第12話 椿
床の間の黒い平鉢に水が張られ 三輪の紅い椿が浮いている。
外は雪。
雪は珍しくない光岡の街だけど こんなにどっさりと積もるのは 余りない。
朝9時。
お兄さんは 当直任務だったけどまだ帰って来てはいない。
幾三郎君は 自主休講を決めたのか 朝から画帳を開きひたすらデッサン。
分厚い綿入れを着込み 火鉢を抱え込みながら 鉛筆を走らせ続けている。火鉢とか 一酸化炭素中毒 めっちゃ怖いんデスけど?ってビビるボクの心配をよそに 幾三郎君は 時折 火箸で炭と灰とを かき混ぜて火力を調整している。
降り続く牡丹雪が音を消すのか 家の外は全くの静寂。
幾三郎君の動かす鉛筆の音だけが しじまの中に響き続ける。
微かに聴こえる 新雪を踏む音。
鉛筆を持つ手が 一瞬だけ止まる。
玄関前の三和土で 傘の雪を払い 桐のポックリ下駄の雪を落とす軽い音。軍靴を履いてる郁二郎兄さんの音じゃない......女の人だ。
「しのぶです。......郁二郎さん いらっしゃいますか?」
かまちから聞こえる声に 画帳を閉じ 玄関へと向かう幾三郎君。
「しのぶさん。兄は まだ 帰りません。当直だったので 本来なら帰っている時刻なんですが」
「そう。お松さん この雪だから まだ来てなくて わたしが......」
今日の しのぶさんは 灰色っぽい厚手の着物に御高祖頭巾っていうのかな? 薄紫色の頭全体を覆う頭巾姿。幾三郎君の顔を見ると 少しほっとした様な そして 微かに恥ずかしそうな笑み。
「御高祖頭巾なんて 古臭いでしょう? 幾三郎君 この前は とてもモダンな女の人 描いてたのに......」
この冬 『藤浜埠頭』に悪戦苦闘しながら 並行して『モガ』の彩色絹本の制作をしてた幾三郎君。
色作りも含めて 一気呵成って感じで仕上げた裸婦像13『モガ』。
自作の最先端デザインの帽子と舶来の衣装を身に纏い胸元をはだけ こちらを見つめる美寿々さん。
哀しみとも挑発の笑みともつかぬ無表情。
その完成品を 幾三郎君は しのぶさんに見せた。『この絵で 帝展に?』そう問う しのぶさんに 唇を噛み 小さく首を横に振る。お金持ちのお妾さんの半裸を描いて展覧会へ。ボクらの時代でもスキャンダルになりそうな話。ましてや この大正時代だと いよいよダメっぽい。絵としては かなりの完成度だと ボクは思ったけど。それが2週間前。
しのぶさんは 被っていた頭巾を外して畳みながら かまちへと上がってくる。
黒い緩い癖っ毛を後ろで纏めた いつものスタイル。
「......寒かったし お母さんが 遺してくれた数少ない品物だから」
お母さんが 遺してくれた?
隣家の奥さんって 会ったことあるけどな? あの人って しのぶさんの お母さんじゃないの? 色々 疑問が浮かぶけど 幾三郎君は 例によって無言のまま。幾三郎君は 事情を知ってるんだろうなって思うけど 確証は無い。
「生けて頂いた 椿 今朝 描きました」
「ああ 描いてくれたんだ。椿も お母さんが好きだったの」
画帳を受け取りながら しのぶさんが 微笑む。
「侍の家は 椿 ダメなんですってね。ポトリと落ちるから 縁起が悪いんですって。絹枝ちゃんに窘められたの」
「......美しい紅だと思います」
「うん。そう思ったから 幾三郎君の部屋に生けたんだけど...... でも 郁二郎さんも軍人ですものね。わたしが 軍人の妻だなんて 大丈夫かしらね......」
そう言って 静かに微笑む しのぶさん。
この半年で 判ってきたこと。
しのぶさんと郁二郎兄さんは 今年の十月に結婚するらしい。
恋愛結婚じゃあないみたい。幾三郎君と郁二郎兄さんの実家である長谷浦家と しのぶさんの家である この離れの隣家 坂本家の家同士が決めた結婚。
長谷浦家と坂本家は 光岡の旧家として 代々付き合いがあるらしい。どうも 子どもの頃から 少し行き来があった様な雰囲気。その縁で 郁二郎兄さんが この離れに下宿することになり 年齢も近いということで しのぶさんとの縁談が持ち上がったという流れみたい。
......ただ な。
しのぶさんは 幾三郎君とは話す。
絵の話とか 花の話とか。
幾三郎君は しのぶさんには 絵を見せる。
お兄さんには 見せないのに。
しのぶさんは 郁二郎兄さんとも話す。
でも その会話は すごく表面的な感じがする。
......ボク的には だけど。
なんとなく なんとなくだけど 幾三郎君は しのぶさんに恋愛感情を持ってるんだと思う......そして しのぶさんも。幾三郎君も しのぶさんも それを口にすることは無いんだけど ね。ただ 最後『しのぶ』に結実することを考えると それは ある意味〈確実〉だとも言える。
お兄さんの婚約者。
確かに表に出せない関係だったのは 分かってきた。もちろん この2人は結婚なんてしない。郁二郎兄さんと しのぶさんが結婚したのかどうかについて ボクの記憶は無い。この後 この3人に どんな関係が進展するのか? それが『しのぶ』制作の核心なんだろう。いったい ボクは 何を見るんだろう......。
三和土で 雪を払う音が聞こえ カラリと引き戸が開く。
陸軍の制服に身を包んだ郁二郎兄さんの姿。
「ただいま 今 帰った......ああ しのぶ。来ていたのか」
「お帰りなさいませ 郁次郎さん。雪で来れない お松さんの代わりに」
「すまないな。昼食の用意をしてくれ」
「はい」
しのぶさんは 静かに頭を下げて 台所へ。
「幾三郎 家に居るのなら 門から玄関までの雪掻きをしておけ。しのぶも帰りやすいだろうし」
「はい」
「すまんな。俺は当直で疲れた 昼飯まで 少し眠る」
そう言うと 郁二郎兄さんは 自分の寝間へと入っていった......。
.........。
......。
...。