第32話 覚えてないけど大事なノート
翌日。優は目を覚ます。知らない場所にいることに戸惑う。身体がうまく動かない。なんとか動く首を動かしながら視線をキョロキョロと周りを見る。横になってるベッド近くの壁に何かが貼ってあった。
優は書いてある文字を読む。
≪ここは病院です。あなたは入院しています。記憶がなくなる謎の病です。起きたら、右手に握っているボタンを押してください。無理に身体は動かさなくて大丈夫です≫
見慣れない字で書かれている。少し身体が起きてきたのか、確かに右手に筒状の何かを握っていることに気付いた。指をぎこちなく動かしていると少しでっぱっているものを見つける。
これがボタンかなと優は少し力を入れてみた。カチリと微かに沈む感覚がした。きっとボタンを押したのだろう。
「ふー」
少し腕を動かしただけで、疲れを感じる。呼吸が寝る前と比べてしづらい気がして深く深呼吸をした。
新鮮な酸素が身体を巡ったのか少し動けるようになる。手をグーパーと動かす。足の指も動かす。
「よし」
さっきよりも声が出た。優はどうやって起き上がるか考える。徐々に力が入ってきた。膝と肘を曲げ伸ばししてみる。
これならもう少しで身体を起こせるんじゃないかと優が気合を入れたタイミングで、ガラガラと扉が開く。
「優ちゃん、起きた?」
白いナース服を着た女性が遠慮がちに室内に入ってくる。優はまだ全身は動かせないため、首と視線だけをそちらに向けた。すぐに、看護師と目が合う。
「おはよう。体はどこか違和感ない?」
看護師は優の休んでいるベッドまで足音もなく近付いてきた。
「大丈夫。でも、息が少ししづらくて、身体に力が上手く入らない.......気がする。あと、記憶がなくなるって?」
優は起きて張り紙を見た時からの疑問をぶつける。看護師は少し悩んでから口を開いた。看護師から仄かに漂ってくる消毒のツーンとする匂いが優の不安を掻き立てる。
「優ちゃんは、今高校1年生なの」
「えっ? 高校生? 私まだ小5だよ?」
「うん、そうだね。優ちゃんのその記憶から今日までの記憶がごっそりどこかに行っちゃったみたいなの。検査もたくさん頑張ってくれてるんだけど、原因が何一つわかってないの。ごめんね」
申し訳なさそうな看護師の顔を見て、優は嘘だと思えなかった。自分が高校生? ランドセルを背負っている記憶しかないのに? 優の頭は混乱した。しかし、心は不思議と凪いでいる。まるでこの混乱が日常茶飯事だとでもいうように。
それが優にとっては1番恐ろしかった。
何も声を発することができない。先程とは別の理由で身体が動かない気がした。
「大丈夫。優ちゃんはいい子だもの。きっと原因や治療法が見つかるわ」
励ますように看護師が伝えるが、優には信じられなかった。
それから看護師は、血圧や体温などのバイタルを測定して持ってきていたノートに書き記している。
ノートを見て優は何か大事なことがあった気がした。記憶にはない。しかし心がザワザワする。
身体の自由が戻ってきて、優はゆっくりと状態を起こす。看護師が慌てて、優の身体を支えた。
一度座ってしまえば問題ない。優は看護師に笑いかける。
「お姉さん、ありがと!」
声を出すと少し息が切れた。不思議に思いながらも優は周りを見回す。しかしノートは見つからない。
大事なものなのにと優は無意識に思った。そして、首を傾げる。覚えてないのに大事ってどういうことだろうと疑問が浮かんでくる。
「優ちゃん、何を探しているの?」
記録をし終えた看護師が優に尋ねる。優は少し言うかどうか迷った。それでも、この謎の感情の正体を知りたかった。
何度か音も出さずに口を開閉させてから、言葉を紡ぐ。
「あの、過去の私、何かノート持ってなかった?」
「ノート......あっ、あの日記帳みたいなやつかな?」
口にしたら、さらにそんな気がしてきた。不思議な感情に支配される。看護師は優にひとこと断ってから、キャビネットに近付く。そして、棚から2冊のノートを取る。
ベッドの足元側に設置してあったテーブルの上にノート2冊が置かれる。
「これはある意味で、優ちゃんの闘いの記録でもあるの。無理に読んだり、真似したりしようとしなくてもいいからね」
看護師は優しく笑う。優はズリズリと身体を引きずるようにして、机に近付くとノートを見る。
これだ。
優の心は歓喜した。記憶にはない。それでも自分はこれを探していたんだと実感する。震える手でノートを開く。
まず最初に過去の自分からのメッセージがあった。次のページにはたくさんの写真と名前。その次からがあったと思われる出来事がたくさん綴られている。
これは私の全てだ。優は直感した。きっとこのノートがわからなくなってしまう時が来たらそれが文月優の終わりだと何故か確信した。
優は2ページ目に戻り写真と名前を確認する。そこには記憶よりも年の進んだ両親や緋那、記憶の中では最近知り合った優花の写真が名前と共に並んでいる。
看護師は優の体調に変わりがないことを確認すると、何かあったら呼んでねと病室を後にした。
優は気にせずにノートに貼られ写真から視線を外さない。
温かい何かが優の頬を伝った。優は拭いもせずに吸い込まれるように見つめ続けた。
朝食の配膳が来るまで、優はノートを読み続けた。途中でまだ習っていないはずの漢字が使われていたが、問題なく読めた。記憶はなくなっても知識は残っているんだとどこか他人事のように思う。身体も寝起きに比べてだいぶ動く。不思議だなと自分の身体がわからなくなる。
朝食も食べ終わり、しばらくすると検査をすると看護職員が訪室した。
看護師の介助のもと、ベッドから車椅子に移動する。看護師に車椅子を押してもらいながら、優は病室を後にした。