世界の壁! 錆びた蹄音、府中に沈む
第19話:世界の壁! 錆びた蹄音、府中に沈む
菊花賞の時の、お祭り騒ぎを否定するような「絶望の静寂」ではない。
東京サーキットを埋め尽くす十万人の大観衆が、ただただ、世界最高峰の「美しき暴力」に圧倒され、息を呑んで声を失っていた。
電光掲示板に非情に表示された、確定の文字。
『着順確定。一着、ホワイトヴァルキリー。二着、テンジャック。三着、グリーンクロウ』
そして――。
掲示板の遙か下、五着の欄に、不気味な電子文字で表示された機体名。
『五着、ウラヌス』
ウラヌスと守の無敗の快進撃が、世界の壁の前に、冷酷に、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
ゴールラインを駆け抜けた、その直後。
ウラヌスの心臓(古代式シリンダー)から、パキィィン! とガラスが砕けるような、乾いた金属音が響いた。
(――ぐ、ああああっ......!!)
過剰なバースト。限界を超えた同調(同調率一〇九パーセント)。
世界の最新鋭機たちの「淀みのない超高速ラップ」に必死に喰らいつくため、ウラヌスの錆びたフレームは、自らの肉体を削り、燃やし尽くして走っていたのだ。
同調コードを通じて、心臓をガラスの破片で抉られるような激痛が守の胸を貫く。
白煙を吹き、コースの端で完全に機能停止(フリーズ)するウラヌス。メインカメラの赤き光が、力なく明滅を繰り返していた。
「ハァ......ハァ......ハァ......!」
コックピットの中で、守は操縦桿を握りしめたまま動けずにいた。
同調が強制切断された瞬間、全身から血の気が引き、氷のような絶対零度の寒さが守を襲う。
視界の先。
一着を獲ったミルコ・スミスが、白銀の《ホワイトヴァルキリー》の背の上で、十万人の観衆に向かって優雅に投げキッスを送っていた。
世界基準の、汚れを知らない白銀の舞踏(ステップ)。泥を掴み、泥に塗れて走ってきたウラヌスの錆びた蹄音は、その華やかなダンスフロアに、一歩も届かなかったのだ。
『......嘘。ウラヌスの主機シリンダー、完全大破。フレームの歪み、許容値オーバー。......動かない。ウラヌスが、死んじゃうよ......!』
無線から、凛(りん)の泣き叫ぶような声が響く。
『守! 守、返事をして! 大丈夫なの!?』
「......ああ。俺は大丈夫だ、凛」
守の声は、自分でも驚くほど掠れていた。
涙は出なかった。ただ、胸の奥にぽっかりと黒い空洞が空いたように、冷たい風が吹き抜けていた。
レッカー車に牽引され、ウラヌスがパドックへと戻ってくる。
そこには、三冠の栄光を共に喜び、このジャパンカップのために持てる技術のすべてを注ぎ込んでくれた仲間たちの姿があった。
岡部太陽、北斗茜、安藤亮平、御厨兄弟、米田太一。
だが、誰も声をかけることができなかった。
自分たちが最高に仕上げたはずのウラヌスのフレームからは、各所からオイルが涙のように漏れ、煤で汚れ、見るも無惨なガラクタの塊に戻っていたからだ。
中央の華やかなパドックのスポットライトが、その無惨さを、残酷なまでに白日の下に晒し出す。
「......オゥ。守ボーイ」
ホワイトヴァルキリーから降りたミルコ・スミスが、額の汗を拭いながら歩み寄ってきた。
その顔にはいつもの陽気な笑みはない。一人の、真剣な勝負師としての顔があった。
「素晴らしいファイトだったネ、ウラヌス。君の泥臭い熱量、私のホワイトヴァルキリーのフレームを、何度も恐怖で震わせたよ。......でも、ここは世界(ワールド・ステージ)。美しさと、精密な計算がないと、頂(トップ)の風は掴めない」
ミルコはそっと、ウラヌスの煤けた装甲に手を触れた。
「......直して、もう一度。パリのサーキットで踊ろう。約束だネ」
ミルコは静かにそう告げると、勝利のパレードへと向かっていった。
「守......」
ピットに戻った守に、凛が駆け寄り、その泥塗れの身体を抱きしめようとした。
だが、守はそれを、静かに片手で制した。
「凛。......ウラヌスの本当の状態を、教えてくれ」
「......主機シリンダーの完全破断。同調接続基盤が熱でドロドロに溶け落ちているわ。......はっきり言って、今の日本の流通パーツじゃ、もう一度走らせることは......」
凛の言葉が涙で詰まる。
守は、煤と黒いオイルで汚れた自らの両手を見つめた。
無敗の三冠。チヤホヤされ、自分たちが最強だと、どこかで思い上がっていた。
世界には、ホワイトヴァルキリーがいた。流星のテンジャックがいた。沈黙のグリーンクロウがいた。
負けた。
完璧に、完膚なきまでに敗北したのだ。
守は二度と動かないウラヌスの、錆びついた足元にゆっくりと片膝をついた。
そして、コンクリートの床に溜まった冷却液混じりの泥水を、自分の手で静かに掬い上げた。
「......上等だ」
守の肩が、微かに震える。
涙ではない。それは、黒い灰の中から、再びパチパチと火の粉を上げ始めた、野生の闘志。
「俺たちは、最初からガラクタだった。綺麗なお祭り騒ぎが終わって、元の泥の中に戻ってきただけだ。......凛、ガレージへ戻ろう。ウラヌスを、もう一度一から叩き直す。......父さんの隠しファイルも、全部解禁だ。次は、世界の頂点を俺たちの泥で塗り潰してやる!」
パドックの影で、岡部や茜、亮平たちが、静かに笑みを浮かべて頷き合っていた。
壊れたガラクタを直すための、世界基準のパーツ収集。チームの新たな戦いが、今、幕を開けようとしていた。
夕陽が、動かなくなったウラヌスを長く、暗く照らす。
だが、その影は、これまでで最も太く、力強く、大地の奥深くまで伸びていた。
ガラクタの星の、真の逆襲が、ここから始まる。