プシュケーの糸
外に出ると、温かな日差しと共に聞こえる笑い声にアイは一瞬目眩を感じた。転げかけるその瞬間、リンが優しく受け止めた。
「おい、大丈夫か?」
「すまない、情報量が多くて...」
「手掴まってろ!えー、いい所にいた、おーいおっさん。サイダー二つ!ちょっと人混みに酔ったみたいでさ、先払い?えーこの状況見ろよ!くっそー、おいアイ、一人で立てるか?」
リンはいつの間に持っていたか分からない金銭の入った袋を取り出してお金を払う。
信仰者預けていたのを考えると、帰り際にしれっと奪い返していたのだろう。
「ほら、キンキンサイダー」
アイは、硝子容器に入った冷たい飲み物を受け取る。リンがキャップを押し込むようにしてプシュッという音と共に泡が立つ。
「真似してみろ」
アイはリンが先ほど行ったように、キャップを押し込む。力が弱かったのか、プシュッという音と共に中身まで溢れそうになるほど泡が上った。
「口つけろ口!溢れる!」
そう言われ慌てて硝子瓶に口をつける。
独特な甘さと、口の中でぱちぱちと弾けるような感覚。どれも初めてで、新鮮だった。
「...冷たい、口の中が弾けてる」
「ははっ、やっぱ初めてか。褒め言葉として受け取るよ」
そう言い、笑いながらリンも自分のサイダーに口をつける。
春の日差しが硝子瓶を透かし、泡が光って見える。
「次なんか食いたいもんある?」
「えっ、え?いや...どうだろう」
「普段どんなもん食ってんの?」
「果物とか...野菜...とか...?お水とか、」
「ならやっぱ肉だろ!そこの屋台の焼き鳥めっちゃ美味いんだぜ、食いに行こう。手離すなよ、迷子になったらあの世話係も大騒ぎだ」
そう言われ、アイはリンの握る手を強くした。
「おばちゃん焼き鳥二つ...いや、やっぱ焼き鳥は一つにしてこっちの照り焼きの分厚い方を一つちょーだい、はいお金...え、これサービスしてくれんの?悪いって、えぇー」
「アンタいつも家族の為にって遠慮してただろ、さっき買ったおやつのクッキーも一緒に食べな」
そう言いながら、屋台のおばちゃんは一つの焼き鳥とサービスの照り焼き、そしておやつのクッキーを手渡してくれた。
「...人情に厚いお人だったな」
街を歩きながら、アイは一度だけ先ほどの屋台のおばちゃんの方へ振り返る。眩しい笑顔と共に、また誰かと楽しそうに話している姿を静かに見つめた。
「ああいうのは世話焼きって言うんだよ」
「どちらにせよ、お優しい人という事に変わりはないな」
その言葉に、リンは少しだけ微笑んだ。
「...ほら、どっちがいい?」
「え」
「選べよ、折角違う種類頼んだんだから」
細かく切られた肉が串刺しにされている方と、肉の塊を紙で包んだ物をぐいっと目先まで差し出される。
「......さっき、お前が美味いと言っていた方を食べてみたい」
「じゃ焼き鳥だな、ここのマジで美味いから、ほらよ」
焼き鳥を手渡され、受け取り静かに一口食べると、濃厚な味付けと共に広がる肉汁が口の中に広がった。
「な、美味いだろ!」
「...癖になる味だ」
「こっちの肉も食ってみろよ、美味しいから」
そう言われ、アイはリンが食べかけていた肉のかたまりを一口食べる。先ほどとは違う味付けに目を見開く。
「お、こっちのが好きか?」
「...量が多いな、流石に」
「はは、確かに。あ、手拭けよ、焼鳥初めてなら絶対汚れる。服は汚さないように食べてるのか」
「大切だから」
「......そ、なら食べ終えたらクッキー食べて次行こうぜ」
二人は食べ終えた後、暫く街を散策するかのように歩き続けた。
石畳を踏む音。
時折走りながら笑う子ども達の声。
遠くでセールだよと叫ぶ大人の声。
甘い匂いと共に、先ほど食べた焼鳥のような肉肉しい匂い。全てが新鮮だった。
全て、アイの知らない音と匂いと世界だった。
「どっか行きたいとこある?」
そう言われ、アイはふと思い立ったかのようにリンの方へ目を向けた。
「お前の匂い、とても落ち着くな」
優しげに言うその姿に、一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑みながら「だろ?」と返す。勿忘草が優しく弧を描いた。
――あ、笑った。
アイは、ふと思う。今までも何度か微笑みは見せていた。だが、この微笑みは本当に心の底からの笑みだと感じた。
「この香水、親父が気に入ってたんだ。東方で有名な白檀の香り」
夜空色のコートの裾をアイの近くに寄せる。
アイは、すうっと深呼吸をするかのように匂いを嗅ぐ。すると、あの男との記憶が蘇った。
『またな』と手を振り、笑いかけてくれたあの言葉と、姿を。
「びゃくだん、人は匂いを纏うのか?」
「香水ってのがあるんだよ、行ってみるか?」
「.........行ってみたい」
「じゃあ行きつけの所あるからさ、行こう」
きちんと手を拭き、ゴミ箱に飲み終えたラムネの瓶と焼き鳥の串を捨てた後、二人は再び手を握り、街を歩く。
カナタと看板が書かれている店が、街の奥に建っていた。人混みの中を掻き分けてその店に入る。
店の中に入ると、優しい薔薇の匂いが届く。
「いらっしゃ...あら、リン君久しぶり。お父さんはどうしたの?」
その人物を見て、アイはこの人が薔薇の匂いを纏っている人かと理解した。
今まで見た快活で元気に溢れた人たちとは違う、穏やかな声音と姿だった。
赤茶色の髪はお団子でひとまとめにされていた。香油で纏められているのだろうか、後毛も少ない。
同じ眼の色は切れ長で強い印象を持たせた。
深めな黄色のシャツにステッチの入った焦茶色のパンツ。
赤茶色のヒールは、歩く度に音が鳴る。
「親父は来れない、だから俺が来た」
その言葉に、少し寂しそうな顔を見せながらも微笑む。
「そう、よろしく伝えておいてね」
――真実は告げないのか?
アイはそう思った。
話を聞く限り、見知った人物で交流関係も深い方だと言うのは分かる。
なのにあの男の死を知らない。それは伝えていないからだ。
伝えなくていいのかとアイは目配せしたが、リンはそれに気づかない。
もしくは、気づいていないフリをした。
「勿論、今日は新しい香水を見に来たんだ、オススメあるか?この子のだ」
背中を押され、アイは前のめりになって薔薇の匂いを纏う者の前に立つ。
サングラスをしているおかげで、アイの異質さまでは気づかれていない。風変わりな髪を持つ少女に過ぎない。
「うーん、この辺りの匂いは最近入ってきたわ、どの匂いが好きとかある?」
突然の問いかけに、アイは言い淀む。
代わりに、リンが答えた。
「香水初めてなんだよ。だから嗅がせてやってくんね?」
「勿論よ、貴女のお名前は?」
「え、えっと、アイ...だ」
「素敵な名前、字はどんな風に書くのかしら?」
その問いに、アイはまた記憶を蘇る。
あの男に次会うときに言おうとしていた言葉を、言うか悩む。
「...字は、カタカナで、アイと」
文字を勉強したんだよと。言いたかった。
話せる言葉が増えたと、言いたかった。
言葉を教えてくれと、また会う機会を作ろうとしていたと、言いたかった。
全てそれらは叶わなかった。
しかしあの男のおかげで今こうして外に出て、新しい体験をし、そして今、人とこうして話をしている。
全てはあの男がきっかけだった。
そして、その男と交流が深いこの人に隠し事はしたくないと感じた。だからこそ、こうして正直に話をした。それに応えるかのように、薔薇の香りを纏う者も言う。
「私の名前は薫。私、リン君と同じで東方の出身なの。漢字で薫って書くのよ」
「とても、いい名前だと思う」
「正直な子ね、ありがとう」
髪を優しく撫でられた。髪の毛のセットが崩れないように、優しくだ。その新しい感覚に、アイは思わずたじろぐ。
「貴女、とても綺麗ね、でも...もしかして結構世間知らず?」
「薫さん鋭いね、なんでそう思ったんだ?」
「髪のセットがリン君にしてもらった感じがあるわね...後匂いかしら、果物の匂いと...さっきお肉食べたわね?普段は果物を食べてる感じかな」
「鋭い観察眼を持っているのだな薫...さんは」
言い慣れていない『さん付け』に、二人は小さく笑った。
「薫でいいわよ」
「...では薫。私に合う香水を見繕ってほしい」
「そうねぇ、こういう空気みたいな香りを閉じ込めた匂いは似合いそう、候補をいくつか出すから嗅いでみてくれる?」
そう言いながら四つの香水瓶を取り出した。
どれもお試し用のサイズとして店内に置かれていた物でサイズが小さめだった。
朝霧みたいな透明色。
花びらを溶かしたような薄桃色。
秋を閉じ込めたかのような蜜柑色。
薔薇の花のような色。
光を閉じ込めたみたいに瓶の中で揺れている。
「空気を閉じ込めた香りって感じかしら」
「空気は、空気じゃないのか?」
真剣に問い返すアイに、薫は思わず笑う。だがリンは肩を竦めた。
「薫さんは親父の次に勘がいい。合ってるよ」
「ほら、嗅いでみなさい。その間にリン君のお父さんの香りを作ってくるわ、いつものでいい?」
「...そうだな、頼むよ。量は少なめでいいよ」
「はーい」
そう言いながら、バックヤードへと入っていく薫を横目に、アイは香水の開け方が分からず、瓶のまま嗅ごうとしていたのをリンは見つめた。
「キャップ式なんだよ。引っ張ったら開く」
そう言いながらリンは一つの香水瓶を手に持ち、引っ張る。キャップが抜ける音と共に微かに漂うはレザーの香りだ。
「これは...?」
そう問いかけると、リンは細長い紙にシュッと香水を振りかける。
共に漂う先ほどよりも強いレザーの香りは、じんわりとアイの心を揺らす。
「レザーの香りだな、好みは分かれる」
「......戦争を思い出す」
「ならよくないな、次キャップ開けて」
渡された香水瓶を手に取り、引っ張ろうとした瞬間、香水瓶を落としてしまう。すんでの所でリンがキャッチした為、壊れはしなかった。
「すまない、大丈夫か?怪我は...硝子容器も」
「むしろお前こそ大丈夫か?悪い、そのキャップは回して開ける系だったな、香水瓶は俺が開けるから匂い嗅いでみて、ほら」
そう言われ、アイは見様見真似で細長い紙に香水をシュッと振りかける。
共に漂うは、ジャスミンの香りだった。
「...どう?」
「先程よりも、不快感はないが...少し、強い」
「確かに強いなコレ。薫さん、もうちょい薄い匂いのないのー?」
「その金木犀の匂いはー?」
バックヤードから声がする。リンは金木犀と書かれた香水瓶を手に取り蓋を開ける。その後アイに手渡し、同時に細長い紙も渡す。アイは言われるがままに香水を紙に振りかけ、匂いを嗅ぐ。
「...秋を、思い出す」
「金木犀は、秋に咲く花だからな」
「柔らかな匂いだ。落ち着く」
「なら、それ第一候補にして次かな」
次に手渡されて振りかけた。
共に漂うは、あの男の匂いだった。
アイは微笑みかけてくれた男の姿を思い出す。
「...あの男の、匂いだ」
思わず零れた言葉に、リンは近づいて匂いを嗅ぐ。優しく微笑んだその姿は、やはりあの男の息子なのだと実感する。
「確かに似てるな」
「落ち着く匂いだ」
深く香りを吸い込んだ後、言う。
「いや、少し違う。柔らかさと共に、強さがある雰囲気の匂いだ」
香水瓶を見ながらリンは言う。
「白檀の他にちょっとウードが入ってるんだな」
「うーど?」
「好みは分かれる、俺、ウード系は割と好きだな。かっこいい」
そう言いながら微笑む姿は、何故かあの男を連想させた。
「...お前に似合う匂いだな」
香りのついた紙を香水瓶が並んである机の上に静かに置く。
「俺好みな匂いではあるな」
アイは硝子瓶に貼られた文字を見つめた。
「まるで、お前のための匂いだ...しろよる?」
「白夜って書いて、白夜って読むんだ」
「どんな意味なんだ?」
白夜
真夜中になっても太陽が沈まない。
あるいは、太陽が沈んでも、薄い明るさを保ち、暗くならない自然現象の事だね。
だけど、アイの問いかけにリンは大きく勿忘草の眼を見え隠れさせながら考えた。
「えっ、んー、確か...なんか真夜中でも太陽が目立つとか、そんなんじゃないのか?」
リンはそう言う。その言葉に、アイはもう一度白夜と書かれた香水瓶を見つめた。
「......似合うな」
次に手渡された香水を振ろうとした瞬間、薫の声が聞こえた。
「お待たせー調合完璧よ。でも、量少なめなのは珍しいわね、いつも旅立ちの前は多めに頼んでたのに」
リンに香水瓶が入った袋を手渡しながら、リンとアイを交互に見る。
「暫くは必要ないみたいだからな」
一切の曇りなく告げるその言葉に、薫は目を細めた。
「............そうなのね、お代は前に貰ってるから必要ないわよ」
「え?親父そういうのしな.........そっか、なら、うん、ありがたく貰っとく」
「よろしく伝えといて。いつも、ご贔屓にしてくれて本当にありがとうって」
「わかったよ」
プシュッと音がした。
共に漂うはローズホワイトムスクの匂いだ。
「この匂い、とても落ち着く」
「あら、アイちゃんセンスいいわね」
ゆっくりとアイを見つめた。
「この匂いはローズホワイトムスクって言ってね、薔薇の匂いと一緒にホワイトムスクって呼ばれてる少し柔らかな匂いを足しているの」
リンはアイが着けた紙の匂いを嗅ぐ。
薔薇の匂いを緩和させるかのような清潔感のある匂いが、リンに届いた。
「...うん」
リンは小さく頷いた。
「似合うな」
「私にか?」
「近くにいると落ち着く。だが近寄らせづらい」
「...民からの私は、そんな感じか?」
その言葉に、リンは首を横に振る。
「いや、民からの視点ならお前が『強い』って嫌がったジャスミンだろうな」
二番目に嗅いだ、強くて少し棘のあるかのような雰囲気の匂いをアイは思い出す。
「............そうか...おま...リン」
初めて呼ばれた名前に、リンは優しく「どうした?」と返す。
「私、この匂いがいい」
そう囁く声音は、可憐で少しだけ甘い。
薫は優しく微笑みながら「決まりね」と返す。
「このローズホワイトムスクの匂いには名前があるの。名前は、天使の薔薇。アイちゃんにとってこの香水が、大切な物になりますように」
そう言いながら、サービスだからと言って香水のボトルのデザインも選ばせてくれた。
しかし、アイは選ぶのが難しいと言った為、あの男もよく使っていたという、逆三角形の瓶を選んだ。
淡い琥珀のような色合いの液体が透明な瓶に静かに満ちていく。まるで月の満ち欠けのように。
その光景を見つめる中で、アイは大切な想い出を閉じ込めるかのように優しく見つめた。
「また来てね、リン君。アイちゃん」
「勿論、薫さんの作る匂いはいつも好きだからな。また来させてください」
リンは壊さないようにとアイの分の香水も持ち、店を出た。
「...また、来ます」
「うん、またねアイちゃん」
視界から消えるまで手を振り続けてくれた薫の事を、アイは忘れないだろう。