ベガはベガでもホクトベガ 砂塵の女王、北斗茜の誘惑
第5話:ベガはベガでもホクトベガ 砂塵の女王、北斗茜の誘惑
御厨(みくりや)の特訓が始まって一週間。
守の身体は新しい打撲痕と黒い機械油に覆われ、夜、泥のように眠るベッドの中でさえ、瓦礫の上を走る悪夢を見ていた。
その日の朝も、守は荒野の泥濘(ぬかるみ)に突っ伏していた。
ウラヌスの右前脚が深い粘土質に嵌まり、ニューラルリンクを通じて、足首を万力でねじ切られるような激痛が脳髄を焼く。起き上がろうとするたびに、重い泥が磁石のように機体を引っ張った。
コンクリートの瓦礫に腰掛けた御厨が、気怠そうに欠伸を噛み殺す。
「膝で耐えるなと言ったろう。荷重は、腰の重心(センター)で受けろ」
「......うるさい! 一歩進むだけで、死にそうなんだよ......ッ!」
守の抗議を遮ったのは、耳に届く音よりも早く、内臓を直接揺さぶるような『地響き』だった。
遠くから、来る。凄まじい質量を伴った圧倒的な速度。
守がウラヌスの脚部センサーでそれを捉える前に、大気が激しく震えた。バババババッ! という、乾いた暴力的な排気音。
地平から、砂煙が巨大な壁となって立ち上がる。
その黄塵を切り裂いて、白銀と黄金の装甲を纏った機体が躍り出た。
速い。だが、ウラヌスのような悲壮感がない。
ウラヌスがあがき溺れている泥濘の上を、まるで滑らかな氷の上であるかのように滑走している。脚部のエアフィンが回転するたびに泥が美しい霧となって弾け飛び、機体の重心はミリ単位すらブレない。
圧倒的な出力が生み出す、完璧な『静寂』。台風の目のごとき走りに、守は泥に塗れたまま息をすることすら忘れて見惚れた。
黄金の機体が、ウラヌスの鼻先数センチで寸分違わず制動した。
巻き上がった砂塵がゆっくりと晴れていく。
機体名。かつて芝コースで伸び悩み、泥と砂のダートへ転向した瞬間に覚醒して連戦連勝を重ねる、不敗の砂塵女王。
その無骨な鞍から、真紅の長髪をなびかせた女が軽やかに飛び降りた。
北斗 茜(ほくと・あかね)。
地方競馬組合と巨大ディーラーの狭間で、数々の土地利権紛争を決闘裁判で片付けてきた、プロのバウト・ジョッキーだ。
ライダースーツのジッパーを胸元まで気怠そうに引き下げ、汗ばんだ白い首筋を拭いながら守へと歩み寄る。
ふわりと、守の鼻腔をくすぐる匂い。安物のグリスの臭いを塗り潰す、女の体温と甘い香水の香り。守は毒気に当てられたように、無意識に一歩後退した。
「あんたが西 守? 岡部のボンボンを泣かせたガラクタ使いが、こんなところで無様に泥遊びなんてね」
「......誰だ、あんた」
「北斗 茜。この臨海エリアの『掃除屋』よ」
背後から、凛が鋭く一歩前に踏み出してきた。
「北斗 茜――地権者やディーラーから依頼を受け、ADR(決闘裁判)で数々の挑戦者を再起不能に追い込んできたプロ競走士。なぜあんたがこんなスラムにいるの?」
茜は凛を一瞥し、フッと鼻で笑った。
「お仕事よ、お嬢様」
茜は守の泥に汚れた顎を、冷たい指先でクイと持ち上げた。赤い唇が艶っぽく歪む。
「坊や。岡部太陽を負かしたことで、あんたは『上』の逆鱗に触れたのよ。親父さんが失踪した後に競売へ流れていたこのガレージの土地権利、岡部側の息がかかった不動産屋が正式に買い取ったわ。......ねえ、住居侵入で強制排除される前に、私の傘下に入らない?」
茜の長い睫毛が揺れる。
「最新のパーツも、安全な環境も、私が用意してあげる。その不格好なボロ機体も、私の専属メカニックに預ければ、見違えるほど綺麗に、速くしてあげるわ」
甘い誘惑。泥を啜り、骨を軋ませる日々から一瞬で抜け出せる黄金のチケット。
守は一秒だけ、その言葉の甘い重力を受け止めた。
そして――。
顎に添えられた茜の指を、守は静かに、けれど明確に払い落とした。
「断る。ウラヌスは誰の所有物でもない。......俺の相棒だ」
茜の双眸の色が変わった。
蔑みから、初めて本当の意味で守個人を『値踏み』する肉食獣の目に。
「......へえ。言うじゃない」
茜は背を向けると、長い脚を跳ね上げてノースベガに跨がった。そして振り返りざまに、電子データが封入された樹脂製の書面を投げつけた。
「川崎簡易裁判所、ADR呼出状よ。あんたのガレージの明渡しを求めた公式出走手続。断れば、来週の今頃には重機があんたのガレージを更地にするわ。舞台は臨海廃資材置き場。コースは超ディープな砂と泥の特設ダート。......私の砂に呑まれないように足掻いてみせてね、坊や」
ノースベガが重低音を轟かせ、蹴り上げた砂塵が分厚いスクリーンとなって守の視界を真っ白に塗り潰した。砂塵が晴れたときには、黄金の残像すら消えていた。
その日の夜。
守はガレージの冷たいコンクリート壁に一人で背中を預けていた。
凛はデータを解析するために黒沢重工のラボへ戻り、御厨も姿を消していた。暗がりのガレージには、静かに佇むウラヌスと守だけが残されていた。
(このガレージが、消える......)
失踪した父親が残した唯一の作業場。この三年間、拾い集めたガラクタでウラヌスを組み上げた自分の世界のすべて。
壁の古い写真も。錆びついた工具棚も。床に染み付いた親父のオイルの匂いも。
来週には、無慈悲な重機がすべてを鉄屑に変える。
守は膝を抱え、暗闇を見つめた。
冷たい不安が鉛のように胃の腑に沈み、呼吸が浅くなっていく。
暗がりの中、ウラヌスの首筋にある同調ポートが、心臓の鼓動のように青白く微かに点滅した。まるで「ここにいるぞ」と告げるかのように。
守はしばらく、その小さな光を見つめていた。
やがてゆっくりと立ち上がり、ウラヌスの冷たい、けれど確かな体温が宿る鉄の首筋に両手を押し当てた。
「......絶対に渡さない。ここも、お前も」
掠れた声は闇に溶けた。それは弱音ではなく、自分自身への血の誓いだった。
翌朝。凛が解析したノースベガのデータを見て、守は言葉を失った。
「ノースベガの独自兵装『砂塵のカーテン』。排気熱とファンを利用して、走行中に特殊な磁性粒子砂を散布するわ。後続機は視界はもちろん、ミリ波レーダーも、ライダーセンサーも、同調通信波もすべて遮断(ジャミング)される」
「センサーが、全部効かなくなる......?」
「現代の機巧馬は、電子情報でミリ秒単位の姿勢制御をしているの。砂塵の暗闇の中でそれらの五感を奪われたら、ウラヌスはまともに走ることもできずに転倒・大破するわ。物理的な窒息よ」
守は、目の前に広がる瓦礫の荒野を見つめた。
数日前、ここでウラヌスと全手動で泥の中を走った。あのとき、ジャイロをカットされた脳に大量のノイズが流れ込み、気が狂いそうになった。
けれど、それを「見る」のをやめ、足の裏から伝わる振動を「感じた」瞬間、世界は拓けたのだ。
守は、ゆっくりと目を閉じた。
荒野の配置が脳裏に立体的に浮かび上がる。泥の粘度。鉄板の軋み。次の一歩を踏み出すべき角度。それらは電子の数値ではなく、ウラヌスの鉄の骨格を通じて伝わってきた『肉体の記憶』だ。
「......センサーが消えても、俺にはウラヌスの骨(フレーム)がある」
凛が驚いたように顔を上げた。
「目を閉じて走れば、砂塵の暗闇なんて関係ない」
「――ッ、本気で言ってるの!? 視覚同期(アバター・リンク)を自ら切るなんて正気の沙汰じゃないわ!」
「やってみなければ、ガレージが消えるんだ!」
後ろで、御厨が缶コーヒーのプルタブを開けながら呟いた。
「......お前、親父のあの事故の話を聞く気になったか?」
守は振り返らず、ガレージにあった古い油布を自らの両目に固く巻き付けた。
「――勝ってから、聞きます」
御厨が、本日初めて獰猛に笑った。
視覚を遮断した『目隠し特訓』は、最初の三時間で守を八回、硬いコンクリートの地面に叩きつけた。
視覚情報と同調補正を失ったウラヌスは、まるで目を潰された巨大な野獣だった。頼れるのは守の脳波による体幹感覚だけ。その意識がほんのミリグラムでも揺らげば、数トンの鉄塊がバランスを崩し、守ごと転倒する。
泥が顔面に叩きつけられ、立ち上がるたびに全身の筋肉が断裂しそうな悲鳴を上げる。
それでも、守は折れなかった。
ガレージを守るため。そして何より――昨日、茜のノースベガの走りに魂を奪われたからだ。あの絶対的な美しさを、この泥塗れのガラクタで真正面から叩き潰したい。その純粋な渇望だけが守を突き動かしていた。
夕暮れ。
血を吐くような特訓の果て、守の脳髄に不意に『世界』が再構築された。
砂利の一粒が弾ける音。泥が泡立ち粘性を変える微細な振動。ウラヌスの蹄(フット)が地面から拾い上げる超低周波の情報。
それらが電子の数値ではなく、守自身の皮膚感覚として、脳内で立体的な『暗闇の地図』を描き出す。
センサーの代わりに、ウラヌスの巨体そのものが守の巨大な神経器官へと変貌していた。
守は目隠しをしたまま、泥濘の荒野を疾走した。
ピットエリアで、凛がモニターの数値を見て息を呑んだ。
御厨がゆっくりと立ち上がり、飲みかけの缶コーヒーを置くと、夕陽の中で砂塵を蹴立てて疾駆する目隠しの少年と銀の鉄馬を、ただ静かに見据えた。
「......啓介の、野郎」
御厨が震える声で呟いた。
「昔、ウラヌスの開発初期に実験事故でメインカメラが全滅した時、あいつは通信波を絶ったまま視覚オフで無傷で帰還してみせた。『マシンを信じれば目は要らない』って笑いながらな。......お前の息子は今、自力でその境地に辿り着いたぞ」
凛が御厨を振り返る。「......それが、西啓介の真実なのね」
荒野の向こう。目隠しをした少年と鉄の馬が、一糸乱れぬ動きで夕陽の沈む砂塵の中を駆け抜けていく。
もはや、一度も転倒することはなかった。
同じ時刻。川崎港、臨海廃資材置き場。
北斗 茜は、月明かりの下で特設ダートコースを一人で疾走していた。
砂塵のカーテンの調整テストではない。ただ、走らずにはいられなかったのだ。
脳裏に、あのスラムの少年の目がべったりと張り付いて離れない。
顎を持ち上げた時の、泥塗れの、けれど決して折れない野生の目。
茜はこれまで、地権者やディーラーの意を受け、数え切れないほどの挑戦者をこの砂塵のカーテンで窒息させ、潰してきた。
潰す前に、彼女は必ず標的に会いに行く。本物の怪物かどうかを自らの目で確かめるために。
けれど、ほとんどは偽物だった。権力や金、あるいは圧倒的な暴力の前に双眸から光を失い、容易く屈服する。
けれど、あの少年は違った。
ノースベガが超高速で砂の上を滑る。
茜は月明かりに照らされた砂塵を振り返り、自嘲気味に呟いた。
「......あーあ。本当に、面倒なことになっちゃったわね」
北斗 茜は笑っていた。
それが利権や金のためではない、心からの純粋な『勝負師の笑み』であることに、彼女自身、まだ気づいていなかった。