オルフェウスの花畑
春夏秋冬の季節を三度繰り返したが、男は現れなかった。
その間にも、救いを求める人物は訪れてきた。
「お導きを」
そう言いながら、信仰する人々に道を授けた。
「神様、ありがとうございます」
そう言う人々をアイは、見ることができなくなった。
アイは毎晩、夜になると藍色の花を咲かせる。
「貴方様のお陰で、今日も私達は生きています」
そう言われるたびに、あの朝日の色合いの服を思い出した。あの男の前でしか見せたことがなく、あの男と次会うときに着ようと決めてから一切着ていない服を。
あの重りのない服を着る機会を待っていた。
男が来ない理由は、薄々察していた。
風はもう答えを知っているし、いつでも伝える準備はできているはず。しかしアイは、確かめる術はあるのに確かめようとはしなかった。初めての拒絶とも言える。
――だって、またと言った。
またと言い、男は期間が空きながらも必ず会いにきてくれた。一瞬近くを通り過ぎた際は「調子は?」と少しだけでも声を掛けてくれた。近くを通った際、話しかけられない時は少しだけだが手を振ってくれた。
普通の子として、接してくれた。
アイは、虹彩色の花とは他に、深い藍色の花を咲かせ続けていた。
アイ...そんな事をしても、意味ないのに。
ボクはそんな風に思った。だってそうだろう?
もう、あの男はいないのにそんな事をする理由が、ボクには分からなかった。
だけど、花を咲かせ続けるアイはやっぱり美しいとボクは思う。
早く帰ってきてという、祈りと。
どうか生きていてという、願いと共に。
アイは静かに、今日も、藍色の花を咲かせる。
憂いを帯びた横顔は、儚くて、美しい。
そして四度目の春を迎えた。
桜の木はいざや、桜見物と誘うように咲き誇る。淡い空は春の祝福そのものを受けている。
祈りを求める人たちの中、アイは夜を見た。
事実ではない。ただの比喩だ。
夜空色のコートを羽織る人物を見たのだ。
見間違えるはずもないとアイの呼吸が止まる。
その人は、人混みを掻き分けるように歩く。
近づくにつれ、アイは気づく。
背丈も、顔立ちも、纏う空気も違うと。
けれど、いつも必ず着ていたそのコートだけは確かに同じだった。
その男は、アイの前で立ち止まる。
人々は「失礼だぞ!」と口にする。
「黙れ」
その言葉だけで、人々は黙り込む。
二人の様子を、静かに見る。
切れ長の勿忘草の瞳が、静かに神秘を捉えた。
そして、少し面倒そうに口を開いた。
「お前の名前ってアイで合ってる?」
春風が吹くと、同時に桜が舞う。
男は片手をポケットへ突っ込んだまま、気怠げに名乗った。
「俺、リン・シュテルリヒト。親父に頼まれて此処に来た」
その言葉の意味とは?
――あの男は、本当に、もう、会えないのか。
「...客人だ、丁重にもてなせ」
アイはそう言うと、同じ装束服を纏う人たちがリンと名乗る男の荷物を預かろうとした。リンは鞄とネクタイ裏に隠し持っていた武器。さらにはなかなかの量の金銭が入った財布まで躊躇う事なく渡した。
――少しの躊躇いもないのか。
世話役、正しくはアイの信仰者達はそう思う。
しかし、コートだけ引き寄せながら「これは渡せない」と呟く。
空気が一瞬止まったのを感じた。
アイの客人と言えど、言わば神の謁見だ。
外の物を持ち込むことは、基本的に禁止とされていた。禁止はアイが定めたのではなく、民の共通認識としてだ。
それに従おうとしない人物は多く見てきた。
だが、此処まで素直に渡しながら一つだけは絶対に渡さないと拒むのが、少し異常にも見えたみたいだ。
全然そんな事ないのにね。
――親の形見なのか?
そんな風に考えた一人が、アイの方へと一度目線を向けた。アイは、静かに頷く。
「かしこまりました、ではこちらへ」
信仰者は、夜空のコートを受け取ろうとはせずに、そのまま別の部屋へと案内した。
案内された部屋は、例えるのなら白い立方体だ。白い壁、白い床。光さえも白だった。机も木をペンキか何かで白に塗り替えられている。
リンは、通された部屋を見て驚くような表情を見せながら、用意されたふかふかの白い椅子に座り込む。
一時間が経った頃にノックの音が聞こえた。
「御使い様のおなりです」
そう言いながら、扉が開かれた。
するとそこには、先ほどの重々しい服とは違う、柔らかな服を着た少女が立っていた。
白いワイシャツに施された金糸の蝶刺繍は少女の存在感を強めてくれる。
朝日のような柔らかな色合いのスカートは少女の神秘さを和らげた。
淡い茶色のローファーは、歩きやすそうだった。
少し不器用な編み込みをまとめている黄水晶の宝石が嵌め込まれた蝶のブローチは、少女をより可憐とさせる。
「失礼します」
信仰者が去っていったのを確認した後、リンはゆっくりと口を開く。
「それ、親父のだな」
「変か?」
アイは、自身の着こなしが間違っていたのかと服を見つめた。
その様子を見て、リンと名乗る男は微笑んだ。
「似合ってる。けど髪がな...あの世話役か?」
「あの者は私に触れようとはしない。自分で...見て、やってみた」
リンは、もう一度アイの姿を見つめた。
不器用な編み込みを、ただ静かに。
「やり直してやるよ、座れ」
アイの手を引きながら、自分が座っていた椅子へと座らせる。先程まで人が座っていた体温がじんわりと伝わる。
「それ、さっきは着てなかったな」
髪に触れながら、少し嬉しそうに言う。
「民の前では、着たくなかった」
髪を解き、アイが持ってきていた櫛を借りながら髪を梳かす。
「俺も、民なんだけど」
「あの男に頼まれるくらいだ。信用に値する」
「それ、他の人してないみたいになるぜ?」
慣れた手つきで編み込みをしていく。
「.........そうかもしれない」
その言葉は、アイが長年言えなかったことだ。
「そ、親父は信頼されてたんだな...よかったよ」
そう言いながら微笑む姿を手持ち鏡越しに見て、アイは思う。
――ああ、やはり親子だ。
弧を描いた時の微笑みも。雰囲気も、匂いも、声も。どれも似ていた。
「ほら、できた。似合ってる」
その編み込みは、かつてあの男がしてくれた物と、よく似ていた。
「...嫌だった?」
リンと名乗る男は問いかけた。
「嫌とかではない、どうしてだ?」
「泣いてるから」
その言葉に、アイは思わず手持ち鏡を落とし、指で頬を触れる。
温かい雫が陶器肌の指を濡らす。
リンは静かに手持ち鏡を拾い、机の上に置いた後、アイを見つめた。
アイの視界はゆらりと揺れた。
「またと、言ってくれた」
「うん」
「次は外に、行くはず、だった」
「うん」
「.........場所を、考えてくれると」
「うん」
「もう...会えないの、か」
その震えた声に、リンは静かに頷いた。
「......」
涙を堪えるように、リンを見つめた。
「泣くのを我慢するな、泣け」
その言葉に、アイは初めて涙を流した。
声は殆ど出なかった。泣き方を知らない子どものように、静かに涙を流しながら、歪んだ視界でリンを見つめていた。
泣き終えた後、リンは夜空のコートの裾で涙を拭う。
「もし、お前が神様みたいに淡々と事実を受け止めてたらぶん殴ってたかもだわ。よかった泣いてくれて」
「お前、本当にあの男の子どもか...?」
「俺、結構顔は似てるって言われるけどな」
その言葉に、アイはリンを静かに見つめた。
「...面影はある、しかしお前の竜胆の花の色のような髪色も、勿忘草の花の色の眼も、それがお前を意味する」
「嬉しい褒め言葉だな」
「一つ、聞いていいか?」
「なんだ?」
「あの男の、名前を」
春風が優しく頬を撫でた。
「いや、言わない」
「何故だ...?」
「名前を知らないからこそ、お前は『また』を信じれたんじゃないのか?」
リンは、少し悲しげな眼で遠くを見つめた。
もう会うことのできない、父を思っているのかもしれない。
「なら、知らない方がいいだろ」
「...それも、そうか」
まだ潤んでいるオーロラの眼を見て、リンは微笑んだ。
「じゃあ行こうぜ」
「.........え?」
「外行く約束したんだろ?親父ルートじゃなくて俺ルートだけどさ、ほら」
そう言いながら手を差し伸べられた。
アイは、静かにその手を握った。
二人が出かけるのに随分な苦労をした。信仰者が許そうとしなかったからだ。
最終的にはアイの「民の様子を見たい。コイツはその案内役だ。他の者が着いてくる事は許さん」という神の一声で解決した。