第2話 アビス
小さな影の存在に気をとられているうちに、ミラの腕に絡みついていた黒いものはぐにゃりと形を変えながら右手首にまとわりつく。
そして気が付けば、明るい青のブレスレットに形を変えていた。
左手で触ってみるが、外れない。
金属でも布でもない。触れているのに、質量の感覚が曖昧だ。
内側から魔力を感じる。
ミラが指先で触れると、表面の模様が波打った。
ミラはそのブレスレットと、自らを悪魔だと言った小さな影──アビスを交互に見比べる。
思考が、ゆっくりと追いつく。
「理解ができたかな?」
小さな影、アビスは淡々と言った。
ミラは一度、息を吸う。
「......なに、これ」
少しだけ距離を取る。
「私は悪魔だと言っただろう」
「そういう意味じゃなくて」
アビスは首をわずかに傾ける。
「では、どういう意味だ」
ミラは一瞬、言葉を探す。
敵意はない。
だが、善意とも断定できない。
そのどちらでもないことが、かえって不気味だった。
「あなたは、なに?」
ミラは同じことを絞りだす。
「私は、アビス。これまでも、多くの野望を持つ者に取り憑き、その野望を叶えてきた」
「野望......」
「喜ぶがいい。私が協力するということは、お前が叶わないと思っていた理想だろうと、手に入るということだ」
「野望を邪魔するもの全てを薙ぎ払おうではないか」
「......え?」
アビスの異質な存在感が1段と濃くなる。
空気が重い。
「富や名誉、地位や人望。そして異性。今までの選ばれし者達は皆、そうやって野望を叶えてきた。私の力で戦争を起こし、理想を勝ち取ってきたのだ」
「......でも私には、そんな野望なんてない」
明らかに危険な思想を持っているアビスを警戒しながら、ミラは拒絶する。
事実、富や名声が欲しいと思ったことは今までない。
戦争が落ち着いたら、自分はどこを目指すか考えていたくらいなのだ。
野望らしきものがあるかと言われると、首をかしげざるをえない。
「ブレスレットがお前を選んだのだ。お前に野望は必ずある」
だがアビスは、まるで自明のことであるかのように言う。
「私の姿が見えているのがその証拠だ」
再度考えるも、ミラは自分が戦争を起こしたいと思うような野望があるとは思えなかった。
しかし、アビスがあまりにも当たり前のように言うので、ミラは不安になる。
「戦争を起こさなかったら、私は死ぬの?」
思考を切り替えて、別の切り口から尋ねる。
「死ぬ?いや、そのようなことはない」
アビスは、誤解がある、と続ける。
「選ばれたのはお前だ。叶えるべきはお前の野望だ。私には野望も願望も望みもない」
「私はただ、野望を叶える手伝いをする過程で得られる、人々の激しい感情を糧として存在している」
「激しい感情?」
ミラが聞き返す。
「そうだ。戦争の高揚。大魔法を受けた驚愕。勝利の歓喜。戦場で起こる激しい感情は、それが激しければ激しいほど、私の糧としての価値が高い」
「でも私、戦争したいと思ってない」
再度、同じ話に戻ってくる。
「お前の国の初代国王をはじめ、野望一つで地位を得た歴史上の人物には、私が力をかした者が数名いる」
そう告げられたミラが思い出すのは、おとぎ話のように伝え聞いた、初代国王の建国の逸話。
「みな例外なく、野心家であった。野心家の野望は、結果的には争いを起こし、私は感情を食えることにつながる。戦争をせずとも死なないが、必然的に戦争は起こすことになるだろう」
おとぎ話によると、初代国王は敵陣に嵐を起こして戦争に勝ち、王となったのだという。
にわかには信じがたい、とミラは思っていた。
最前線の精鋭である姉を知っており、戦争の様子も直接見たことのあるミラにとって、そのような規模の魔法は、人間の力を何人集めても届かないものだということはもはや自明であった。
だが同時に、もし本当なのだとしたらその魔法には興味があった。
「私は天候を操り、地形を変える。まさに天災のような力を使うことができる」
ミラは心の中にある、ある衝動に気づきかけた。
「さあ、選ばれし者よ。我を存分に、野望に役立てよ」
アビスは翼と両手を広げる。
「まずは敵国に雷でも落とすか?」
悪魔的な誘惑に対して、ミラは目を輝かせて、アビスに言う。
もしも。
もしも、それが本当であるならば。
戦争自体には興味はないが、それでも。
「あなたの魔法を見せて!」
どれほど”美しい”のだろうか、気になって仕方がない。
★
「すごいすごい!きれい!こんなに大きくて、自由で、迫力のある魔法なんて信じられない!本当にきれい!」
もう日も完全に落ちて暗くなっている。
アビスがミラを驚かせてやろうと、雷を一発ミラの目の前に落としてからしばらく。
地形を変え、天候を変え、手を変え、品を変え、ミラに魔法を見せた。
そのたびに、終始この調子だった。
「お、おい。もういいだろう。十分見ただろう」
地面から幾重もの柱を生やしたところでアビスが言う。
仮面の上から困惑が伝わってくる。
「アビスって言ったっけ?すっごいね!魔法!」
ミラは興奮冷めやらぬ様子だ。
「まてまて。さっきから何も倒しておらず、何も得ていない。何がそんなに嬉しいのだ?」
アビスからすると、ミラの反応は理解ができない様子だ。
今まで取り憑いた者は、アビスの魔法で現実を変えられるという期待を持つものばかりだった。
だが、ミラは魔法そのものを嬉しそうに見ているのだ。
「だって、こんなの初めて見たから!」
ミラはずっとこの調子である。
アビスは、やれやれといった雰囲気で指を鳴らす。
地面は元通りになり、雲が完全に消し去られる。
アビスの魔法で消したのだろう。
そこには、ミラが今まで見たことがない夜空があった。
雲に覆われていた空が、いまはどこまでも澄み渡っている。
無数の星が、夜空いっぱいにちりばめられ、手を伸ばせば届きそうなほど鮮明に輝いている。
星の一つ一つが、全て自分の力で輝いているんだという力強さに圧倒される。
「......すごい」
ミラはそれを見て動きを止め、つぶやく。
それしか、言葉が出てこなかった。
戦場には似つかわしくないほどの、壮大な美しさ。
この星空の美しさは、あまりにも心を揺さぶり、それを表現できる言葉が見つからない。
――ミラの脳裏に映るのは、幼少のころの記憶。
母の見とれるような炎と、歌声。
そして初めての魔法のお披露目。
きらきらして、楽しさであふれた空間。
この満天の星空のように。
ネックレスを作ったときのように。
感動やわくわくで、衝撃にも近い気持ちになったことを思い出す。
「アビス!」
ミラが満面の笑みでアビスに向き直る。
「あなたが食べたい感情ってさ!高揚とか驚愕とか?よくわかんないけど、戦争じゃなくてもいい?」
アビスが一瞬止まる。
「......ん?」
「だから、戦争じゃないとだめな理由あるの?」
「......いや......」
アビスは返答に困ったように言葉を止める。
「高揚とか、驚愕とか。それを食べるんだよね?じゃあ熱狂とかは?うれしいとか、楽しいとかは?感動は?」
「うん?まあ、そういうのも、食えると思うぞ?」
饒舌になるミラに、アビスは困惑したように返答する。
「食べられるんだよね!よし!」
一拍。
ミラの表情がわずかに緩む。
「だったらさ!」
ミラはアビスをまっすぐ見る。
ミラの中で、別々だったものが一つの物語として形になる。
この大規模な魔法。
輝く美しい廃材。
戦いに向かない自分の魔法。
人を驚かせ、感動させること。
そして自分がずっと欲しかった輝き。
そう、だったら――。
「いろんな人が輝くショーを作ろう!」
「......ん?」
今までされたことのない提案に、悪魔と呼ばれた存在は今度こそ困惑で固まるしかできなかった。