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第19話 朝顔




 8月の末の日曜日の朝。
 その日は 郁二郎兄さんも 幾三郎君も休みだった。

 ─── チリーーーン ───

 軒先に吊るされた小さな風鈴が 高く涼しげな音色を奏でる。
 朝のルーティンを済ませ 郁二郎兄さんは自室に 幾三郎君も 部屋で画帳の整理。

 微かに聞こえる草履の音。カラリと乾いた音を立て玄関の引き扉が開き 耳に入る潤んだような 沁み透るような声。


「おはようございます。......郁二郎さん いらっしゃいますか?」


 お兄さんの部屋の襖が開き 玄関へと向かう足音。
 幾三郎君も玄関へ。 
 

「お松さんが藪入りで...... わたしが代わりに」


 仄かに漂う秋の気配と共に 三和土へと入ってくる 艶やかに結われた黒髪。
 今朝の しのぶさんは 浅葱色の地に薄紅色の朝顔があしらわれた着物姿。


「いい色だな。似合っている」

「母が 遺してくれた着物なんです。もう時期外れなんですけれど もう一度 着ておきたくて......」


 珍しく郁二郎兄さんが しのぶさんの服装について褒め それを聞いた しのぶさんも仄かな笑み。......そして ボクには 幾三郎君の表情を窺い知ることはできない。
 

「なぁ 幾三郎。その なんだ...... せっかくだし しのぶのことを描いてやってくれんか? 風景が専門のお前だが 美術院に通っとるんだ。できんこともなかろう?」


 幾三郎君は 一旦 自室に戻り いつもの画帳を取ってくる。
 そして 三和土に立つ しのぶさんを描き始める。
 大判1枚を縦描きで。

 静かな夏の朝。
 いつものように 速力のある鉛筆の音が響き始め......は しなかった。
 大判の上に 写し取られていく しのぶさんの立ち姿。
 このクオリティなら 美大の入試だって通るだろう。

 だけど。
 
 だけど...だ。
 この1年間 何百枚という幾三郎君のデッサンを見てきたボクには分かった。
 幾三郎君の線は 迷いに迷っている。
 この迷った速度のない線は 天才 長谷浦 幾三郎の線じゃあなかった。

 大判1枚の絵が出来上がった時 郁二郎兄さんは とても喜んでくれたけど 幾三郎君は それが自分の線じゃないってことに気づいてたと思う......そして いつも幾三郎君の絵を見てきた しのぶさんも。


「なぁ しのぶ。来週から俺は 出張で東京へ出掛ける。三宅坂の本省へ行ったり 本所の被服廠で軍服の支給受け取りとか そんなお役目だ」


 郁二郎兄さんは 幾三郎君が画帳から外し お兄さんに手渡した デッサンから目を上げ しのぶさん本人と見比べるようにしながら 今後の予定を伝える。


「東京から戻って お役目についての報告やなんかを済ませたら しばらく休暇がもらえると思う。9月の半ば頃になると思うが。そうなったら 祝言の準備をしような」

「......はい。お待ちしてます」


 郁二郎兄さんの言葉に しのぶさんは静かに頷いたのだった......。
 .........。
 ......。
 ...。


 その日の午後 幾三郎君は 1枚もデッサンをしなかった。
 その次の日も。
 その次の日も。
 さらに 次の日も。

 ......そして 郁二郎兄さんが東京へと出掛けて行った日の夜も 真っ白な画帳のページを見詰めながら 呆然と過ごす 幾三郎君。
 何度も鉛筆を握り締め 描きだそうとして そこで止まる。
 画帳を握り締め 床に叩きつけようとして 幾度となく踏み止まる。

 一体 何時間 そうしていたんだろう?

 最後に もう一度 画帳を見詰める。しばらく続いた嗚咽の声の後 真っ白なケント紙の上に 三滴の涙が零れた。

 ─── チリーーーン ───

 秋の訪れを告げるような冷たい風が吹き まだ仕舞われない 風鈴が遠く鳴る。
 5日目の夜が白み始める......。
 .........。
 ......。
 ...。



 

 
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城隍亭 画帳控え作者:金星タヌキ
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 8月の末の日曜日の朝。
 その日は 郁二郎兄さんも 幾三郎君も休みだった。

 ─── チリーーーン ───

 軒先に吊るされた小さな風鈴が 高く涼しげな音色を奏でる。
 朝のルーティンを済ませ 郁二郎兄さんは自室に 幾三郎君も 部屋で画帳の整理。

 微かに聞こえる草履の音。カラリと乾いた音を立て玄関の引き扉が開き 耳に入る潤んだような 沁み透るような声。


「おはようございます。......郁二郎さん いらっしゃいますか?」


 お兄さんの部屋の襖が開き 玄関へと向かう足音。
 幾三郎君も玄関へ。 
 

「お松さんが藪入りで...... わたしが代わりに」


 仄かに漂う秋の気配と共に 三和土へと入ってくる 艶やかに結われた黒髪。
 今朝の しのぶさんは 浅葱色の地に薄紅色の朝顔があしらわれた着物姿。


「いい色だな。似合っている」

「母が 遺してくれた着物なんです。もう時期外れなんですけれど もう一度 着ておきたくて......」


 珍しく郁二郎兄さんが しのぶさんの服装について褒め それを聞いた しのぶさんも仄かな笑み。......そして ボクには 幾三郎君の表情を窺い知ることはできない。
 

「なぁ 幾三郎。その なんだ...... せっかくだし しのぶのことを描いてやってくれんか? 風景が専門のお前だが 美術院に通っとるんだ。できんこともなかろう?」


 幾三郎君は 一旦 自室に戻り いつもの画帳を取ってくる。
 そして 三和土に立つ しのぶさんを描き始める。
 大判1枚を縦描きで。

 静かな夏の朝。
 いつものように 速力のある鉛筆の音が響き始め......は しなかった。
 大判の上に 写し取られていく しのぶさんの立ち姿。
 このクオリティなら 美大の入試だって通るだろう。

 だけど。
 
 だけど...だ。
 この1年間 何百枚という幾三郎君のデッサンを見てきたボクには分かった。
 幾三郎君の線は 迷いに迷っている。
 この迷った速度のない線は 天才 長谷浦 幾三郎の線じゃあなかった。

 大判1枚の絵が出来上がった時 郁二郎兄さんは とても喜んでくれたけど 幾三郎君は それが自分の線じゃないってことに気づいてたと思う......そして いつも幾三郎君の絵を見てきた しのぶさんも。


「なぁ しのぶ。来週から俺は 出張で東京へ出掛ける。三宅坂の本省へ行ったり 本所の被服廠で軍服の支給受け取りとか そんなお役目だ」


 郁二郎兄さんは 幾三郎君が画帳から外し お兄さんに手渡した デッサンから目を上げ しのぶさん本人と見比べるようにしながら 今後の予定を伝える。


「東京から戻って お役目についての報告やなんかを済ませたら しばらく休暇がもらえると思う。9月の半ば頃になると思うが。そうなったら 祝言の準備をしような」

「......はい。お待ちしてます」


 郁二郎兄さんの言葉に しのぶさんは静かに頷いたのだった......。
 .........。
 ......。
 ...。


 その日の午後 幾三郎君は 1枚もデッサンをしなかった。
 その次の日も。
 その次の日も。
 さらに 次の日も。

 ......そして 郁二郎兄さんが東京へと出掛けて行った日の夜も 真っ白な画帳のページを見詰めながら 呆然と過ごす 幾三郎君。
 何度も鉛筆を握り締め 描きだそうとして そこで止まる。
 画帳を握り締め 床に叩きつけようとして 幾度となく踏み止まる。

 一体 何時間 そうしていたんだろう?

 最後に もう一度 画帳を見詰める。しばらく続いた嗚咽の声の後 真っ白なケント紙の上に 三滴の涙が零れた。

 ─── チリーーーン ───

 秋の訪れを告げるような冷たい風が吹き まだ仕舞われない 風鈴が遠く鳴る。
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