廃材と怒り、訴状一枚(後編)
第2話:廃材と怒り、訴状一枚(後編)
翌朝。岡部太陽の端末に、一通の優先電子通知が突き刺さった。
『川崎区簡易裁判所:ADR(決闘裁判)申請受理通知』
岡部は校舎の廊下で、それを三度読み返した。
最初は意味がわからなかった。次にタチの悪いジョークだと思った。そして――それが現実だと理解した瞬間、喉の奥からねばついた笑いが込み上げた。
「あいつ、本気かよ......ッ!」
「えっ、西ですか!?」
取り巻きの田島が背後から画面を覗き込む。
「あのスラムのゴミ拾いが、太陽くんのA級機相手に、ガチで裁判レースやる気なんですか!?」
「そうらしい」
岡部は笑いを噛み殺しながら、廊下の先へ視線を投げた。
ちょうど守が、教室へ入っていくところだった。痩せた背中。油の染みついたボロいジャケット。
(面白いじゃないか)
岡部は口元を歪める。だが同時に、昨日の路地裏で射抜かれた、あの『何も持たざる者の目』が脳裏をかすめた。金も、数も通用しない、飢えた獣の目。岡部はその不快な記憶を、大昂調な嘲笑の中に無理やり押し込めた。
「半年間、俺の所有物に組み込んでやる。震えて待ってろよ、西」
――だが、通知に添付された競技要項(レギュレーション)を確認した瞬間、今度は守の胃の底が冷え切った。
『決闘期日:二週間後。舞台:川崎競馬場(全天候型合成ダート)。距離:一六〇〇メートル。機体規格:制限なし(双方の合意とみなす)』
(制限なし......だと?)
岡部側の弁護団が手を回したのだ。機体性能の均等化(ハンデキャップ)を骨抜きにし、実質的なオープンクラスへ引きずり下ろされた。
つまり岡部は、最新のAIナビ、超高純度レアアースを用いた高出力モーター、世界最高峰のカーボンフレームを潤沢な資金で持ち込めるということだ。
対するこちらは、拾ってきた鉄骨の継ぎはぎ。格差などという生ぬるい言葉では足りない。出走する前から、勝敗は物理法則によって決定していた。
その夜、守は眠れなかった。
万年床の上で、天井の雨漏り痕を見つめる。
怖い。吐き気がするほど怖かった。
負ければ半年間、あの男の玩具にされる。ウラヌスも解体されるかもしれない。暗黒の未来が、くっきりと網膜に張り付いていた。
それでも、午前三時には跳ね起き、ガレージへと走っていた。
恐怖から逃げ回るより、恐怖を抱えたままウラヌスの前に立っている方が、まだ息ができたからだ。
ガレージの静寂の中、ウラヌスの前に腰を下ろす。
外れかけた配線を繋ぎ直し、端子の錆をアルコールで磨き上げる。この機体を形にするのに三年を費やした。だが、一度も『完全起動』をさせたことはない。走らせる理由も、舞台もなかったからだ。
(だが、今、舞台は整った)
守はウラヌスの同調ポートに、おそるおそる指を重ねた。
緑のインジケーターが点滅する。思考伝導接続、完了。
――その瞬間。
ウラヌスの電子脊髄から、津波のような『意志』が、守の脳内へ逆流してきた。
「......ッ、が......あ......ッ!」
悲鳴が漏れた。電流ではない。過熱でもない。
掌から腕、肩、胸の奥へと、泥のように重く熱い圧力が侵食してくる。暗闇の底で、ずっと誰かが自分を待っていたかのような、濃密な気配。
手を離しそうになり、踏みとどまった。深く、より深く、意識のアンカーを降ろす。
目を閉じると、暗闇の向こうに『コース』が見えた。
深く沈むダートを力任せに蹴り飛ばし、内を突く他機を弾き飛ばす野性。最終直線、爆発的なストライドで前の獲物を噛み殺そうとする、圧倒的な渇望。
それは守の思考ではない。
鉄の馬の腹の底から突き上げてくる、走ることへの、狂気的なまでの飢えだ。
そして――その飢えのさらに奥底から、微かに匂いがした。
ガレージの埃っぽさではない。もっと懐かしい、鉄と、重油と、安煙草が混ざり合った匂い。
(親父......あんた、まだ、ここにいるのか)
返答はない。機械なのだから当然だ。
だが、守の指先は歓喜で震えていた。
「お前......ずっと、走りたかったんだな」
掠れた声が、闇に吸い込まれる。
「なら、俺もだ。一緒に地獄まで走ってやる」
ウラヌスの胸部コアから、ド、ド、と重い低周波の共鳴が打ち鳴らされた。
守は立ち上がり、壁に貼られた古いモノクロの写真を見上げた。
かつて、敗北が決した戦場の中でも馬への愛と誇りを捨てなかった伝説の男――バロン西と、その愛馬ウラヌス号。
『守、勝ち目のない戦いでも、引いちゃいけない誇りってのがある。俺はそんな、気高い鉄の馬を創りたいんだ』
油まみれの顔で笑っていた、父の言葉が蘇る。
守は震える右拳を、左胸に強く押し当てた。恐怖を、意志の力で燃料へと変える。
「弱気は最大の敵だ。......行くぞ、ウラヌス」
――変化が訪れたのは、三日後の深夜だった。
ガレージの錆びたシャッターが、乱暴に叩かれた。
守が警戒しながら開けると、そこに一人の少女が立っていた。
黒いロングコート。意志の強そうな切れ長の瞳。彼女の抱える端末には、あろうことか『ウラヌスのオリジナル設計図』が映し出されている。
守の身体が瞬時に硬直した。
「お前......誰だ。そのデータ、どこで手に入れた」
「川崎区の特許オープンデータベース。あなたのお父さんが七年前に放棄した仮登録データよ。ずっと未解決の怪文書扱いされていたけれどね」
少女は淡々と言い放った。
「黒沢凛(くろさわ・りん)。あなたの機体、私が組み直してあげる」
「何の目的だ」
「岡部の実家のディーラー、うちの黒沢重工から多額の融資を受けているの。私、あの一家の拝金主義と、あの無能な息子が大嫌いなのよ」
凛は視線だけを動かし、守の背後に佇むウラヌスを見据えた。
「それに、この狂った設計図を見た時から確かめたくて堪らなかった。......本物が、どう動くのかをね」
重い沈黙。守は少女の目を凝視する。嘘の気配はない。だが、鵜呑みにはできない。
「......条件がある」守は低く言った。「レースの解析データは全部やる。その代わり、機構のセッティングは俺にすべて説明しろ。隠し事は一切なしだ」
「素人に技術理論を噛み砕くなんて、時間の無駄よ」
「乗るのは俺だ! ウラヌスと繋がるのは俺なんだよ! 俺が理解してなきゃ、同調(シンクロ)なんてできるか!」
守の喝声に、凛は一瞬だけ驚いたように目を見張り――やがて、不敵に口角を持ち上げた。
「......いいわ。その条件、買った。中に入れて」
ガレージに足を踏み入れた凛は、ウラヌスの目の前でピタリと足を止めた。
蔑みでも、同情でもない。その瞳に宿ったのは、純粋な『戦慄』だった。
「......なに、これ」
凛の声が、初めて微かに震えた。
「ガラクタの寄せ集めに見えるわね。でも違う。この廃材の溶接角度、フレームの共鳴周波数を、意図的に一定の振動数(ヘルツ)へ揃えている。計算じゃない......これは、職人の狂気的な直感よ」
「......親父が作ったんだ。残りを、俺が拾い集めた」
「残り一週間で、走れるように組み直すわ」
凛は端末を起動し、凄まじい速度で数式を走らせ始めた。その瞳は、獲物を見つけた肉食獣のそれだ。
「A級機と殺し合えるレベルに引き上げる。――ただし」
彼女が守を真っ直ぐに見据えた。
「パイロットのあなたが、ウラヌスの出力に精神を灼き尽くされる覚悟があるならの話よ」
守はウラヌスを見た。壁の写真を見た。
そして、獰猛に口元を緩めた。
「最初から、そのつもりだ」
川崎の重苦しい夜に、もう一つの火が灯った。
廃材と、怒りと、二つの意地。レースまで、あと十一日。
錆びたガレージの中で、反逆の歯車が静かに動き出した。