偶像
ある一人の美しい少女がいた。
その少女は、何もかもを透き通すかのような透明な髪を腰近くまで伸ばしていた。
透明な睫毛に縁取られた眼の色はオーロラだ。視線によっては紅にも、青にも、緑にも、紫にも見えた不思議な眼だった。
筋の通った鼻に薄く口紅が塗られた薔薇色の唇。ほんのりと染まった桜色の頬。
陶器肌を覆う白いワイシャツは、襟元に蝶の刺繍が施されている。その蝶は光の反射によって浮かぶ銀糸で作られていた。
まるでその少女の異質さを表すかのようなシャツだ。
そしてそれを優しく覆うスカートは、灰青を基調としたもので、右膝から左膝にかけて裾が長くなるアシンメトリーレーススカートだった。レースは月光色で透け感がある。幾層にも重なったレースの端の部分は、光の粒子のようになっていて、より少女の異質さが表現されていた。
純白のヒール部分には、蝶のレース装飾がされている。
これらは、少女のために街の人達が資金を集めて創り上げた一級品の品物だった。
少女はそれら全てを纏わされていた。
では何故、そのような事が起きたのか。
時は遡り、二年前。
季節は春。桜が満開となり、生命は温かさに感嘆の息を漏らす。
世界は、一つの報道によって凍り付いた。
戦争。
その二文字が全世界を駆け巡ったのだ。
この世界には四つの国家が存在する。
技術大国、西国共和国。
伝統を重んじる東国倭。
謎多き軍事国家、北国連邦。
そして観光業で栄える南諸国。
誰もが予想していなかった。
北国連邦と南諸国
この二つの国が、同じ日、同じ時刻に、全く同じ内容の声明を発表したのだから。
『我が国は戦争状態へ移行する』と。
『北国の領土を奪うべく、南から武装兵士が送られてきた。北国の一部を見てみろ、燃えている。幸い死者がいない。引き返すのなら今だ』
北国連邦、責任者宣言。
『北国は動向が読めず、数年前から我々は注意していた。今回、北国から武装兵士たちが送られてきた。そして、威力がそこまでない爆発物を落とされ、数十人死者、重傷者が出ている。そして、北国は、南諸国でしか採れないとされているナニカを狙っていると、風の噂で聞いた。真偽は定かではないが、我々は我々の国を守る為なら、戦争を行うことをここに表明させてもらう。然し神に誓おう。私達は、誰一人として北国に訪れた者はいない、と』
南諸国、責任者宣言。
南諸国と北国連邦は、それぞれ他国へ協力を要請した。
しかし返答はなかった。
どちらが先に仕掛けたのか分からない以上、軽々しく肩入れすることはできないからだ。
実際には、北国から送られた武装兵士によって半ば強制的に始まった戦争である。
その事実が明るみに出るのは、まだ少し先の話だった。
戦争が本格的に始まったのは、その日の深夜。
星空が美しい夜だった。人々が束の間の安らぎを抱いていた、その時だ。
空から、爆発物が降ってきた。
轟音と地面を揺らす激しい振動。
人々は閃光が走ると思った。
だが次の瞬間、響いたのは別の音だった。
鈍い衝突音だった。まるで車に轢かれたかのような音だ。
その音が自分の身体から発せられたものだと理解するまで、少し時間が必要だった。
けれど、その人物は痛みに顔を歪めることもなかった。
ただ静かに、目の前の光景を眺めていた。
燃え盛る炎。耳を裂く悲鳴。
絶え間なく響く爆発音。
焼け焦げた植物の臭い。
全てが、不快だった。
本来であれば南諸国は、観光地としてとても有名だった。
夜になると、満天の星空が見える。
その星を一目見ようと、国を跨ぐ者も少なくはないくらいだ。
だが、今見えるのは美しい星空ではない。
全てを焼き尽くす炎だった。
「何をしているの、逃げなさい!」
声が聴こえた。少女は振り返る。
崩れた家屋で下敷きになった人物がいた。
顔は炎と夜のせいで分からない。ただ、痛そうにしているのは分かる。
「早く、逃げなさい!」
そう言い放つ人物を見過ごせなかった。
助けようと、少女は崩れた屋根を持ち上げようとした。
しかし、少女一人でその屋根を持ち上げることは容易ではない。
不可能に近いだろう。
その様子を見て、下敷きになった人は苦しそうに呻きながら叫ぶ。
「何をしているの、早く逃げて!」
少女は思い立ったかのように、汚れた手で髪を掻き上げた。
「私の瞳を見ろ」
オーロラの瞳が相手を見据えた。
その言葉で、其処に埋もれていた人は見惚れるかのような表情を見せた。
「かみ、さま」
小さく呟かれたその言葉に、アイは唇を噛み締めた。
「...私はお前の言う、存在ではない」
それを見ていた別の人物が声を上げた。
「神が来たぞ!」
歓喜の声だった。
「我らを救いに降りてこられた!」
その声は炎を駆け巡る。
「持ち堪えろ、持ち堪えるんだ!」
その瞬間、指が微かに揺れた。力が入った。
――違う。
少女はただ、見過ごせないと感じただけだ。
――神ではない。
アイは、神などではない。
天空の世界で麻薬を持ち込んだ罪人であり。
世界から追放された者であり。
何も持たないまま地の世界に降りた少女だ。
然し、その言葉は通じない。
何故なら髪を掻き上げた瞬間に覗くその瞳は、人の思考を奪う程に美しいからだ。
満点の星空よりも。どんな宝石よりも。
遥かに、美しいオーロラだ。
その瞳を見た人物は、美しいという感情だけを抱いて死ぬ。
痛みも苦しみも恐怖もない。
あるのは美しいだけだ。
崩れた屋根に埋もれた人物は、既に息を引き取っていた。
可哀想なのだろうか。
死を逃れることはできなかったのだから。
幸せだったのだろうか。
人生最期の感情が、美しいだったのだから。
その答えは、少女ではなく周囲が決めた。
『神が来たぞ』
人々は歓喜した。
人々は感謝した。
人々はその死を救いだと言った。
――神は私を赦してはくれなかった。
だが、少女も理解している。
神として、ボクが少女を追放せざるを得なかったのだと。
神として、世界の理そのものが変わるほどの麻薬には干渉せざるを得ない。
基本、神は人間の直接的な加護や干渉は禁じられている。
その人物だけ如何してと恨まれ、憎まれ、最後には信仰さえ失い、虚になりかねないからだ。
だからこそ、少女を世界から追放したのは異例中の異例。
ソレを少女は、理解している。
だからこそ、赦してくれなかった神と同じ名で呼ばれるなんて、さぞ気分の悪い事だろう。
「どうか道を切り拓いてくださいませ」
そう言い放つ人物はまだ青年だった。
本来であれば未来への夢を語り、
夜と共に星空を見つめながら眠りにつき、
穏やかな朝を迎えるはずだった。
ソレが当たり前とされるべき年齢だった。
なのに、どうだ?
手は針や木の枝でボロボロだった。
服は破れ、汚れ、ズボンも同じようにボロボロだ。靴すらも履いていない。
しかし、その人物は決して逃げる事はしない。
残された人の為に、救助を繰り返す。
見つけては救い、誰かに運んでもらい、
見つけては救い、応急処置をした後に、誰かに運んでもらう。
ソレの繰り返しだった。
救いが必要な人だというのは、見て分かる。
「私の名はアイ、貴様らの言う神の眼を持つ者」
少女は人々の為に、自らを犠牲にする道を選んだ。
逃げることもできた。
見知らぬ誰かに救いの手を差し伸べずに。
この国から逃げ出すこともできた。
しかし、しなかった。
「私を信仰し、敬い、祀りなさい。さすれば救いの道は拓かれる」
こうして、一人の少女は小さな神へと祀り上げられた。