第17話 記憶の欠落
緋那は昨日の気まずさを必死に抑えながら、優の病室の前にいた。すでに5分以上経過している。
優の記憶の件は気になる。しかし昨日緋那は優から、現実から逃げ出してしまったのだ。その罪悪感は消えない。
何度目になるかわからない深呼吸をする。心臓の鼓動は早鐘を打っている。緊張で口腔内が乾燥している。
「何してるの? ひなた」
もう一度深呼吸しようとした瞬間、病室の内側から扉が開いていつも通りの笑顔の優がいた。
「――っ、優」
突然の優の登場に緋那は悲鳴をあげそうになった。すぐに病院だと気付き、悲鳴を飲み込む。
そんな様子の緋那を見て優は声を出して笑う。
「どうしたの、ひなた。変な顔して。もーびっくりしたよ。なんで扉の前にずっといるの」
おかしそうに笑いながら、優は緋那の腕を引く。どうやら、扉の前にいる緋那に気づいて優は扉を開けたようだ。
そこにいる優はいつも通りだ。昨日の動揺なんて嘘に思えた。
あれは夢だったのか? 緋那はそう思い込みたくなった。しかし、違うことは現実だったことは緋那の五感全てで覚えていた。
「お見舞い来ないから、もうひなた来てくれないと思ったよ」
病室に緋那を引き入れると優はベッドに座る。久しぶりに優が歩いている姿を見た気がしたと緋那はそこで気付いた。
「歩いて大丈夫なのか?」
「大丈夫だよー」
優はピースサインをして答える。あまりにも普段通りの優の様子に緋那は薄寒く感じた。優はもしかして昨日のことも忘れてるんじゃないかと、緋那はそう思ってしまう。
そんな緋那の考えがわかったのか、優は優しく笑った。
そして、ジャーンとキャビネットの上に置いてあったノートとインスタントカメラを緋那に見せる。
「昨日、検査した後に売店でノート買って、お母さんにカメラ買ってきてもらったんだ」
優はそう言いながら、勝手にカメラを緋那を緋那に向ける。そして、シャッターを切る。少し間を置いて現像された写真が出てくる。出てきた写真を机の上に置き写真の白い下部にマジックペンで優は"ひなた"と書く。
優は字が綺麗なんだよなと一瞬、緋那は現実逃避をする。しかしすぐに我に返る。
「いきなり何無言で写真撮ってるんだ?」
「ん? 忘れないためだよ。」
優はそう言いながら、ノートを開く。そして写真をマスキングテープで貼っていく。チラリと見るとノートにはたくさんの写真が貼ってある。彼女の両親から、病院の医師や看護師まで優が関わる可能性のある人物の写真がそこにはあった。
「昨日検査をして、問題はなかったんだよ? でも、見てくれた先生、初めてだと思ったら主治医だった。確実に私の記憶は無くなっていってる」
優はカメラをキャビネットに置きながら、語る。意図的なのか緋那の顔を見ようとしない。きっと普段通りの顔が作れないんだと緋那は感じ取った。
そして、緋那から視線を逸らしながら優は続ける。
「だからさ、このノートに今日あった忘れたくない出来事を書いて朝読み直すことにしたんだ。高校に入学した記憶ないの。この先もどんどん過去を忘れてくと思うんだ」
「......」
緋那は何も言えなかった。優の顔は見えない、しかし声だけは淡々と話す。初めて優がわからなくなった。自分は優の皮を被った違う人物と話しているのではないかとも思ってしまう。
「だからさ」
優はそう元気にいい、緋那を見た。その顔には迷いも恐怖もなかった。その事が緋那には優がどこかに消えてしまうんじゃないかと恐怖を抱かせる。
「後悔しないように私は記憶を記録するんだ」
優の言ってることはまるで忘れた分を過去の自分の記憶で埋めて、忘れてることを他者に気づかせないようにしてるとしか思えなかった。なんで1番苦しいはずの優が、周りに気を使うんだ。逆だろうと緋那は唇を噛み締める。
「俺には、俺には偽らなくていいからな」
緋那の口から自然と言葉が溢れる。しかし、これは嘘偽りのない本心だった。
「もぉ、ひなた。お母さんと同じこと言ってる」
優は笑顔で言う。きっと優は母親にも同じ笑顔で言ったのだろう。きっと彼女の母親も緋那以上にこの笑顔に絶望したんじゃないかと思った。
緋那に迷惑かけるのをライフワークと言って笑っていた中学最後の日が懐かしい。
「俺に迷惑かけるのはライフワークじゃなかったのか?」
「えっ? 常々思ってはいたんだけど、私ひなたに直接言ったんだ」
優が驚いたように言う。いつから思っていたんだ? と少し緋那は聞きたくなった。でも、やめた。
「いつまでの事は覚えてるんだ?」
「中学の卒業式は覚えてるよ。その翌日以降が曖昧かな?」
「そっか......。昨日のことは?」
「......ノートに書いてあることは」
優の笑顔が固まって視線を逸らしながら言う。最近の記憶はすぐに抜け落ちて、過去の記憶も徐々に新しいものから抜け落ちている。それが今の優の状況のようだ。
「記憶以外は?」
「うーん、体は軽いし問題ないよ。記憶のことがなければなんで入院してるんだろ? って感じ! 今日朝起きてここが病室ってわかって驚いたよ」
変わらない優の笑顔。しかし、過去は人を作ると言う。その過去が抜け落ち始めている優は本当に変わってないのだろうか。緋那は優の笑顔が怖かった。しかし、昨日逃げたことを後悔していたから、逃げはしない。
緋那は記憶が欠落していっている優のために何ができるんだろうか。それを今から考え続けることにした。
幼馴染で親友。その関係が今後変わるかもしれない、優が自分のことを忘れてしまうかもしれない。それでも緋那は毎日見舞いにこようと思った。忘れられても初めましてと友達になろう。
優が忘れても、緋那にとって大切な親友である事実が変わることはないのだから。