名の神秘
ヒュウッと風が吹いた。
少し暖かな夏を纏う風は、アイの傍に佇む。
「ハルシオン...。ユズリハハルシオン。期待と、悲しみと、好奇心を背負っている風の匂い、記憶がする...色は...黄水晶と空...後は灰色か」
一瞬にしてそこまで読み取れたのか?という疑問の前に、リンは、若干の恐怖を感じた。
知識を身につけた事によって、文字からも過去を辿り、記憶を探し、そしてその記憶と匂い、色を理解できるようになっていたのだ。
――文字には記憶が閉じ込められている。
アイはそう言っていた。であれば、名前とは最初の記憶ではないだろうか?
その人を表す個の言葉は、最も記憶が込められていると言っても過言ではない。
そして無意識にソレを理解しているアイは、名前から過去の記憶を辿った。
――文字を教えたのは愚策だったか?
そう思うリンの問いかけに返事をくれる者はいない。
代わりに側にいる神秘を纏う少女は、
世界を知り始めている神に近しい少女であり、
悪魔と畏れられる可能性の高い少女のみ。
その悪魔にも神にも成る少女は、
珍しく鈴の音を発した。
「リン、会いに行かないか?」
その言葉に、リンは。
「それがアイの望みなら」
そう返した。
その日の夜。
アイが眠った後、リンは小さな蝋燭の灯り一つで、ひたすらに紙にメモを書いていた。
—楪菖蒲。小説家、妻は芸術家?へぇ、あ、この挿絵が妻の絵なのか、名前は...楪エミリア?出身国が西...西は機械類が発展してたな。
頭の中の思考を文字に記していく。
――楪家は随分と琥珀に盲信してるみたいだな。楪菖蒲の小説は、全て「琥珀の眼を持つ者千里を見透す」って言葉が書かれてる...ん?
リンは一枚の紙をふと見つめた。
――あ?
その字を、見間違うはずがない。
――おい、嘘だろ。
その一枚の紙には、こう書かれていた。
『琥珀の眼を持つ者千里を見透す、忘れない!』
――親父。
完全なる、父の字だった。
嫌な推測がリンの頭によぎる。
しかし、確証がない今、深く考える事はしなかった。
かつて、父が言っていた言葉だ。
『今起きている事以外は、全て頭の中で創られた物語にすぎない』
その一週間後。
リンの手続きにより、二人は悪魔対策本部を創設したと言われているハルシオンと面会する許可を得ることができた。今日はその面会に向けての服を買いに来た所だ。
黎明十五年 夏 東国倭 統地百貨店
新緑の木々が目を覚まし、太陽と共にダンスを踊る。
その日のアイは、最近手に入れたばかりの黒曜石のようなシャツとパンツ、そしてソレらをより引き締めるかのように黒のブーツを履いていた。
パンツの裾部分には、勿忘草の花の刺繍が金糸で施されている。よく見たら襟元も金糸で勿忘草の刺繍が施されていた。小さいため、よく見ないと分からない。
サングラスはきちんとかけていた。
一方、リンは白いワイシャツに竜胆色のネクタイを身につけ、少しハイウエストな黒のパンツを履いていた。靴は飾り気のない黒色の革靴だった。
しかし変わらず夜のコートは手にしていた。わざとラフな格好にしている気がする。
リンは店員と話をしていた。
『上等な布で服を製作願いたい』
東方語で話すリンを横目に、アイは様々な色で溢れた布地を見つめた。
――期待、不安、恐れ...か?
様々な布の想いに、目眩を感じた。
「どうした?」
「布の色が、痛くて」
リンは即座に意味を理解する。
この布がどのようにしてこの色に染められたのか、どのような想いを込めて作られたのか。
今まで、アイはそれらを色で、なんとなくで把握していた。
だが、今回は元々の「布の色」にプラスして「想いの色」も乗せられている。重なって見えたり、ぼやけて見えたりするその色に混乱しているのだろう。
「...何色がいい?」
「色に酔う......」
そう言いながら目を抑えるアイを見て、リンは笑った。
「なら、お前の魅力をふんだんに使おう」