第40話 覚悟
緋那は、看護師の話を聞き終えると無力感に支配された。看護師はまだ仕事が残っているからとナースステーションへ少し前に戻っている。
椅子から立つどころか、顔すら上げられない。
そんなに前から、6月のあの高校のクラスメイトと見舞いに来たあのタイミングからずっと優の過去は失われ続けていた。優は戦っていたのかと緋那は何も知らずに無意識下で変わらないなさっきまで思っていた自分を殴りたくなった。
いっそのことさっき怯えていた優が殴ってくれていたらよかったのにと考えかけて、思わず拳を膝にたたきつけた。
優の体力が落ちており、自力で体を起こすことも難しくなってきている。もう歩くことは出来ないし、原因不明の筋力の衰えさえも起こっており、いずれ体を動かせないどころか、自発呼吸すら出来なくなる可能性があると言われたことを思い出したからだ。
話せるうちに話しておいた方がいいと本来なら進めたい。でも、優の記憶の状態からなんともいえないと看護師に伝えられていた。
「......今日はどうするか」
緋那は小さくつぶやく。声の弱々しさに自分が落ち込む場合ではないと必死に言い聞かせる。泣きたいのは起きるたびにどこだかわからず、体も成長している優だ。断じて緋那ではない。
先ほどの優の怯えた顔を思い出すと怯みの方が強く緋那を支配する。それでも、緋那は優の記憶の欠落が分かった日に誓ったことを思い出す。
確かにあのとき、忘れられてもまた初めましてと友達になろうと誓ったのだ。
何で今まで忘れていたのだろうと緋那は自分を許せない。それでも、覚悟は決まった。
緋那は顔を上げると、気合いを入れるために自分の手のひらで両頬をたたく。思ったよりも大きな音が鳴ってしまった。慌てて周囲を見るが人がいないことを確認して、胸をなで下ろす。
時計を確認すると、面会時間終了まであと30分ほどだ。少しの時間だけでいい、緋那は覚悟を決めるともう一度、優の病室へと向かった。
扉の前につくと、指先が冷えていることに気付く。口腔内も少しの距離を歩いただけなのにカラカラだ。ゴクリと唾を飲み込むと緋那は扉をノックする。
中にいる優は、小学生だ。高校生の自分が普通に接したら怖がらせてしまう。その事実を念頭に置きながら、扉を開けた。
病室内の優は先ほどよりは落ち着いた様子でテレビを見ていたようだが、扉が開いた音に驚いたのか、不自然な体勢で扉の方をみていた。
緋那は、扉は閉めずに開けたまま、少し屈みながら出来るだけ優を上から見ないように視線を合わせる。
「さっきは、悪かった。驚いたよな。俺は、優の友達だ。さっきのことをちゃんと謝りたいから、近くに行ってもいいか? 怖いなら扉は開けた状態にしておくからさ」
「......」
優は少し迷うように視線をさまよわせる。それでもこくりとうなずいてくれた。
「いいよ。私もさっきは怯えてごめんなさい。びっくりして。扉も閉めて大丈夫」
優の言葉を確認してから、緋那は病室の扉を閉める。そして、ゆっくりと優に近付いた。
いつもなら座るパイプ椅子を無視して、緋那はベッドサイドに跪くようにして優との視線を合わせる。
「さっきも言ったけど、ごめんな? 急に人が入ってきて驚いたよな」
「ノックの音は聞こえてたから、大丈夫。私も少し混乱していて」
「それは、当然だ。俺だって同じ状態なら混乱する自信しかない。一応、自己紹介もするな。望月緋那で今は高1だ」
「......本当にひなたなんだ。私の中だと小2だよ」
「小2っていうと担任は......尾霧だったけ?」
「そうそう、おーり先生! 先生の呼び捨てはだめだよ?」
知っている教師の話題になったからか、優の調子は少し戻った。それに対して緋那は複雑な気持ちになる。
「あー、うん、そうだな。呼び捨てはだめだよな」
「そうだよ! あと少し前に遠足で公園行った!」
「ああ、お前が迷子になってワンワン泣いていた遠足な。それはめちゃくちゃ覚えてるわ」
「泣いてない! それにあれはひなたが悪い! 勝手にいなくなって」
「いや、鳥に惹かれて勝手にどっか行ったのはお前だっただろ。懐かしいな」
優の話は、緋那の中でもかなり記憶に残っているものだった。緋那以外の全員がすでに緋那を優の保護者として認識していたことが判明した嫌な事件だったからだ。
鳥に気をとられ、公園外に1人で出てしまった優はたまたまパトロールをしていた警察官に連れられて、合流した。まだ集合時刻よりも前に戻ってきたため、散々探し回っていた緋那以外はそのとき初めて優雅、迷子になったのを知ったという、今では笑い話の出来事だ。
緋那にとっては10年近く前の話、しかし優にとって少し前の話。それだけ優とのずれは大きかった。それでも病室に来ると決めたときに誓ったのだ。優を不安にはさせない、自分の負の感情はすべて隠しきると。
だから、緋那は必死に表情を繕った。そのためか、優も最初に比べてかなりリラックスをしている状態だ。
「あはは。本当にひなただったんだね。育ったね」
優は楽しそうに笑う。緋那も少しつられて口角が緩んだ。
時計を確認すると、そろそろ面会の時間は終了だ。少しさみしく思いながらも緋那は優に別れを告げる。
「優、俺はそろそろ帰るな。また、明日も来ていいか?」
「私はいいよ? でも明日もひなたのことを忘れてると思う。それでもいいの?」
「いいから、言ってるんだよ」
立ち上がった緋那は少し乱暴に優の頭を撫でた。
「また、明日も来るからな」
緋那は自分に言い聞かすように宣言する。優は嬉しそうに笑った。それだけで自分の選択は間違えじゃなかったと緋那は思えた。