
第三十四話 街の人気者メリア ~第ニ章エピローグ~
市場は、朝から賑やかだった。 石畳の上を、荷車が行き交う。魚の値段を巡る声が飛び交い、
焼き菓子の甘い匂いが漂う。秋の光は低く、まだ柔らかい
角度から差し込んで、並んだ露天の屋根を橙色に染めていた。人々の吐く息はまだ白くならないが、空気にはどこか秋の澄んだ
気配が混じっている。 その市場の一角に、見慣れた道具が置かれていた。 木製の枠に、中心の魔石。そこから伸びた羽根が、ゆっくりと
回っている。ぶぉぉ、と低く唸るような音を立てながら。ぐる風
だった。 野菜売りの老婆が、それを当たり前のように使っている。濡れた
布を物干し竿に掛け、羽根の風に当てていた。隣の魚屋は、台の
上に溜まった生臭い空気を、同じ風で外へと押し流している。誰も、それを特別なものだとは思っていない。ただ、そこにある。生活の続きとして、当たり前の道具として。 路地の奥では、洗濯屋の主人がぐる風を三台並べて回していた。客から預かった衣類が、一定の風の中で、ゆっくりと乾いていく。「早いんや、これが」 主人が通りすがりの客に言っている。「昔の半分以下で乾く。魔石代はかかるけど、
手間賃考えたら全然ええ」 客が頷きながら覗き込む。「あの回るやつ、最近よく見るな」「ぐる風いうてな。月兎亭の嬢ちゃんが作ったやつや」 二人の会話は、そのまま雑踏に紛れて消えていく。特別な
話題ではない。もはや、天気の話をするのと同じ温度だった。 その名前が出るたびに、市場の空気がわずかに変わる。誰かが
気づくわけではない。ただ、言葉の端に、少しだけ親しみのような
ものが滲むだけだった。 メリアは、買い物籠を手に石畳を歩いていた。特に目的はない。ただ、見ている。街が、どう変わったか。変わっていないか。
人々の足取り、道具の使われ方、会話の端々。それらを、静かに
拾いながら歩く。「あっ、先生!」 子どもの声が飛んできた。振り向くと、七、八歳くらいの
女の子が駆けてくる。後ろに二人、ついてきている。頬が
上気して、息を切らしていた。「洗濯、めっちゃ楽になった!お母さんが言ってた!」「そうですか」「先生ってすごいな!魔法使い?」「違います」「じゃあなんなん?」 メリアは少しだけ考えた。子どもたちの視線が、期待を込めて
こちらを見上げている。「......考える人、です」 子どもたちは、ぽかんとした顔で顔を見合わせた。そして、
なぜか納得したように頷いた。「すごい」「すごいな」「うん、すごい」 三人がそれぞれ言って、また走っていく。メリアは、その背中を
見送った。小さな靴音が石畳に散らばり、やがて雑踏の中に消えて
いく。(好感度、上昇中)
れもんの声が、頭の中で静かに届いた。「わかってる」 酒場の前を通ると、昼前から客が入っていた。看板に、新しい
文字が加わっている。〝本日のおすすめ ピッツァルクス 赤・白〟
扉の隙間から、焼きの匂いが漏れている。トマトの酸味。チーズの香ばしさ。そして、少しだけ癖のあるマヨネーズの
匂い。焼きたての生地が石窯の中でぱちぱちと爆ぜる音まで、
隙間から漏れ聞こえてくるようだった。 中からガドの声がした。「マヨ増しは追加料金だ!それは変わらねぇ!」「けちくさっ!」「うるせぇ!素材の味を守るのも職人の仕事だ!」 笑い声が続く。 メリアは、少しだけ立ち止まった。扉の前で。中は見えない。でも、聞こえる。賑やかな声。皿の音。誰かが笑っている。湯気の
匂いと一緒に、その温度だけが扉の隙間から漏れてくる。 入らなかった。ただ、聞いていた。それだけで十分だった。 市場の端に、主婦たちが集まっていた。買い物籠を提げたまま、
立ち話に花を咲かせている。「最近、便利になりすぎじゃない?」 一人が言う。「ぐる風でしょ、マヨでしょ、洗濯板でしょ」「全部、月兎亭の子が絡んでるらしいよ」「あの静かな子?」「そう。ちっとも偉そうにしないのよね」「売ればいいのに」「売ってないんだって。やり方教えてるだけで」 一人が首を傾げた。「なんで?」 誰も答えない。それが不思議で、だから話題になる。主婦たちの
声は、そのまま市場の喧騒に溶けて、また別の話題へと移って
いった。(普及率、順調)
れもんの声が来た。「わかってる」 メリアは、主婦たちの前を通り過ぎた。気づかれなかった。籠の中の野菜が、少しだけ重みを増していた。 冒険者ギルドに立ち寄ったのは、午後になってからだった。石造りの建物は、昼の陽射しの下でもひんやりとした空気を
保っている。依頼の報告を済ませて、帰ろうとしたとき。「ちょっと待ちなさい」 受付のカウンター越しに、リシェルが声をかけてきた。書類を
手に持ったまま、顎でカウンターの端を指す。「そこ、座って」 命令のような言い方。だが、悪意はない。 メリアは、促されるままカウンターの端の椅子に腰を下ろした。木の椅子は、少しだけ軋んだ音を立てた。 リシェルは書類を棚に戻しながら、こちらを見ずに言う。「最近、依頼の種類が変わってきてるの。気づいてた?」「......いいえ」「ぐる風の修繕依頼。洗濯板の作り方を教えてほしいって依頼。マヨの仕込みを手伝ってほしいって依頼」 リシェルは振り返った。いつもの、少し意地悪に見える目。でも、その奥は真剣だった。「全部、あなたが絡んでること」「そうですね」「誰かさんのおかげで、街が活気づいてるわ」 言いながら、カウンターに肘をつく。「便利になった、って喜んでる人が増えた。仕事が楽になった、って言ってる人もいる。ギルドにも、そういう声が入ってくる」 メリアは、黙って聞いていた。窓から差し込む午後の光が、
カウンターの木目をくっきりと浮かび上がらせている。「あなた、全部ただで教えてるじゃない」「はい」「なんで?」「独り占めしても、意味がないので。広がった方が、
たくさんの人が楽になります」 リシェルは、鼻で笑った。笑い方がいつも少し意地悪に
見えるが、目は笑っていない。「聖人みたいなこと言うわね」「違います」「じゃあ、何?」「......見たいんです」 メリアは、ギルドの窓の外を見たまま言った。「広がったあとを。人が使い続けるかどうか。本当に便利かどうか。それを、見たい」 リシェルは、少しだけ黙った。「実験、ってこと?」「半分は」「もう半分は?」 メリアは、答えなかった。答えが、まだ言葉になっていない。窓の外を荷馬車がゆっくりと通り過ぎていく。 リシェルは、それ以上聞かなかった。代わりに書類を一枚
取り出してカウンターに置いた。「これ、新しい依頼。ぐる風をもう二台作ってほしいって。洗濯屋から」「わかりました」「報酬、ちゃんと受け取りなさいよ」 少しだけ、声が柔らかくなった。「まあ、結果的には良かったわよ。あなたがここにいて」 それだけ。でも、それで十分だった。 夕方。市場が店じまいを始めていた。露天が畳まれ、荷が
片づけられ、石畳が少しずつ空いていく。売れ残りの野菜を
木箱に詰める音、荷車を引く車輪の音、遠くで誰かが呼び合う声。一日が少しずつ終わっていく。 その中で、ぐる風はまだ回っていた。洗濯屋の前。魚屋の横。どこかの家の裏庭からも、低い音が聞こえている。夕暮れの
橙色の中で、羽根の影が壁にゆっくりと伸び縮みしていた。 メリアは、路地の角から市場を見ていた。 人々が、普通に使っている。特別なものとして扱っていない。生活の道具として、当たり前に。半年前には存在すらしなかった
ものが、今では、この街の風景の一部になっている。(これでよかったのかな)
心の中で、静かに思う。答えは、出ない。(幸福量保存、安定)
れもんが、静かに言った。「......そうですね」 風が吹いた。秋の、少し冷たい風。石畳の上の落ち葉が、
くるりと回る。その動きが、どこかぐる風の羽根と重なって
見えた。 遠くで、子どもたちの声がした。笑っている。何が面白いのかは
わからない。ただ、笑っている。 メリアは、籠を持ち直した。宿への道を、歩き始める。 一章でこの街に着いた日のことを、ぼんやりと思い出す。港の
匂い。石畳の感触。何もわからなかった。今も、わからないことは
たくさんある。でも、何かは変わった。街が変わったのか、自分が
変わったのか、それも、まだはっきりしない。 ぐる風の音が、どこかから聞こえてくる。夕暮れの空の下、
街の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。 街は、続いていく。 第二章 完 第三十四話 街の人気者メリア ~第ニ章エピローグ~
市場は、朝から賑やかだった。 石畳の上を、荷車が行き交う。魚の値段を巡る声が飛び交い、
焼き菓子の甘い匂いが漂う。秋の光は低く、まだ柔らかい
角度から差し込んで、並んだ露天の屋根を橙色に染めていた。人々の吐く息はまだ白くならないが、空気にはどこか秋の澄んだ
気配が混じっている。 その市場の一角に、見慣れた道具が置かれていた。 木製の枠に、中心の魔石。そこから伸びた羽根が、ゆっくりと
回っている。ぶぉぉ、と低く唸るような音を立てながら。ぐる風
だった。 野菜売りの老婆が、それを当たり前のように使っている。濡れた
布を物干し竿に掛け、羽根の風に当てていた。隣の魚屋は、台の
上に溜まった生臭い空気を、同じ風で外へと押し流している。誰も、それを特別なものだとは思っていない。ただ、そこにある。生活の続きとして、当たり前の道具として。 路地の奥では、洗濯屋の主人がぐる風を三台並べて回していた。客から預かった衣類が、一定の風の中で、ゆっくりと乾いていく。「早いんや、これが」 主人が通りすがりの客に言っている。「昔の半分以下で乾く。魔石代はかかるけど、
手間賃考えたら全然ええ」 客が頷きながら覗き込む。「あの回るやつ、最近よく見るな」「ぐる風いうてな。月兎亭の嬢ちゃんが作ったやつや」 二人の会話は、そのまま雑踏に紛れて消えていく。特別な
話題ではない。もはや、天気の話をするのと同じ温度だった。 その名前が出るたびに、市場の空気がわずかに変わる。誰かが
気づくわけではない。ただ、言葉の端に、少しだけ親しみのような
ものが滲むだけだった。 メリアは、買い物籠を手に石畳を歩いていた。特に目的はない。ただ、見ている。街が、どう変わったか。変わっていないか。
人々の足取り、道具の使われ方、会話の端々。それらを、静かに
拾いながら歩く。「あっ、先生!」 子どもの声が飛んできた。振り向くと、七、八歳くらいの
女の子が駆けてくる。後ろに二人、ついてきている。頬が
上気して、息を切らしていた。「洗濯、めっちゃ楽になった!お母さんが言ってた!」「そうですか」「先生ってすごいな!魔法使い?」「違います」「じゃあなんなん?」 メリアは少しだけ考えた。子どもたちの視線が、期待を込めて
こちらを見上げている。「......考える人、です」 子どもたちは、ぽかんとした顔で顔を見合わせた。そして、
なぜか納得したように頷いた。「すごい」「すごいな」「うん、すごい」 三人がそれぞれ言って、また走っていく。メリアは、その背中を
見送った。小さな靴音が石畳に散らばり、やがて雑踏の中に消えて
いく。(好感度、上昇中)
れもんの声が、頭の中で静かに届いた。「わかってる」 酒場の前を通ると、昼前から客が入っていた。看板に、新しい
文字が加わっている。〝本日のおすすめ ピッツァルクス 赤・白〟
扉の隙間から、焼きの匂いが漏れている。トマトの酸味。チーズの香ばしさ。そして、少しだけ癖のあるマヨネーズの
匂い。焼きたての生地が石窯の中でぱちぱちと爆ぜる音まで、
隙間から漏れ聞こえてくるようだった。 中からガドの声がした。「マヨ増しは追加料金だ!それは変わらねぇ!」「けちくさっ!」「うるせぇ!素材の味を守るのも職人の仕事だ!」 笑い声が続く。 メリアは、少しだけ立ち止まった。扉の前で。中は見えない。でも、聞こえる。賑やかな声。皿の音。誰かが笑っている。湯気の
匂いと一緒に、その温度だけが扉の隙間から漏れてくる。 入らなかった。ただ、聞いていた。それだけで十分だった。 市場の端に、主婦たちが集まっていた。買い物籠を提げたまま、
立ち話に花を咲かせている。「最近、便利になりすぎじゃない?」 一人が言う。「ぐる風でしょ、マヨでしょ、洗濯板でしょ」「全部、月兎亭の子が絡んでるらしいよ」「あの静かな子?」「そう。ちっとも偉そうにしないのよね」「売ればいいのに」「売ってないんだって。やり方教えてるだけで」 一人が首を傾げた。「なんで?」 誰も答えない。それが不思議で、だから話題になる。主婦たちの
声は、そのまま市場の喧騒に溶けて、また別の話題へと移って
いった。(普及率、順調)
れもんの声が来た。「わかってる」 メリアは、主婦たちの前を通り過ぎた。気づかれなかった。籠の中の野菜が、少しだけ重みを増していた。 冒険者ギルドに立ち寄ったのは、午後になってからだった。石造りの建物は、昼の陽射しの下でもひんやりとした空気を
保っている。依頼の報告を済ませて、帰ろうとしたとき。「ちょっと待ちなさい」 受付のカウンター越しに、リシェルが声をかけてきた。書類を
手に持ったまま、顎でカウンターの端を指す。「そこ、座って」 命令のような言い方。だが、悪意はない。 メリアは、促されるままカウンターの端の椅子に腰を下ろした。木の椅子は、少しだけ軋んだ音を立てた。 リシェルは書類を棚に戻しながら、こちらを見ずに言う。「最近、依頼の種類が変わってきてるの。気づいてた?」「......いいえ」「ぐる風の修繕依頼。洗濯板の作り方を教えてほしいって依頼。マヨの仕込みを手伝ってほしいって依頼」 リシェルは振り返った。いつもの、少し意地悪に見える目。でも、その奥は真剣だった。「全部、あなたが絡んでること」「そうですね」「誰かさんのおかげで、街が活気づいてるわ」 言いながら、カウンターに肘をつく。「便利になった、って喜んでる人が増えた。仕事が楽になった、って言ってる人もいる。ギルドにも、そういう声が入ってくる」 メリアは、黙って聞いていた。窓から差し込む午後の光が、
カウンターの木目をくっきりと浮かび上がらせている。「あなた、全部ただで教えてるじゃない」「はい」「なんで?」「独り占めしても、意味がないので。広がった方が、
たくさんの人が楽になります」 リシェルは、鼻で笑った。笑い方がいつも少し意地悪に
見えるが、目は笑っていない。「聖人みたいなこと言うわね」「違います」「じゃあ、何?」「......見たいんです」 メリアは、ギルドの窓の外を見たまま言った。「広がったあとを。人が使い続けるかどうか。本当に便利かどうか。それを、見たい」 リシェルは、少しだけ黙った。「実験、ってこと?」「半分は」「もう半分は?」 メリアは、答えなかった。答えが、まだ言葉になっていない。窓の外を荷馬車がゆっくりと通り過ぎていく。 リシェルは、それ以上聞かなかった。代わりに書類を一枚
取り出してカウンターに置いた。「これ、新しい依頼。ぐる風をもう二台作ってほしいって。洗濯屋から」「わかりました」「報酬、ちゃんと受け取りなさいよ」 少しだけ、声が柔らかくなった。「まあ、結果的には良かったわよ。あなたがここにいて」 それだけ。でも、それで十分だった。 夕方。市場が店じまいを始めていた。露天が畳まれ、荷が
片づけられ、石畳が少しずつ空いていく。売れ残りの野菜を
木箱に詰める音、荷車を引く車輪の音、遠くで誰かが呼び合う声。一日が少しずつ終わっていく。 その中で、ぐる風はまだ回っていた。洗濯屋の前。魚屋の横。どこかの家の裏庭からも、低い音が聞こえている。夕暮れの
橙色の中で、羽根の影が壁にゆっくりと伸び縮みしていた。 メリアは、路地の角から市場を見ていた。 人々が、普通に使っている。特別なものとして扱っていない。生活の道具として、当たり前に。半年前には存在すらしなかった
ものが、今では、この街の風景の一部になっている。(これでよかったのかな)
心の中で、静かに思う。答えは、出ない。(幸福量保存、安定)
れもんが、静かに言った。「......そうですね」 風が吹いた。秋の、少し冷たい風。石畳の上の落ち葉が、
くるりと回る。その動きが、どこかぐる風の羽根と重なって
見えた。 遠くで、子どもたちの声がした。笑っている。何が面白いのかは
わからない。ただ、笑っている。 メリアは、籠を持ち直した。宿への道を、歩き始める。 一章でこの街に着いた日のことを、ぼんやりと思い出す。港の
匂い。石畳の感触。何もわからなかった。今も、わからないことは
たくさんある。でも、何かは変わった。街が変わったのか、自分が
変わったのか、それも、まだはっきりしない。 ぐる風の音が、どこかから聞こえてくる。夕暮れの空の下、
街の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。 街は、続いていく。 第二章 完