その瞳は僅かに曇っていた。
「なんとなく、こっちの方が楽しそうだなと思っただけだよ」
「そんなもんか」
パチン、と水が温め終わった音が聞こえ、ポットの取っ手に手をかける。
一度コーヒーに必要分のお湯を専用の機械に入れ、ココアパウダーが入れられているマグカップにゆっくりと注げば、茶色い液体が上る。
ちょうど七割ほどが注がれたあたりで手を止めた。
「甘めの方が良いんだよな?」
「うん」
冷蔵庫から牛乳を取り出し、残りの三割を埋めていく。
小さじに乗せた砂糖を入れ、スプーンでぐるりとかき混ぜる。
仄かな甘いチョコの香りと、やや強めの牛乳の香りが鼻を覆った。
「できたぞ」
俯く彼女の前にスプーンを刺したままのマグカップを置く。
一瞬きょとんと目を丸めマグカップを見つめた後に、視線は僕を捉えた。
まるで不思議なものを見るかのような視線に、僕は納得をして手を左右に振った。
「怪しいものは入ってないから、どうぞご自由に」
「流石に淹れてもらった身でそんなこと言わないよ。貴方の分はないのかなって思って」
「コーヒーはまだ時間がかかるんだ。熱いしゆっくり混ぜながら飲んでくれ」
コーヒーができるまでの時間を潰すために正面の椅子に座る。
彼女は視線を外すことなく目を丸めたまま僕を見つめていた。
一瞬なら聞く必要もないが、そこまで見られると流石に疑問符を浮かべる他ない。
「どうかしたか?」
問いかければ、彼女は若干警戒したようにスプーンで一度回してからココアを啜る。
ただ、その警戒の対称はココアではなく、僕に向かっているものだった。
「......私、てっきりこき使われるものだと思ってた」
予想外の返答に、僕も一瞬目を開く。
けれど、すぐに納得して背もたれに体重をのせた。
「あのなあ、確かに使いはするけど、あくまで協力関係だぞ。上下差はない」
彼女のこき使う、の定義がどの程度かにもよるが、無理をさせるつもりは毛頭なかった。
彼女の本職は学生なのだから。
「......貴方のこと、勘違いしてたかな」
マグカップで口を隠し、ボソッと誰にも聞こえない声で呟かれる。
「何か言ったか?」
彼女はマグカップを口元から離し、小さく息を吐いた。
「いや、これ苦いなと思って」
その言葉に、思わず身体が硬直する。
「結構な量の砂糖入れた気がするぞ」
「んじゃ足りない」
それ以前に、ココアは元より甘みの塊だ。
「......そういえば、この荷物はどうしたんだ?」
逃げるように視線を側に横たえられているキャリーケースに向けて話題を変える。
彼女が我が家に来たときに持参してきた青いキャリーケース。
今日はただの給仕修行だというのに、一体そんなに何を持ってきたのだろう。
「ん? 言ってなかったっけ?」
湯気から覗くその目はまんまるになって僕を見た。
経験上、というのだろうか。
彼女の使う「言ってなかったっけ?」は非常に危険な匂いがする。
コト、と丁寧にマグカップを置き、満面の笑みでピンと人差し指を空に指す。
「私、今日から泊まるつもりだから」
そう衝撃の言葉を言い放った。