濁流風
そうして、二人は書店の中に入った。書店の中は随分と伽藍堂としていた。その証拠に、人の匂いや感情はなく、ただ墨と紙の匂いが店内を充満させていた。
――これは記録書か?
そう思いながら手に取った本は『東国の誕生までの歴史』と書かれた歴史について記されている本だった。
――これは、楽しさが出てる。なんだろう。
そう思いながら手に取った本は『星を紡ぐ』と書かれた娯楽小説と呼ばれる本だった。
風がざわめいた。勿論、春の匂いではない。
潮でもない。桜の花でもない。
まるで煤を吸い込んだかのように、僅かに濁った風だった。思わずアイは、その風の方向へと振り返る。
一冊の絵本がそこに置かれていた。
――なんだ、これ。
身体が違和感を感じている。今までの物とナニカが違うと叫んでいる。
『てんしとあくま』 作 楪菖蒲
白い服を身に纏い、白い羽根二枚を持つ者と、黒い服を身に纏い、頭から角のようなモノが生えており、少し形の違う羽根二枚を持つ者が描かれていた。
「天使と悪魔...絵本か」
「えほん?」
「基本的に、本って文字が多いんだよ」
「何故だ?」
「...人が、想いを伝えるために最初にした方法だからだな。でもこの絵本ってのは、文字じゃなくて絵が多いんだ。だから子ども向けとも言われてる」
「...この本だけ、変わった空気を感じたんだ」
アイの言葉を聞き、リンはアイの手に持つ本を見つめた。
ただの絵本にしか見えない。
特別、汚れなどがあるわけでもない。
「ふーん、ちょっと見せて」
アイは手にした本をリンに手渡す。
リンはその一部をペラペラと捲る。
『あるもりのなか、ひとりのあくまがいました。そのあくまはまっくろなかみのけと、つの、そしてとがったはねをもっていた』
『あくまはみんなにきらわれていました。こわい、おそろしい、でていけ!とわるぐちをいわれていました』
『しかし、ひとりのてんしがそれをゆるさない。てんしはあくまも友だちだというのです』
『そのてんしは、とてもキレイな琥珀(こはく)のかみのけとめをもっいました。そして、しろいふくをきて、みんなをやさしくてらすのです』
『琥珀の眼を持つ者千里を見透すって、いわれているのしってる?』
『なあに?それ』
『わたしは、わたしは!』
『ごめんね』
何頁か捲った後、リンは絵本を閉じた。改めて表紙を見る。
琥珀の髪と眼を持つ天使が上空に描かれている中、烏の髪と眼を持つ悪魔は、対になるように地面へ座ってる所を描かれている。
特徴的な点と言えば、悪魔が天使を見上げるように優しく見つめているところだろうか。
もう一つ挙げると、すれば、ほとんどは平仮名で書かれているのにもかかわらず、『琥珀の眼を持つ者千里を見透す』という言葉だけ、漢字を使っていた事くらいか。
――絵本にしては漫画みたいに綺麗な絵だな。楪菖蒲ね、ちょっと覚えとかないとな。
リンは本を本棚にそっと返そうとしたが、その手を止めた。
――琥珀と...天使と悪魔ね。あ。
リンは表紙をアイに見せた。
「欲しいなら、買ってやるけどどうする?」
その言葉に、アイは言葉を返せなかった。
自身の思考を、どう言語化したらいいのか分からなかったのだろう。
数分の沈黙の末に、口を開く。
「てんしとあくまについて知りたいのが大きい」
「あ、そっか知らないのか。大体は絵本読んだら分かるよ」
「そうか」
「けど東国では悪魔は妖怪とか、物怪とか言われることが多いけどこの悪魔は洋風...つまりは、お前のいた南国と近い描写がされてるから、読みやすいかもな」
「絵本なら、文字が読めない私でも何となく感じ取ることはできるかもしれない、絵本を買いたい」
「買ってきてやるよ......ん、どした?」
服の裾を摘んだまま離そうとしないアイをリンは優しく見つめた。
「何かあったか?」
「なんでそんな事聞くんだ?」
「不安と恐れ、後思考がした。一瞬で感じ取れる程に強い思いだ」
リンは心の中で「そこまで分かるのかよ」と思いつつ、なんてことのないような顔を見せた。
「何にもない。一緒に店主のところ行ってみるか、買い物の経験させてやるよ」
そう言いながら、絵本を片手にリンはアイの手を握り店主の所へと向かう。リンが深い茶色の革財布をアイに手渡し、お金の使い方などを教えたが、アイが「おかねを手にした瞬間、頭が痛くて苦しい」と言った為、会計はリンが行った。
――金は執着、喜び、悲しみ、賭け事の快楽といった様々な思考と匂いが染み付いてるのか。
アイには世界を見るではなく、匂いや音、或いは記憶などで視る傾向にある。
つまりは、自分が何も思わない情報でも、アイにとっては致命傷になるかもしれないということだった。
――もう少し気をつけないとな。しっかし親父も面倒なこと頼んできたもんだよな。
リンは書店を後ろにアイと並んで歩く中、父の記憶を思い出す。
『あの少女神は、シュテルの想いだから護ってくれ』なんて。
父が死んだ後、コートの内側に手紙が入っていた事で知った。詳しい内容が書かれていたが、リンは途中でその手紙を読むことをやめた。
全部読んでしまえば、それこそ父の形見になってしまうと思ったからだ。
手紙とは、人が最初に他者に想いを伝える為に使った手段。
文字は、人が人に思いを伝える為に最初に手にした手段。
この手紙の真の意味は、リンはまだ知らない。
この文字に、どれだけの想いが込められたか、リンはまだ知らない。