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第20話 大正拾弍年仇月壱日




「地獄に墜ちてもいい......。僕は貴女を描えがきたい」


 土曜日の朝 花を活けに訪れた しのぶさんを 玄関で抱き締め 幾三郎君が言った。
 三和土へと舞い散る 竜胆の花弁。
 そして しのぶさんの腕が 幾三郎君の背中に回る。
 潤んだような沁み透るような声。


「......ありがとう」


 居間の端に静かに座る しのぶさん。
 幾三郎君が画帳を開く。画帳に書き込んだ題名は〈仇月壱日 しのぶ〉。
 ......そう。〈しのぶ〉だ。
 速力のある鉛筆の走る音が 襖を閉ざした居間に響きはじめる。


 .........。
 ......。


 そして その時が来た。
 

「帯を解いて欲しい」
 

 そう告げる幾三郎君の声が微かに震える。
 それまで ただ ただ静かに座っていた しのぶさんの身体も 小さく震えた。
 幾三郎君の身体も小刻みに揺れている。


 ─── カタッ カタカタッ ───


 違う?
 幾三郎君が震えてるんじゃなくて 家が揺れてる?
 ......と 思う間に 大きな振動を感じはじめる。
 地震だっ! しかも大きい。

 パッと振り返ったボクの視野に 柱時計の文字盤が映る。
 

 ─── 11時58分 ───


 その数字を確認し文字盤から 視線を下ろす。
 ボクの手の中には 白い磁器のティーカップ。
 中には 微かに揺れる黄色いハーブティー。


「どうしたの ボーッとしちゃって? お茶が 冷めちゃうわよ?」


 ...え?
 ......あれ?
 七海さんの声?

 フッと我に返り もう1度 柱時計を振り返る。
 
 ─── 11時58分 ───

 ゆっくりと辺りを見回す。
 ずっと奥へ続く細長い店内には ガラス戸棚が並べられ 年代物のアクセサリーや懐中時計 鼈甲べっこう細工の簪かんざしなんかが飾られている。左側の壁には掛け軸や額縁に入った油彩。......後期印象派風の静物画。更に奥には 綺麗に磨かれた和箪笥やロココ風の鏡台なんかが見えている。

 
「どーしたの~? 100年ぶりに うちの店に来たってゆーような顔しちゃって?」

 
 ......そう ここは七海堂。
 昼までで帰る小学生達の声が さっきより少し近く聞こえる。
 そして 遠くに聞こえる サイレンの音。


「ああ そこの城西総合公園で 防災訓練やってるの。毎年聞こえるのよ~」


 そう 今日は9月1日......防災の日。
 慌てて スマホを取り出し検索を掛ける。

 大正12年9月1日11時58分 関東大震災発生。
 東京 横浜を中心に死者 行方不明者 約10万5千人。
 地震の被害もさることながら その後 発生した大規模な火災によって 膨大な死者を出した 日本史上最大規模の震災。
 ......そして 最悪の焼死者が出た場所は〈本所陸軍被服廠〉付近。

 郁二郎兄さんの声が甦る。
 
『なぁ しのぶ。来週から俺は 出張で東京へ出掛ける。三宅坂の本省へ行ったり 本・所・の・被・服・廠・で軍服の支給受け取りとか そんなお役目だ』
 
 脚の裏が崩れ落ちそうになる。
 そう 郁二郎兄さんは 今 被服廠にいたんだ。

 全てが ボクの中で繋がり始める。
 裸婦像27『しのぶ』。
 その表情の意味。
 長谷浦 城隍が 2度と裸婦像を描かなかった訳。
 そして 城隍が猛烈な官展批判者になっていった理由。


 幾三郎君は地獄に墜ちたんだ。


 しのぶさんを描いていた同時刻。
 あんなに悩んで悩んで 悩んでの決断。その決断の末に しのぶさんを描いていた同時刻。郁二郎兄さんは 何も知らずに 被服廠で焼かれて死んだんだ。

 しのぶさんの あの表情。
 そして 2度と しのぶさんを描かなかった理由。
 ......いや 描けなかった理由。
 最悪の予想が 胸を過る。
 

 そう。
 しのぶさんだ。
 しのぶさんは どうなったんだ?


 ボクは 七海堂を飛び出すと ひとつ向こうの角を曲がる。
 今まで 1度も曲がったことのない角。
 でも 見覚えのある裏路地。

 回向院。

 木製の小さな山門に小さな偏額の掲げられた小さな寺院。
 門を入って右手に木造の本堂が見え 向かって左手 紫陽花の茂みの奥には あまり広いとは言い難い敷地に 粗末な墓石が群がるように犇めいている。その墓地へと向かう飛び石のある細道の横 ちょうど墓地の入り口の所に 小ぶりな祠があって 赤い幔幕の奥に 石造りのお地蔵様が祀られている。
 全てが記憶通り。


 そして ボクの記憶にある区画の小さな墓石。


 その側面に刻まれた文字。
 大正四年歿 静子
 昭和三年歿 信夫

 たぶん 大正四年に亡くなった静子って人が しのぶさんのお母さん。
 この文字には見覚えがある。
 
 その隣は 信夫さん 昭和三年歿。

 ......ちょっとホッとする。
 しのぶさんが〈郁二郎兄さんの後追い自殺をしたんじゃないか〉っていう ボクの最悪の予想は外れたみたいだから。
 この〈信夫〉さんっていう人は 誰なんだろう?
 しのぶさんの関係者なんだろうけど。

 昭和三年っていう年に 少し引っ掛かる。
 そして〈信夫〉の文字。

 ......これって もしかして〈しのぶ〉って読むんじゃあないのか?

 昭和三年は 幾三郎君がパリ留学を切り上げて 日本に帰国した年。
 ボクの中で もう1つパズルが嵌まった音がした......。
 .........。
 ......。
 ...。 
 

 

 
 
 
 
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「地獄に墜ちてもいい......。僕は貴女を描えがきたい」


 土曜日の朝 花を活けに訪れた しのぶさんを 玄関で抱き締め 幾三郎君が言った。
 三和土へと舞い散る 竜胆の花弁。
 そして しのぶさんの腕が 幾三郎君の背中に回る。
 潤んだような沁み透るような声。


「......ありがとう」


 居間の端に静かに座る しのぶさん。
 幾三郎君が画帳を開く。画帳に書き込んだ題名は〈仇月壱日 しのぶ〉。
 ......そう。〈しのぶ〉だ。
 速力のある鉛筆の走る音が 襖を閉ざした居間に響きはじめる。


 .........。
 ......。


 そして その時が来た。
 

「帯を解いて欲しい」
 

 そう告げる幾三郎君の声が微かに震える。
 それまで ただ ただ静かに座っていた しのぶさんの身体も 小さく震えた。
 幾三郎君の身体も小刻みに揺れている。


 ─── カタッ カタカタッ ───


 違う?
 幾三郎君が震えてるんじゃなくて 家が揺れてる?
 ......と 思う間に 大きな振動を感じはじめる。
 地震だっ! しかも大きい。

 パッと振り返ったボクの視野に 柱時計の文字盤が映る。
 

 ─── 11時58分 ───


 その数字を確認し文字盤から 視線を下ろす。
 ボクの手の中には 白い磁器のティーカップ。
 中には 微かに揺れる黄色いハーブティー。


「どうしたの ボーッとしちゃって? お茶が 冷めちゃうわよ?」


 ...え?
 ......あれ?
 七海さんの声?

 フッと我に返り もう1度 柱時計を振り返る。
 
 ─── 11時58分 ───

 ゆっくりと辺りを見回す。
 ずっと奥へ続く細長い店内には ガラス戸棚が並べられ 年代物のアクセサリーや懐中時計 鼈甲べっこう細工の簪かんざしなんかが飾られている。左側の壁には掛け軸や額縁に入った油彩。......後期印象派風の静物画。更に奥には 綺麗に磨かれた和箪笥やロココ風の鏡台なんかが見えている。

 
「どーしたの~? 100年ぶりに うちの店に来たってゆーような顔しちゃって?」

 
 ......そう ここは七海堂。
 昼までで帰る小学生達の声が さっきより少し近く聞こえる。
 そして 遠くに聞こえる サイレンの音。


「ああ そこの城西総合公園で 防災訓練やってるの。毎年聞こえるのよ~」


 そう 今日は9月1日......防災の日。
 慌てて スマホを取り出し検索を掛ける。

 大正12年9月1日11時58分 関東大震災発生。
 東京 横浜を中心に死者 行方不明者 約10万5千人。
 地震の被害もさることながら その後 発生した大規模な火災によって 膨大な死者を出した 日本史上最大規模の震災。
 ......そして 最悪の焼死者が出た場所は〈本所陸軍被服廠〉付近。

 郁二郎兄さんの声が甦る。
 
『なぁ しのぶ。来週から俺は 出張で東京へ出掛ける。三宅坂の本省へ行ったり 本・所・の・被・服・廠・で軍服の支給受け取りとか そんなお役目だ』
 
 脚の裏が崩れ落ちそうになる。
 そう 郁二郎兄さんは 今 被服廠にいたんだ。

 全てが ボクの中で繋がり始める。
 裸婦像27『しのぶ』。
 その表情の意味。
 長谷浦 城隍が 2度と裸婦像を描かなかった訳。
 そして 城隍が猛烈な官展批判者になっていった理由。


 幾三郎君は地獄に墜ちたんだ。


 しのぶさんを描いていた同時刻。
 あんなに悩んで悩んで 悩んでの決断。その決断の末に しのぶさんを描いていた同時刻。郁二郎兄さんは 何も知らずに 被服廠で焼かれて死んだんだ。

 しのぶさんの あの表情。
 そして 2度と しのぶさんを描かなかった理由。
 ......いや 描けなかった理由。
 最悪の予想が 胸を過る。
 

 そう。
 しのぶさんだ。
 しのぶさんは どうなったんだ?


 ボクは 七海堂を飛び出すと ひとつ向こうの角を曲がる。
 今まで 1度も曲がったことのない角。
 でも 見覚えのある裏路地。

 回向院。

 木製の小さな山門に小さな偏額の掲げられた小さな寺院。
 門を入って右手に木造の本堂が見え 向かって左手 紫陽花の茂みの奥には あまり広いとは言い難い敷地に 粗末な墓石が群がるように犇めいている。その墓地へと向かう飛び石のある細道の横 ちょうど墓地の入り口の所に 小ぶりな祠があって 赤い幔幕の奥に 石造りのお地蔵様が祀られている。
 全てが記憶通り。


 そして ボクの記憶にある区画の小さな墓石。


 その側面に刻まれた文字。
 大正四年歿 静子
 昭和三年歿 信夫

 たぶん 大正四年に亡くなった静子って人が しのぶさんのお母さん。
 この文字には見覚えがある。
 
 その隣は 信夫さん 昭和三年歿。

 ......ちょっとホッとする。
 しのぶさんが〈郁二郎兄さんの後追い自殺をしたんじゃないか〉っていう ボクの最悪の予想は外れたみたいだから。
 この〈信夫〉さんっていう人は 誰なんだろう?
 しのぶさんの関係者なんだろうけど。

 昭和三年っていう年に 少し引っ掛かる。
 そして〈信夫〉の文字。

 ......これって もしかして〈しのぶ〉って読むんじゃあないのか?

 昭和三年は 幾三郎君がパリ留学を切り上げて 日本に帰国した年。
 ボクの中で もう1つパズルが嵌まった音がした......。
 .........。
 ......。
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