第6話 フィンテイル
俺の人生は終わっていなかった。
母の、母としての役割も終わっていなかった。
母が逆手に握り、振り上げたナイフは、俺の頭の15cmくらい左に刺さっていた。
俺の身体を覆うように四つん這いになっていた母の目からは涙が溢れ、俺の顔に落ちてきた。
母は泣いた。叫ぶように泣きながら、俺の身体に顔をうずめた。
何度も何度も同じ単語を呟いていた。俺にこの世界の言語はまだわからない。
だが、きっと謝罪の言葉なんだろうなというのは何となく分かった。
彼女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
俺の身体を包んでいたタオルは彼女のそれでびしょ濡れになった。
でも、悪い気はしなかった。
俺は転生して、初めて自分の母親と向かい合うことができた気がした。
母も一人の人間だった。
それも、きっと前世の俺とそんなに変わらない年齢の。
前世の俺に一人で子育てができただろうか。
恐らく、できなかっただろう。
彼女は立派だった。今でこそこんなになってしまったが、2か月の間、立派に母親をしていたのだ。
今の今まで、一度も母親としての仕事を怠ることはなかった。
彼女は自分のことだけでなく、子供のことを考えて動いていたのだ。
そんな彼女を見ていると、いかに俺がちっぽけな存在なのかが分かる。
自分のことでいっぱいいっぱいになって泣き叫び、前世の自分と同じくらいの年齢の母にあやされるのだ。
きっと、泣き叫びたいのは彼女の方だっただろう。
たった一人でボロボロになるまで育児をしていたんだから。
母はまだ俺の身体に顔を埋めて泣いている。
俺は小さな手を動かして、彼女の頭を撫でた。
実際にうまく撫でれていたのかはわからないが、彼女はそれに気付いた。
一瞬泣き止み、その後、さらに大きい声で何かを言いながら泣き叫んだ。
俺は頭を撫でた。泣き止むまで撫でた。
気づけば俺は、三度目のチャンスを手にしていた。
いや、チャンスと言うのは少し違うな。
母が最期まで俺を愛する母親であってくれたお陰で、俺は生き延びることができたのだ。
転移でも転生でもない。母の手で、生かしてくれたのだ。
それに気づいたのは、数時間して母が泣き止み、俺の身体から顔を離そうとしたときだった。
タオルについた鼻水が乾いてしまったのか、顔からタオルを剝がすのに苦戦していた。
そんな彼女を見ながら、異世界も悪くはないなと思った。
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俺は1歳の誕生日を迎えた。
誕生日会は俺と母の二人で行われた。
あの事件以降、俺も母も少し変わった。
俺は泣かなくなった。
過去を思い出して悔やむことはもうやめた。
特別な決心をしたわけじゃなかった。
母が大泣きして以降、自然とそうなっていった。
恐らく、あの一件で俺は何かの踏ん切りがついたのだと思う。
前世のことがどうでも良くなったわけではないが、別にそれを気にしたところでどうにもならないことに気付いたのだ。
母の育児は大分変わった。
悪く言えば、怠惰になったと言えるだろう。
だが、それくらいでちょうどよかった。
大体2時間に1回だった授乳は、俺が欲しがったら与えるようになった。
定期的に確認していたオムツも、俺が物を出してから替えるようになった。
お風呂に関しては今までと同じように大体6時くらいだが、時間ぴったりということはなくなった。
彼女は完璧主義だったのだ。これくらいでちょうどいい。
何が彼女をそうさせたのかは分からないが、育児のストレスは大分軽減されるだろう。
最も、俺が急に泣かなくなったので、母はあの一件から数日は心配そうにしていた。
そんなある日、生まれてすぐの俺を逆さ吊りにした白髪の老婆が訪れたのだ。
老婆と会話をしてからすぐの母は不貞腐れたような顔をしていた。
だが、俺に対して心配そうな顔をすることはなくなった。
あと、変わったと言えば、俺はこの1年で相当成長した。
ベッドで寝ることしかできなかった俺の身体は、いつの間にかハイハイが出来るような頑丈な身体になっていた。
最近はよちよちとだが、歩くこともできるようになった。
だが、俺は母親に献身的な赤ちゃんなのだ。
1人でそんな危ない真似はしない。
母が付きっ切りで見てくれている時だけ、よちよちと歩く。
歩けるようになったからといって、多用はしない。基本的な移動手段は安全なハイハイだ。
食事も大分変わったと思う。
俺は母乳の他に、離乳食のような物も食べるようになった。野菜のピューレみたいなものだ。
とはいえ、母乳を全く飲まなくなったわけではない。だが、母乳の頻度が少なくなる度に、俺は少し悲しくなった。
乳離れの出来ない赤ん坊の気持ちが今なら分かる。
しかし、そんな俺の成長の中でも、やはり、これが一番の成長だろう。
俺はこの世界の言語を自然と少しずつ習得してきていたのだ。
簡単な物の単語ならわかるようになっていた。
ちなみに俺が初めて口にしたこの世界の言葉は、日本語で言うところの、「ごめんね」だ。
それを初めて聞いた俺の母は、嬉しいような悲しいような表情をしていた。
そして俺を抱いて、ごめんねぇ、ごめんねぇ、と泣きながら俺の身体に顔をうずめた。
別に、俺に悪意があったわけじゃない。
口にした時も、正確な意味はいまいち分かっていなかった。
ただ、この母の元に生まれて、一番多く聞いた言葉がこれだったのだ。
だから、声に出してみただけなのだ。
母は、俺を殺そうとして以来、俺が眠りについてから、毎日のように俺の頭を撫でていた。
半泣きになりながら、ごめんね、ごめんねと言いながら撫でていた。
きっと、彼女は例の一件について相当反省しているのだろう。
俺はあまり気にしていないが、母は気にしているのだろうな。
あの一件以来、彼女が俺に対して愚行を働くことはなかった。
そうだ、大事なことを忘れていた。
俺の名前が分かったのだ。
俺の名前はフィンテイルだ。
母は俺のことを愛称でフィンと呼ぶ。
だが、俺に何かを謝るときはフィンテイルと呼ぶのだ。
「フィンテイル、ごめんねぇ」といった感じだ。
母は事あるごとに謝るし、泣き虫だ。赤ん坊の俺よりも泣き虫だ。
でも、そんな彼女は俺にとって、たった一人の立派な母親だ。
そんな母親が、俺のことをフィンテイルと名付け、愛してくれている。
ならば、俺もそれに応えるべきだろう。
俺も彼女を母親として愛し、母を守れるくらい立派な人間に育つのだ。
そう決心しながら俺は小さな手で、半泣きになりながら寝ている母の頭を撫でた。