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クリエはフランより一足先に診療所に着くと、ドアベルを鳴らした。
だが、中からの反応はない。
少しして、少女を抱きかかえたフランが追いついてきた。布に包まれた少女は、生気のない顔で目を閉じている。
「先生!急患だ!」
もう一度、ベルを鳴らした。それでも、誰も出てくる気配はなかった。
「......まいったな」
そのとき、カラカラ、と窓の開く音がした。
「――クリエ?」
頭上から声が降ってくる。見上げると、診療所の二階の窓からジュリアが覗いていた。
クリエが手を上げると、ジュリアはすぐに顔を引っ込めた。階段を駆け下りる音が近づき、扉が開いた。
「パパ、昨日の夜からお産の手伝いに行ってるわ」
そう言って、ジュリアはフランの腕の中の少女へ視線を落とす。砂にまみれた姿を一目見て、状況を察したようだった。
「とりあえず、こっち来て。パパが帰ってくるまでの繋ぎくらいならできると思うから」
案内された簡易ベッドの上に、クリエたちは少女を寝かせた。ジュリアは慣れた手つきで道具を集め、桶と手拭いをフランへ渡した。
「お湯をお願いします。できるだけたくさん。廊下の向こうに給湯室があるから」
フランが外へ出ると、ベッドのカーテンが静かに閉じられた。
ジュリアは処置用の灯りを点け、少女を包んでいた布を、ほどいていく。
「......随分、きれいな子ね」
二人で少女の身体を慎重に動かしながら、ジュリアが紙に印をつけていく。
その紙に描かれた人体の右手には、丸がつけられていた。
「とりあえず、今できることはやったわ。あとは、パパが戻るまで待ってて」
一通りの措置を終え、 ジュリアは灯りを落とした。それから、少女を包んでいた布を抱え、カーテンの外へ出ていった。
「お湯、持ってきたぞ」
フランの声がした。クリエがカーテンの隙間から覗く。フランは桶を差し出した。
「......俺は、遠慮しとく。女の子だろ」
熱めのお湯に手拭いを浸す。固く絞り、海水のべたつきと砂を丁寧に落としていく。
乾き始めた肌には薄く塩が浮かんでいた。手拭いを滑らせるたび、ざらりとした感触が指先に伝わる。
何度か湯を変え、最後に顔周りを拭く。
先ほどと比べ、少女の顔には少しだけ血色が戻ってきたように見えた。
そのまま、髪にも手をやった。少女の長い髪には処々、藻屑も絡まっていた。手拭いだけではどうすることもできず、指で梳くように取り除こうとした。
そのときだった。
少女の睫毛が、わずかに震えた。
それから、瞼がゆっくりと持ち上がる。
現れた琥珀色の瞳が、クリエを映し出した。
*
クリエは手近の毛布を少女にかけると、カーテンを勢いよく開けた。
「おおっ、どうした!?」
少女を指すと、フランが少女の側へ歩み寄る。
「目、覚ましたのか。わかるか?」
フランの問いかけに、少女はゆっくりと顔を向けた。
しかし、答えは返ってこなかった。
フランは、いくつかの言語で簡単な言葉を投げかけた。けれど、少女はそれ以上の反応を見せず、ただじっとフランを見つめ返すだけだった。
クリエとフランが顔を見合わせていると、処置室の扉が開いた。
「いやぁ、ごめんね!待たせたね」
入ってきたのはジュリアの父だった。額にはうっすら汗がにじみ、ずれた眼鏡を指先で押し上げていた。
その後ろから、洗濯を終えたジュリアも顔をのぞかせる。
「ありがとう。君たちが運んでくれたんだね」
そう言ってベッドへ歩み寄ると、少女の顔を見て目を丸くした。
「ああ、目を覚ましたんだ。よかった」
ジュリアの父は少女の瞼にそっと触れ、呼吸や瞳の様子を確かめる。そしてジュリアへ短く指示を出すと、クリエたちに向き直った。
「ここからは私が預かるよ。それと――」
ジュリアの父は机の引き出しから薄い紙束とペンを取り出した。
「どちらか、書類をお願いできるかな?」
クリエはそれを受け取り、フランとともに処置室を後にした。
廊下に出ると、クリエは手帳をポケットから取り出した。そして、手早く書きつけフランに見せる。
『私が書く』
「けど――」
フランが言いかけたところで、クリエは次のページをめくった。
『店、あるでしょ。行って』
少し大きめの強い筆圧で書かいた文字を見て、フランは小さく息を吐く。
「......お言葉に甘えさせてもらうわ。何かあったら、声かけろよ」
フランを見送ると、クリエは廊下の長椅子に腰掛けた。手元の書類に目を落とす。
『漂流者発見報告書(第一発見者用)』
いつ、どこで、誰が。
対象はどのような様子だったか。
書類の指示に従い、浜辺から今までの事を書き記していった。
*
一通り書き終え、クリエはペンを置いた。
処置室からは時折、ジュリアたちの話し声が聞こえてくる。
廊下を行き交う足音。
治療機の駆動音。
待合で交わされる声。
聞き慣れた診療所の音が流れていた。
その音に耳を傾けながら、記入漏れがないか確認をしていた。
そのときだった。
――悲鳴。
続けざまに、何かが倒れる大きな音がした。 クリエは立ち上がり、処置室の扉に手をかけた。
ドアノブを掴み、引き開けた、その瞬間――
潮の香りを纏った亜麻色の髪が、宙に舞った。
その動きだけが、不自然なほどゆっくりと見える。
飛び出してきた少女はクリエの胸にぶつかり、そのまま床へ倒れた。クリエは一歩よろめいたが、踏みとどまる。
「パパっ!」
ジュリアの声に顔を上げる。処置室には、床に尻もちをついたジュリアの父がいた。
足元には、注射器と眼鏡が転がっていた。
片方のレンズには細いひびが入り、歪んだ光を鈍く返している。
ジュリアの父が、眼鏡に手を伸ばす。
床から持ち上げられた眼鏡が、ジュリアの父の鼻頭にかけられる。
その動きを、少女の視線が追い続けていた。
「大丈夫だよ。びっくりさせちゃったね」
ジュリアの父が、少女へ顔を向ける。
その瞬間、少女の肩がびくりと震えた。
ジュリアの父が立ち上がろうと、膝に手を置いた。
すると少女は弾かれたように立ち上がり、そのまま廊下へ駆け出した。
「あ、待って! ......うわっ」
ジュリアの父は慌てて追おうとしたが、床に転がっていた注射器を踏みかけて、派手に転んだ。
「......っ、ごめん、クリエ! あの子、お願い!」
ジュリアの声にクリエは頷くと、そのまま診療所を飛び出した。
日はすっかり高く昇り、石畳は白く照り返していた。今朝登ってきた坂道を、小さな影が駆け下りていく。
クリエは、その背を追った。