廃材と怒り、訴状一枚(前編)
第1話:廃材と怒り、訴状一枚(前編)
西暦二〇五〇年。
人類が生身の競走馬をターフから引退させて十年。今、土と芝を蹴立てるのは、すべて「からくり馬」だ。ギアとカーボン、そして量子チップで構成された、美しくも獰猛な機械の獣たち。
守(まもる)にはそいつらを買う金がない。
それだけが問題だった――いや、今この瞬間言えば、別の切実な問題がある。
「今月の分、まだ払ってないよな。西」
背中が冷たいコンクリート壁にたたきつけられた。
岡部太陽。十七歳。父親が地元の機械馬ディーラーを経営しており、ただそれだけの理由でこの下請け街の頂点に君臨している男だ。川崎第七ブロックの狭い路地に立ちこめる、冷却液の甘ったるい臭いと排気ガスが、今日はいつもより不快に鼻をついた。
「払う? 何を」
「ノートの授業料。相場で三万」
「頼んでない」
直後、みぞおちに拳がめり込んだ。
大して効かなかった。それが余計に腹が立った。「殴られ慣れた」ということは、それだけ長く虐げられてきたという証明だからだ。守の奥歯が軋む。握りしめた拳の爪が、掌の皮膚を破るほど食い込む。
殴り返せたら、どれだけ楽か。だが、今は駄目だ。今じゃない。
「頼んだだろ」
「覚えてない」
今度は頬だった。口の中が切れ、鉄の味が広がる。
取り巻きの三人がスマートグラスで動画を回しながら嘲笑していた。守は顔を歪めながらも、ジャケットの袖口に仕込んだ型落ちの記録デバイスの録画ボタンを、静かに押しつづけた。ずっとそうしてきた。証拠はすでに十分すぎるほど溜まっている。ただ、それを叩きつける「場所」がなかっただけだ。
「......お前、ほんと空気読めねえな。お父さんいないんだろ? だから常識ってもんが――」
守の思考が、そこでピタリと静止した。
腹でも頬でもいい。だが、親父のことをその汚い口で開くな。
西啓介(にし・けいすけ)。七年前、このガレージ街から忽然と姿を消した天才機械師。守の記憶の中の父親はいつも油に塗れていて、「もうすぐ完成だ」と笑いかけては作業に戻り、そのまま消えた。その男の不在を、こんな奴に笑われる筋合いはない。
「うるさい」
「あ?」
「うるさいって言ってんだよ」
守は壁から背中を剥がし、まっすぐに岡部を見据えた。
身長差は頭一つ。後ろに控えし三人。それでも絶対に目を逸らさなかった。ここで逸らしたら二度と立ち上がれないと、骨の髄で知っていたからだ。
岡部が、ほんの一瞬だけたじろいだ。
その目の奥に揺らめいたもの――恐れだ。金と数で身を固めた人間が、何も持たない人間の目の底にある「牙」に触れた瞬間の、純粋な恐れ。
だが、すぐに嫌な笑顔が張り付いた。
「......いいね。じゃあ『決闘裁判』、やってみるか? ルールは知ってるだろ」
守は知っていた。
十五年前の法改正により導入された制度――代替的紛争解決競技制度。通称「からくり決闘裁判」。揉め事の双方が申請し、裁判官がコースと機体規格を指定して公式レースを行う。勝者の法的主張が認められ、敗者は一切の異議申し立てが許されない。
「俺が勝ったら、お前は半年間、無給でうちのガレージの雑用係だ。当然だろ、損害賠償の代わりに体を張ってもらうんだからさ」
「......訴えていない。まだ」
「そうだな」
岡部はニヤニヤと歪んだ笑みを浮かべた。
「お前みたいな廃材拾いに、まともな機体が用意できるわけねえもんな」
路地を去っていく岡部たちの背中を、守は黙って見送った。
鼻から垂れた血を指で拭う。乾きかけた血が皮膚に擦れ、赤い痕を残した。
夜。薄暗いガレージに戻ると、守は一直線に「それ」の前へ向かった。
部屋の中央に鎮座する、厚手のキャンバスシートを被せられた巨大な影。
守はゆっくりとシートを払った。
最初に見えたのは、しなやかな頭部の輪郭だった。
長い首のライン。前方に鋭く向けられた顔の角度。どこか誇り高き、一頭の馬のシルエット。
首筋のフレーム部分には、誰かがタガネで無骨に刻み込んだ文字がある――『URANUS』。父の筆跡だ。幼い頃から何度も見てきた、間違えようのない文字。
シートが完全に落ちる。
惨めな姿だった。
フレームは廃車場から拾ってきた鉄骨の溶接継ぎはぎ。脚部の駆動系は三種類の旧型規格が混在し、見た目はまるで歪なバケモノだ。ニューラルインターフェースの保護カバーは脱落し、内部の光ファイバーがむき出しのまま垂れ下がっている。
誰がどう見ても、まともに走れる代物ではない。
――それでも守には、こいつが美しく思えた。
父が命を削って形にしようとした「何か」が、この継ぎはぎの鉄骨の中に確かに宿っている。父が消えてからの七年、守が放課後を削って組み上げてきた。素人工事だらけで、本当に動くかもわからない。だが、これだけが父と守を繋ぐ唯一の鎖だった。
端末を呼び出し、川崎区簡易裁判所のADRポータルサイトを開く。
被申請者の欄に「岡部太陽」と打ち込み、申請理由の欄へ事実を刻んでいく。暴行、恐喝、継続的ハラスメント。記録してきた映像データを全件添付する。日付、場所、回数――この日のために、屈辱に耐えながら溜め込んできた毒だ。
請求内容の欄で、守の指が止まった。
『暴行等に対する慰謝料および治療費:三十万円』
勝てば、ウラヌスのコアパーツを一新できる。
だが負ければ――岡部の言う通り、奴の奴隷のような半年間が待っている。
(わかってる......勝てる保証なんてどこにもない)
岡部はディーラーである親のコネで、A級の量産機を引っ張り出してくるだろう。対するこちらはゴミ捨て場の鉄屑だ。無謀。狂気。敗北する確率の方が圧倒的に高い。
それでも、守の指は震えなかった。
送信ボタンの上で、守はウラヌスを見上げた。
ガレージの静寂の中、鉄の馬は静かに佇んでいる。欠陥だらけで、継ぎはぎだらけで、光ファイバーが微かな風に揺れていた。カメラレンズで構成された、光を持たないはずの無機質な双眸が、じっと守を見つめ返しているように思えた。
守は歩み寄り、ウラヌスの首筋にそっと手を置いた。
冷たい金属の質感。父が溶接した荒々しい継ぎ目が、掌に強く当たった。
「......走れるか」
応答はない。ただの機械なのだから当たり前だ。
だが守には伝わってきた。こいつが「走りたがっている」のが。父が命を懸けて注ぎ込もうとしたもの――単なる馬力やフレーム剛性ではない、もっと熱く、もっと猛烈な「何か」が、この冷えた鉄の体内でずっと息を潜めている。
守は振り返り、迷いなく送信ボタンをタップした。
画面に『ADR調停(決闘裁判)申請完了』の文字が青く浮かび上がる。
川崎の濁った夜空へ、一枚の訴状が飛び立った。廃材と、抑えきれない怒りと、そして親父の遺した魂を乗せて。