神を忘れた者
そうして、今になる。
二年で、人々はアイを敬い、祀り、信仰した。
アイは、戦争に直接加担はしなかった。
前線に出て、戦うような事はしなかった。
第一、民がソレを許さなかった。
だが突撃の際には、必ずその前日に兵士達がアイの元を訪れた。
その人たちは、毎回決まって同じことを言い、神の御加護をと頼みに来た。
「...祈りを捧げよう」
アイが扇子へ指を添えるたび、空気は静かに色を変える。
開かれた扇には、夜明け前の空を映したような黎明色が揺 らめいていた。
そして次の瞬間、本来鳴るはずのない鈴の音が、誰の耳にも響く。
それは、音ではない。
オーロラの瞳に魅せられた者たちが、神の訪れを錯覚しているだけ。
だというのに、その音色はあまりにも澄み切っている。
風が舞う。黎明が揺れる。鈴が鳴る。
人々はその姿を『救い』と呼ぶ。
そして、戦場に送り出す事を幾度か繰り返した。
兵士たちは『救い』を求める。
兵士たちは『祈り』を求める。
彼等はアイに信仰と言う名の祈りを捧げた。
代わりにアイは救いと言う名の祈りを与えた。
アイは、扇子を開く度に思う。
――私は、救えるわけではない。
命を救えるわけでもない。
苦しまず死ねるように、直接的救いをすることもできない。
ただ、祈るしかできない。
しかし人々は、祈りを救いと言う。
祈りを加護と呼ぶ。
ある者は言う。
死を覚悟した瞬間、鈴の声がしたと。
その澄み切った音を頼りに歩き続けた結果、生きてこの地へと帰って来れたのだと。
ある人が言う。
隣に居た仲間の死の直前、視界一面にオーロラが広がったと。
そして、微かに微笑みながら言い残した。
「神よ」と。
勿論、アイはそんな事していない。
鈴の音を鳴らしてもいない。
オーロラを見せてもいない。
けれど人々は聴こえたと言う。見えたと言う。
それはきっと、信仰と呼べるものだった。
救いを求めた人が、勝手にみた幻だ。
そう、アイは思っている。
けれど、もし幻であったとして。
その瞬間だけでも恐怖が消えたのなら。
その瞬間だけでも、誰かが前を向けたのなら。
それは本当に、ただの幻なのだろうか。
そんな中、異変が起きた。
いつものように扇子を開き、風を吹かせ、祈りを込めていた時の事だった。
跪く人々の中、一人だけ立っている男がいた。
アイは、必然とその男を見つめた。
夜を溶かしたような深藍の髪。肩へかかるそれを、後ろで無造作に束ねている。
纏うコートは古びていた。色褪せた夜空のような濃紺に、光の角度によってだけ星屑のような刺繍が浮かぶ。
—戦場帰りなのだろうか。
革手袋越しでも分かるほど、指には硬い傷跡が残っていた。
けれど、群青の瞳だけは妙に静かだった。
祈りも救いも求めていない。
ただ神と呼ばれる少女を見ていた。
救いの儀式を終えると、人々は次々と立ち去っていった。戦場へ向かう不安と共に神の加護を得たという安堵を抱えながら。
一人の男だけが、その場に残っていた。
切れ長の群青の眼。夜へ沈む空のような、静かな青だった。
不思議なほど、音がしない。足音も。衣擦れも。呼吸の気配さえ薄い。
まるで最初から、そこに影だけが立っていたかのようだった。
普段からそうやって生きているのだろう。
気配を殺し、音を消し、ただ静かに歩くことを当たり前として。
だからこそアイは、気づいてしまう。
この男は、救いなど求めていないと。
『神』を、見ていないと。
ただの少女を見ているのだと。
「おい、そこのお前」
声をかけられた。抑揚があまりないその声音は、不思議と心地よささえ感じた。
「お前、祈りを込めないのか?」
思わず問い返してしまった。
「俺は神頼み趣味とかない。で、お前、喉乾いてない?」
コートの内側から古びた水筒を取り出した。水の音が微かに聞こえた。
「...必要ない」
「あーそう?なら俺が飲む」
水筒の飲み口から静かに水を飲む姿は、神を前にしているとは思えなかった。例えるのなら、星空を観測する観光客のようにも見えた。
夜の髪と眼の色のせいだろうか。
それともこの男の持つ静けさのせいだろうか。
「...その水は、美味しいのか?」
静かにアイは問いかけた。男はそこで初めて微笑みと呼べる顔を見せた。
「生きてる時に食う物は大抵美味いな」
「...そうか」
会話が終わってしまった。沈黙がまた流れる。男は気にする様子はなく、アイを見つめながら水を揺らす。周囲に水の音が響き渡る。
「飲みたいならそう言えよ、ほら」
歩きながら飲みかけの水を差し出された。アイは一瞬、動きを止めた。アイが今まで差し出されてきたモノといえば、救いを求める人たちから新鮮な果物や希少な宝石などばかりだ。
それらは、願いであり、祈りであり、対価でもある。
けれど、この男が差し出した物はそんな綺麗な物でもなく、ただの水だった。神聖とかではない。飲みかけのただの水だ。
アイは少し悩んだ後、男の方へ静かに歩み寄り、受け取り、一口だけ口をつける。普段の冷たい水ではなく、ぬるい水だった。
「冷たくない水だな」
初めて飲んだ、冷たい水以外の飲み物に、アイは水筒を見つめながら言った。
「こんなもんだろ」
「そうなのか?」
「そうだよ」
「...私の元へ送られる水は、いつも冷たい」
「へー」
「興味なさげだな」
「俺はいつもこんなんだよ」
群青の眼はゆっくりと少女を見つめる。
「......初めて見る顔だな」
アイの言葉に、僅かに群青の眼は見開く。
「驚いた、まさか全員の顔覚えてるのか?」
アイは、黎明の扇子を抱えたまま静かに男を見つめる。
すると、柔らかな風が吹き抜けた。
無造作に束ねられた男の髪が揺れる。
「顔も、声も、姿も、全て風が教えてくれる。私は教えてくれた物を忘れないだけだ」
その姿はあまりにも美しく、神秘的だった。
男はそこで漸く気づく。
この少女は、本当に人ならざる者なのだと。
だからこそ、男は問いかけた。
「俺の記憶は読まないのか?」
「読める」
淡々と返した。
「だが話をした感じ、お前は求めてないだろう」
人差し指でくるくる回すと、柔らかな風が男の髪を揺らした。
「まともな感性してんじゃねーか少女さん」
「......少女と呼ぶな。私の名はアイだ」
「へぇ、どういう字?」
その言葉に、アイは首を傾げた。
「じ...?」
「名前の書き方だよ」
「知らないな」
その言葉に、思わず男は苦笑した。
「俺、実は東方の生まれなんだけど、あそこ文字数多くて嫌なんだよなぁ」
「これは、何のための会話だ?」
「はぁ?日常会話だよ日常会話」
「...ふっ」
アイは小さく微笑んだ。その微笑みは、本当に小さなもので、普通であれば微笑みとは呼べるほどでもない。
しかし男は、その姿を見て、嬉しそうに弧を描く。
「やっと笑ったな!」
その言葉に、アイは訝しげに「可笑しいか?」と言う。まるで、自分自身のことを自嘲しているかのようにも聞こえた。
「ずっと真顔で神様みたいだったからな」
その言葉に、アイは黙り込む。
――そんな顔をしていたのか、私は。
風が静かに吹いた。
黎明色の扇子が僅かに揺れる。
だが、この瞬間は皆の言う鈴の音は聞こえなかった。
「じゃあなアイ、また会おうぜ」
その言葉に、アイは一瞬眉を動かした。
「......戦争に行くんだろう」
「そうだけど」
アイは黙り込む。
扇子を握る指が、僅かに強くなった。
戦場へ向かった人間がどうなるか、彼女は知っている。
帰ってこない者。
名も残らない者。
祈りだけを置いて消えていく者。
だから、その言葉を信じれない。
悲しげに眉を下げるアイに男は笑った。
「何だ、何故いきなり笑うんだ」
「だってお前、神様みたいな顔してたのに、急にただの少女みたいな、本当面白いなお前」
男は指で涙を拭いながらアイを可笑しそうに見つめた。群青の眼は煌びやかとしていた。
「大丈夫、俺結構強いから、またな」
夜空の色のコートを翻しながら、男は去る。
「.........ま...」
――また。とは、いえなかった。
戦場に行く多くの人が、怪我をしているのをアイは知っている。出会わないようにされているだけで、ちゃんと知っている。
風が教えてくれる。
どの人物が死に、どの人物が助かり、どの人物が怪我を負ったのか、全て風が知らせてくれる。
この風も、信仰の中で手に入れた力の一つだ。
だからこそ、風がまたこの男の死を知らせてくれるのではないかと、胸がざわめく。
アイは外に植えられた数々の花を見つめた。虹彩色に輝く花畑は、アイが咲かせた名もなき花だ。アイは死の知らせを聞くと共に一つだけいつもこの花を咲かせる。アイなりの弔い方だった。
―――この花を頼りに、人々が再び巡り会えるように。
だが、今回は深い藍色の花を咲かせた。
あの男が無事に帰ってきてほしいという祈りを込めて。
けれど、男は一週間も経たずにまた訪れた。怪我一つもなく、まるで散歩帰りのように。
手土産代わりかは分からないが、手には細長い箱が持たれていた。白い箱は汚れ一つとない。
「これやるよ」
乱暴に放り投げた箱をアイは潰さないように静かに受け取った。中身を見る前に男は「サングラスだ」と言う。アイはゆっくりと箱の中を開けると、淡い茶色のサングラスが袋に入っていた。
「これで、目は隠せれる」
「隠して何になる?」
「俺がお前を外に連れ出せる、次は服も買ってきてやるから待ってろ」
その言葉に、アイは静かに男を見つめた。
やはり、この男は呼吸さえも静かだった。
訝しげに見られていると感じたのか、男は少しだけ目つきが鋭くなる。その一瞬の変化は、まるで獲物を見つけた狼のようにも見えた。
「なんだ?...あ、センスないとか言うなよ!」
「...何故、そこまでする」
その問いに、男はすぐに返した。
「その服動きづらそう、どこのブランド?」
話が繋がっているようには見えない。
だが、男の中では繋がっていた。
アイは、なんとなくこの男の言いたい事が分かっていた。だからこそ、素直に返した。
「...特注品だ」
そう言いながら、アイは目線を下に向け、自分の着ている服を見つめた。
陶器肌を覆う白いワイシャツは、襟元に蝶の刺繍が施されている。
その蝶は、光の反射によって浮かぶ銀糸で作られていた。
身体を優しく覆うスカートは、灰青を基調としたもので、右膝から左膝にかけて裾が長くなるアシンメトリーだ。
レース部分は月光色で透け感がある。
幾層にも重なったレースの端の部分は、光の粒子のようになっていて、より少女の異質さが表現されていた。
純白のヒールは蝶のレース装飾がされている。
これらは皆、アイのために街の人達が資金を集めて創り上げた一級品の品物だった。
それらを纏うアイは、少し苦しげにも見える。
この問いの意味とは?
『お前は本当にソレを着たいのか?』だ。
「まぁ、綺麗だけど普通には生きづらそうだな」
「...そうかもしれないな」
「期待して待ってろよ」
そう言って、男はまた去っていった。去った後に気づく。
――祈りをしてない。
アイも、男も祈りをしていない事に。
男は本当にただ会話をしに来ただけだった。
――名前も知らないな。
名前すらも知らない事に、アイは気づいた。
殆どは、神の御加護をと言いに来た際に必ず名を名乗る。認知してもらい、加護を与えてもらう為だ。
しかし、この男は名乗らなかった。
名乗る必要がないと思っているのだろうか。
それとも、俺は祈りを貰う為に名乗るのはごめんだという意思表示の代わりなのか。
どちらかは分からない。どちらでもないかもしれない。
しかし、その一つの行動だけで。
アイは少しだけ、淡い期待を抱く。
――次、くるのかな。
もし来たら、名前を教えてもらいたい。そんな風に考えていた。
一ヶ月後、男はまた訪れた。ボロボロの手には似合わない紙袋を持っていた。男は今度は放り投げずにその袋をアイに手渡した。アイは静かに受け取る。
「約束通り買ってきた。きっとお前に似合う」
そう言われ、アイは袋の中から贈り物を取り出した。
淡い朝日のような色をした衣服だった。
月光のような冷たい白ではない。
朝日を溶かしたような、柔らかな金色。
軽やかなレースと刺繍は確かに上等だった。
今までアイへと捧げられてきた神の装束とはどこか違う。温度がある。
「着てこいよ」
藍色の髪をがしがしと撫でながら男は言う。
その言葉に、アイは言い淀んだ。
「でも、この服は...特注品だ」
「だからなんだ?」
「民の想いが乗せられてる」
その言葉に、男は眉を上げた。
「そんなもん重いだけだろ?」
「それが思いだ」
その言葉に、男は溜息をつく。
「なら、俺がお前の為に買ってきた服だ」
いつもより少し低く発せられたその言葉に、アイは一瞬肩を震わせた。
「その服を着たアイのお目通り願いたいと申し出る民の願いに応えた優しき人物。これでどうだ?」
その言葉に、アイは頷きながら服を着替えてくると言う。貰った服を優しく抱き抱えながらその場を離れた。
着替えてきた時の第一声はシンプルだった。
「髪長くない?」
「...お前も長いだろ」
「まあな、こっち来い。結ってやる」
「え、な、なに」
言い終える前に男は乱暴にアイを椅子に座らせた。そして男は慣れた手つきでアイの髪に触れ、髪を結う。編み込まれていく髪がまるで魔法のようでアイは思わず「すごい」と声に出す。
今までアイが髪を伸ばしていた理由の一つとしては、その髪も神聖視されていたからだ。誰にも触れてもらえなかったのだ。しかしこの男はその壁を軽々と越えていく。
アイは、胸がまたざわついた。
「うん、似合ってる」
男は髪を結った後、部屋の片隅に置かれている全身鏡をアイの方に向け、髪を見せた。
丁寧な編み込みをリボンで纏めた後、そのリボンを隠すように、黄水晶の宝石が嵌め込まれた蝶の形をしたワンタッチ式のブローチを髪に着けている。
白いワイシャツに施された刺繍は、黄水晶色の糸の蝶だ。
淡い朝日色のスカートはまるで夜明けの空そのもの。
引き締めるかのように使われている靴は、淡い茶色のローファーだった。飾りも何もないシンプルなその靴は、歩きづらさもない。
「サングラスも掛けろよ、似合ってるじゃん」
サングラスをかけ、髪を結い、新しい衣服を身に着けた姿は街を歩く少女そのものだった。
「これ着て、次は街を歩こう。食いたいもんとかあるか?」
「......お前の食べている物、見ている物を」
「お前が見たい物は?」
「分からない」
その言葉は、少し震えていた。
その様子を見た男は、慈しむような優しい微笑みをアイに見せた。
「じゃ俺が選んどいてやるから楽しみにしとけ」
男はそう言いながら、空になった袋と自身の荷物を背負い、夜空のコートを羽織る。
「またな!」
「.........うん」
また、とは言えなかったが、初めて少女としての返事をした。
――あ、名前聞き忘れた。
しかし少女は、
男の「また」と言う言葉を信じて、次会うときに聞こうと思う。
しかし、男は二度と現れなかった。