1-1 流れ着いたもの
◇
目を覚ましたとき、空はまだ夜の名残を引きずっていた。
窓の外は青とも、黒ともつかない色で、クリエはしばらくそれを眺めていた。
やがて、枕元に置いた手帳に視線を移した。
――行かなければ。
身を起こし、冷たい床に足をつける。机の上には工具と資料の束。紙には、昨夜書き込んだ文字が並んでいた。
クリエはそれらに一瞬だけ目をやり、掛けておいたシャツに袖を通す。
コンコン、と扉が鳴り、ボタンをかけていた手を止めた。
「――起きているかい?」
扉越しから、エドニールの声がする。クリエは軽く扉を叩き返した。
「......それはなによりだ」
扉の向こうで、小さく息を吐く気配がした。
「僕は、これから少し眠るよ」
その声には少し、疲れが滲んでいた。もう一度扉を叩くと、足音は静かに遠ざかっていった。
クリエは残りのボタンを掛け、留め具で紐ネクタイを締めた。
それから、手帳と鉛筆をポケットに入れると、部屋を後にした。
*
高台の居住区から、緩やかな坂を下っていく。
街路灯が灯ったまま、薄暗い坂道に沿って、光の点をつないでいた。
石畳の道は静まり返り、聞こえてくるのは自分の足音と、遠くの波の音だけだった。
足を止めることなく坂を降りていくと、次第に潮の香りが濃くなっていく。
やがて、海岸沿いに、目的の小さな喫茶店が見えてきた。
営業時間外を知らせる札が海風で揺れている。
扉を開けると、カラン、と乾いた音が店内に落ちた。
一歩踏み入れると、外よりもわずかに温もりの残る空気が頬に触れ、小麦の焼ける香りがふわりと鼻をくすぐった。
「すまん、少し待っててくれ!」
奥の厨房から声が飛んだ。水の流れる音と食器の触れ合う、小さな響きが続く。
やがてそれらが止むと、フランが姿を見せた。
「悪い、待たせた」
クリエは小さく首を横に振る。フランはエプロンを壁にかけると、道具とバケツを手に取り、そして腕章をつけた。
「行くか」
クリエは頷き、フランの後に続いた。
*
店前の道を渡り、海岸へ続く階段を降りる。遠浅の浜には、今朝も漂流物が散らばっていた。
クリエは手帳を取り出し、鉛筆を走らせた。それから前を歩くフランの肩を軽くつつく。
「どうした?」
『いつも ありがとう』
「ああ、気にすんな。俺は早く終わらせて店に戻れりゃいいだけだ」
フランは肩をすくめるようにし、軽い口調で返した。クリエは手帳を仕舞うと、再び浜に視線を戻した。
砂浜に降りると、各々散って漂流物を拾い始めた。
木片、錆びた金具、プラスチック片。
私的利用が許されている規定外の小さな漂流物をバケツに入れていく。
砂の上に、きらりとしたものが見えた。
クリエは、足先で砂を掘り起こした。割れた瓶の底だった。
息を吹きかけて砂を払い、朝日にかざす。
淡い緑色の硝子の向こうに、気泡と薄れた刻印が浮かんだ。
この記号と数字を見れば、どの国で作られたものか分かるのだと、エドニールから教わった。
もっとも、それが分かったところで、この硝子の価値が変わるわけではない。
それでも、瓶底を見つける度にそうしてしまうのは、彼の真似をしているうちに、いつの間にかそれが癖になっていたからだ。
だから今日も、覗き込んだ。
けれど、覗いた先の景色はいつもと違った。
硝子の向こうの歪んだ景色。そこに広がる波際に、大きな固まりが横たわっている。流木に見えた。だが、違う。
――人が、倒れている。
駆け寄ってみると、倒れていたのはまだあどけなさの残る少女だった。
白い肌が朝日を淡く弾き、その上を伝うように、亜麻色の長い髪が張り付いている。
クリエは少し離れたところにいるフランへ向け、大きく腕を振った。こちらの様子に気がついたフランが顔を上げるのを確認すると、クリエは少女の両脇に腕を入れた。
身体は重く、冷たかった。
引きずるようにして波の届かないところまで運び、息をつく。
「大丈夫か?」
フランが駆けつけた。
そして、そのまま少女の側に膝をつくと、口元に頬を近づける。
「......運ぶぞ。診療所だ」
準備をしてくると言い残し、フランは店の方へ戻っていく。
クリエはその後ろ姿を見届け、少女に視線を戻した。ふと、その右手に目が止まる。
小指の第二関節から先がない。
血抜きされた魚の尾のように、すっぱりと途切れていた。