第8話 竜胆の人
稲ちゃんと別れた幾三郎君は 稲荷町から市電(路面電車だ)に乗って 本町の自宅に朝帰り。
自宅に帰ると 幾三郎君はいつものように朝食の用意。
そして お兄さんが起きてくる。
「兄さん おはようございます」
「おはよう。朝の支度すまんな」
朝食を採りながら お兄さんが話しかけてくる。
「昨日は 女郎屋か? たまにはいいが 学業に支障の出んようにしろよ?」
「......はい」
「まぁいい。今日も美術院か?」
「いえ。今朝は 部屋で描き溜めた画帳の整理をしようと思っています」
「そうか。良い絵が描けるよう 精進しろ」
「......はい。ありがとうございます」
そんな会話の後 郁二郎兄さんは 広河原へと出勤していった。
......その 個人的には しちゃった後だし シャワーとか浴びないの?ってゆーのがスゴく気になる。昨日 泊まった〈白木屋〉には もちろん お風呂なんてなかった。そして 幾三郎君が暮らすこの離れにも 家風呂は存在しない。兄弟は たいてい毎日 近所の銭湯に出掛けるんだけど......。
そんなこと考えてたら 幾三郎君は タライに水を汲み上げ 手ぬぐいで身体を拭き 井戸のある小庭で体操。
ちょっとサッパリした......ボクの気分的に。
その後 自室の縁側に腰掛け 庭に植えられたマンリョウと蹲踞の様子をスケッチしていく。
玄関の引き戸が開く音がして 誰かが離れに上がり込む音がする。
幾三郎君は その音には気付いたみたいだけど お手伝いのお松さんが 掃除に来たって分かってるんだろう......手を止めること無く 蹲踞の水面に映る 楓の影を画帳の上に描線として再現していく。
居間の辺りでハタキを掛けるパタパタという微かな音。
遠くできこえる小鳥の囀り。
表の砂利道を豆腐屋の笛の音が 通り過ぎていく。
秋の朝の日差しの下 時が止まったかのような感覚。
その中を 幾三郎君の走らせる鉛筆の音だけが 止まること無く 小さく響き続けている。
小さな足音が 幾三郎君の部屋の襖の前で止まる。
「幾三郎くん 入っても いいかしら?」
襖の向こうからの声。
幾三郎君の筆が止まる。
お松さんの低い嗄れた声じゃない もっと潤んだ沁み透るような声。
「......はい。どうぞ」
幾三郎君の返事 ほんの少し上擦った?
襖を スーッと開けたのは 両膝ついて 紺の絣の着物を着た女性。折り目正しい所作が美しい黒髪。
そして ボクは息を呑む。
『しのぶ』
が そこに居た。
下ろし髪じゃなく 後ろで結い上げてるけど 少しクセのありそうな艶やかな黒髪 白皙の額 黒く長い睫毛。『しのぶ』では 深い愁いを湛えていた瞳は 今は少し悪戯っぽく笑っているようにも見える。少し雰囲気は違うけれど見間違うハズも無い。『しのぶ』のモデルとなった女性が 身を屈めて スッと部屋へと入って来た。
「......しのぶさん」
「今日はね お松さん 法事があるとかで......代わりに わたしが」
そう言いながら 縁側まで やって来て 幾三郎君の隣に正座する。
伸びた背筋と項が凛とした印象。
「迷惑だったかしら?」
幾三郎君の瞳を覗き込むように微笑んで 尋ねてくる。
「......いえ。別に」
「お掃除しに来るのは 久しぶりだけど お花は 3日置きぐらいで 生けに来てるのよ。今朝も 庭の竜胆が綺麗だったから 生け直しに」
......ああ。
あの竜胆の花は しのぶさんだったのか。
「前の竜胆は 描いた?」
しのぶさんが そう問うと 幾三郎君は 画帳を開いて手渡す。
いつも大事そうに抱えてて 美術院の友達なんかにも なかなか見せないのに しのぶさんには 抵抗もなく渡すんだな。
どーゆー関係なんだろう?
「あら。上手に描いてくれたのね......」
しのぶさんは 年の頃いくつくらいだろう?
見たところ 幾三郎君と似たような年頃に見えるけど 歳上っぽい喋り方だし二十四~五ってところなんだろうか?
しのぶさんは 画帳を捲りながら 幾三郎君が描いたデッサンを丁寧に見ていく。
「......これは 彼岸花?」
「バス待ちの時に」
「野辺に力強く咲いている姿 わたしは嫌いじゃないわ......」
彼岸花。
父方のお祖母ちゃんは『縁起が悪い』って けっこう嫌ってたけど。
幾三郎君は そんなこと気にしなさそう。
形が面白いと思えば すぐ描いちゃうだろうし。
しのぶさんは 彼岸花に何か思い入れがあるような含蓄のある言い方。
どういう背景の人なんだろう?
疑問は深まるばかり......。
「あら? この女の子 昨日描いたの? お女郎さん?」
「......ミルクホールで 会った女給です」
「ふーん。女給さんねぇ......」
少し訝しげで非難を込めたような表情を浮かべるけど 侮蔑や怒りってほどじゃないらしい。『お女郎さん?』って聞いてるってことは 幾三郎君が そーゆーことしてるって分かってるんだよね......。
ホント どーゆー関係なんだろう?
幾三郎君には お姉さんと妹がいるんだけど しのぶさんは 実のお姉さんじゃないハズなんだ。恋人って雰囲気でも無いんだけど......。ボクの彼女だったら ボクが風俗店に行ったとか 買春したって知ったら 怒るじゃ済まない気がする......絶対 別れるって言うと思う。ってゆーか何も言わず出ていくかも。下手したら無言で刺されるかもしれない。
「お兄さんには まだ 話してないんでしょう?」
「ええ。まだです」
「前にも聞いたけれど 女の人の裸で帝展に出展なんて 大丈夫なの? 随分 権威のある展覧会なんでしょう?」
「......確かに そうです。権威はある。でも 僕は自分が一番 美しいと思う絵を 描きたい」
「それが 女の人の裸?」
「西洋絵画では 普通のことです」
初めて聞く 幾三郎君の強い口調。官展への徹底的な戦闘者としての城隍の片鱗を感じさせる強い口調。でも 城隍は 裸婦像を帝展には 出品して無いハズなんだ。裸婦像は 描いてるけど 帝展への出品は見送る幾三郎君。そして 『しのぶ』を最後に裸婦像は封印される。帰朝後の官展への徹底的な否定。しのぶさんと幾三郎君の間に 何があったんだろう?
この先 ボクは 何を見るんだろうか......?
.........。
......。
...。