第5話 母
私にはもうとっくに限界が来てしまっていた。
大きな家に息子と2人。
慣れない育児で疲れ切ってしまった。
睡眠も十分に取れず、最近は保存食ばかり食べて、栄養のある食事なんてとっていなかった。
そして、この苦労を分かち合う相手も、相談する相手もいなかった。
――私の夫は息子が産まれる2か月前に、死んだのだから。
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夫の父は有名な鍛冶師だった。
夫もまたそうするのが当然かのように、鍛冶師として生きていた。
夫は鍛冶師としての才能に恵まれなかった。
だからこそ、生産物をロングソードだけに絞った。夫なりの工夫だった。
1つの物を何年も作り続けた結果、ロングソード専門の鍛冶師として少しずつ名が知られるようになっていった。
息子が産まれるちょうど半年くらい前にその腕を買われ、隣町である迷宮都市カローネの専属騎士用のロングソードの生産を任されるようになった。
子供が生まれるからいっぱい稼がないと、なんて言って張り切っていた。
そして1か月に一度、迷宮都市カローネに納品に行くのだ。
夫が一人で行くのではない。魔物との遭遇の可能性も考えて、3人程護衛をつけて向かうのだ。
夫自身、護身術を身に着けていたため、魔物と戦えないことはないが、念のため、だ。
息子が産まれる2か月前。
夫が納品に行く途中のことだった。
いつも通り商品を馬車に乗せて、護衛を引き連れて、いつもの道を進んでいた。
その道中、悪魔派と呼ばれる宗教団体の団員の3人組と出会ってしまった。
彼らは丁寧な口調で夫に選択を迫った。
武器を渡すか、ここで死ぬのか。お好きな方ををお選びください、と。
夫は武器を渡さなかった。
ここで武器を差し出せば、迷宮都市カローネに納品できなくなってしまう。
そうすれば信用が無くなり、今後の取引に支障が出る可能性があった。
これから子供が生まれる夫にとっては、当然の選択だった。大きな収入源を失うことはできなかった。
夫は彼らと戦うことを選んだ。
人数的には3対4だ。数だけ見ればこちらが有利。
護衛を雇っていたからこその選択だったのかもしれない。
だが、あっけなかった。
護衛が夫を守るように陣を組むも、宗教団員が1人、ふらふらと歩き、護衛を無視して綺麗に夫の首だけを撥ねて、武器を奪ってその場から消えたのだ。
これらの話は帰ってきた3人の護衛から聞いた。
護衛は何もできなかったと悔やみ、責任を取るように3人とも引退した。
そんな今は亡き夫は、私の幼馴染だった。
同じ村で育ち、同じ時間を共に過ごした同級生だ。
夫は正義感が強く、小さな頃から決めたことに対して一生懸命努力をするタイプだった。
そんな一生懸命何かに打ち込む所に私は惚れた。
最近の話じゃない。きっと8歳くらいの頃にはもう惚れていた。
そうして月日も流れ、14歳の頃に私の方からプロポーズしたのだ。
夫も私を好きだったらしく、私は夫と両想いで結ばれた。
新婚生活は幸せだった。
子供はたくさん欲しいから大きな家を買おうなんて言って、夫は大きな家を買った。
規模は小さいが、結婚式も挙げた。
私の両親は既に亡くなっており、夫の両親と夫は疎遠であったため、友人を集めて家の中で騒いだだけの、ホームパーティーみたいな感じだったが。
愛し、愛され、毎日楽しい日々を送っていた。
だが、少々問題もあった。
子宝に恵まれなかったのだ。
第一子を身籠ったのは、結婚してから3年後。私も夫も17歳になる年だった。
夫と二人でいるだけでも十分に幸せだった。
だが、子供ができないことに対して、焦りと申し訳なさがあった。
私も夫も、子供が欲しかった。しかし、すぐにはできなかった。
夫は私のせいではないと言ってくれたが、私は落ち込んでしまった。
だからこそ、妊娠が分かったときは大いに喜んだ。
夫も早めに仕事を切り上げて、2人だけでパーティをした。
それからは毎日のように子供についての話をした。
男の子かな? 女の子かな?
名前は何にしようか?
やっぱりこの子も大きくなったら鍛冶師になるのかな?
なんて、未来の話をずっとしていた。
毎日が幸せだった。
だが、そんな幸せも長くは続かなかった。
出産2か月前、夫の帰りを待つ私に届いたのは、訃報だった。
私は泣いた。
大声をあげて泣いた。
泣きながら酒を飲んだ。浴びるように飲んだ。
きっと、これから母親になろうかという人間のすることではなかっただろう。
だが、そうでもしないと気が紛れなかった。
だから飲んだ。毎日飲んだ。
そんなある日、夫の父・フラエントが訪れた。
私にとっては義父だ。
私と義父の関係は良好ではなかった。
というより、夫と義父の関係が良好ではなかった。
義父は、ロングソード専門の鍛冶師なんて認めていなかった。
「客のどんな要望にも応え、客の理想を形にするのが鍛冶師の仕事だ」と、そういう思想の持ち主だった。
故に夫の一つの物を極めるという考え方とは合わなかった。
夫が自分の教えを破り、ロングソードの鍛冶を極めようとした時点で、義父は夫と縁を切り、家に帰ることを許さなかった。
夫は、父は悪くない。俺の力不足で父に恥をかかせてしまったなんて言っていたが、私はあまり義父のことを好きになれなかった。
――そんな義父が、私の前に立っていた。
夫と私の結婚式にも来なかったような人物が、私の前に立っていた。
真昼間から酒に溺れ、夫の買った大きな家に一人で引き籠る私の前に立っていた。
彼は私の前に立ち、拳を握りしめて私の顔を殴った。
私の顔には衝撃が走った。
痛かった。人に殴られたのなんて初めてだった。
だが、明らかに手加減されていたのが分かった。
毎日の仕事で鍛え上げられた右手から繰り出される、鍛冶師の一撃だ。
本気で殴られていれば、私の顔の骨は折れていただろう。
もしかしたら、私を一撃で殺すこともできたかもしれない。
しかし、骨が折れる訳でもなく、ただ頬が腫れていただけだった。
精々低級の回復魔法で治る程度の傷だ。
そして義父は鋭い眼光で私を睨みつけた。
「クズ女が」
ただ一言そう呟いて、彼は去っていった。
私は反論できなかった。
その通りだった。この時の私は誰がどう見てもクズだった。
子供を身に宿した状態で、夫の残した金を使って酒を買い込み、朝から晩まで浴びるように酒を飲む毎日。
服も着替えず水浴びもせず、酒を飲みながら寝て、起きて酒を飲む生活だ。
クズ以外の何者でもないだろう。
だが、まだ全てを失った訳ではなかった。
殴られたあの日に再認識した。殴られたことで、目が覚めたのだ。
私のお腹の中にはまだ、夫が残してくれた最後の贈り物があった。
その日から酒は辞めた。
自分のお腹をさすりながら、ごめんね、ごめんねと何度も謝った。
出産の1か月前くらいから、私の家には白髪の老婆が出入りするようになっていた。
彼女の名はイゾルデ。夫の祖母、つまり私にとっての義祖母だ。
義父が連絡を取り、出産までの間だけという条件で、私の世話をしてくれることになったのだ。
彼女は若いころに助産師として働いていたことがあるらしく、出産も手伝ってくれるとのことだ。
義祖母から聞いた話だが、義父は、私と夫には一切関わらないつもりだったらしい。
しかし、私が酒に溺れているのを知り、お腹の中の子供が可哀そうだからと言って、動いてくれたそうだ。
両親も祖父母も既にいない私にとってはありがたかった。
だが、同時に不甲斐なくも思う。
私一人では何もできなかったのだから。
義祖母もまた、私が妊娠中に酒を大量に飲んだことを知っていた。
だからこそ、子供が無事に生まれる可能性は低いと、何度も何度も私に言っていた。
私は悔やんだ。
自分の愚かな行動を悔やんだ。
なぜ酒なんて飲んでしまったのだろうと。
しかし、そんな後悔とは裏腹に、子供は元気に生まれてきた。
外傷も無く、夫に目元がよく似た普通の子だった。
生まれてすぐに泣かなかったため、少し不安になったが、義祖母の手によって無事に産声を上げた。
私は喜んだ。
義祖母も喜んだ。
無事に産まれて良かった。
一通り片付けをした後に、「曾孫に会えて良かった」と言って義祖母は帰っていった。
その表情は嬉しそうでありながらも、寂しそうだった。
しかし、問題はここからだ。
私には兄弟がいなかったので、育児のイメージが全く持てていなかったのである。
義祖母から一通りどういうことをするかは聞いていたが、実践となればまた別物だ。
私は大きな家の中でたった一人で息子の面倒を付きっ切りでみていた。
妊娠中に大量の酒を飲んだという前科がある以上、私はこの子にこれ以上の迷惑はかけられない。
できる限りたくさんの愛情を注ぎこんで、私一人で育てるんだ。
そう意気込んで、ずっとそばにいた。
......もしかすると、それがいけなかったのかもしれない。
私は過保護になりすぎていた。
少しでも息子の機嫌が悪くなれば、すぐに抱いてあやした。
15分に1回はおむつの中を確認し、少しでも汚れていれば交換した。
頻繁に時計を見つめ、ちょうど2時間経つごとに母乳を与えた。
毎日桶にお湯を貯め、午後6時ちょうどに体を洗った。
もっと要領よくすれば良い。
なんて言葉を外から言うのは簡単だ。
私にはもう失敗できないという焦りがあった。
だからこそ、私はこうしたのだ。
こうすることが、私にとっての愛情表現だと思っていたから。
2か月。
気づけば2か月が過ぎていた。この時にはもう私は限界だった。
私が育児を疎かにしたことは一度も無かった。
にも関わらず、この時の私は息子を心の底からは愛していなかった。
早く解放されたい。それ以外の感情は無かった。
故に、私はナイフを手にしてしまった。