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居住区の坂を抜けると、マルシェが広がる。天幕が揺れ、影が絶えず動いていた。
食べ物と潮の匂いが混ざるその雑踏の中を、クリエは少女の背を追って走った。
「おい、危ない!」
「ここは遊び場じゃないぞ!」
周りから声が飛んだ。
少女が人にぶつかり、誰かがよろめく。クリエはそのたびに頭を下げながら、人の間を縫うように早足で進んだ。
「ちょっと! 何するの!」
少し先を行く少女が果実の入った箱にぶつかった。その衝撃で、ひとつが外へ弾け出る。
踏まれそうになったそれを、クリエは反射的に拾い上げた。
そのまま勢い余って前へ出ると、屋台の列が途切れた。
天幕が消え、足元の石畳の色が変わる。
踏み込んだ先は、区域同士を繋ぐ広場だった。広場の向こうには、トタンでできた低い壁が並んでいる。
工業区域が迫っていた。
その解放された門に、少女は足を止めることなく、駆け込んでいく。
クリエは追ってきた店員の手に果物を押し込み、短く頭を下げた。それから、少女の背を追って門をくぐった。
*
壁の中は背の低い建物が影を落としていた。低い機械音。金属同士が擦れる音。遠くで何かを叩くような音。
いくつもの音が重なり、足元から響いてくる。
クリエは一瞬だけ少女を追う足を緩めた。
少女が進む先に、何かが横切っていた。
幾重にも延びた線路を、運搬用のトロッコが走っていた。
少女は、その間を縫うように進んでいく。複数の線路が左右から伸び、交差し、建物の奥へ消えている。
少女に気づいた作業員が叫んだ。
「おい! 止まれ!」
「停止ボタンを押せ――!」
周囲から声が上がった。鉄の塊が、唸りを上げて少女へ迫っていた。
「もうひとりいるぞ!」
「止まれ! 止まれ!!」
クリエと少女の距離は、あと数歩だった。
だが、手は届かない。
ならば、少女の身体へぶつかり、そのまま線路の外へ弾き出すしかない。
そう決めて、少女が線路に脚をかけた瞬間、クリエは強く踏み込んだ。
次の瞬間――
横から伸びた手が少女の腕を掴み、強く引いた。同時に、もう一方の手がクリエの肩を押し返す。
直後、トロッコが甲高いブレーキ音を上げて目の前を駆け抜けた。吹き抜けた風が、クリエの髪を揺らす。トロッコは大きな軋み音を残し、止まった。
少女の腕を掴んでいた手が、ゆっくりと離れる。
クリエは、自分たちを引き止めた人物を見上げた。
エドニールだった。
「何を考えているんだ! ここは立ち入り禁止だろうが!!」
作業員のひとりが怒鳴りながら近づいてくる。
クリエが手帳を取り出そうとすると、エドニールが軽く制した。
「申し訳ない。この子たちは僕に用があったようでね。迷い込んでしまったそうだ」
「エドニールさんの知り合いか? 困るよ。規則は守ってもらわないと」
周囲では作業員たちがトロッコへ駆け寄り、停止した機械の様子を確かめていた。誰かが大声で指示を出し、別の場所からも遅れて人が集まってくる。
「しばらく、ここで待っていてくれるかい」
エドニールはそう言うと、注意をしてきた作業員と共に歩いていった。
クリエは少女の手を取ると、邪魔にならない壁際へ移動した。
エドニールが集まってきた作業員たちの中へ入っていく。何を話しているのか、ここからでは聞き取れない。
ときおり機械を指差し、線路へしゃがみ込んでは何かを確かめている。作業員と短く言葉を交わすたび、周囲の人間が動き始めた。
やがて、何人かがトロッコを離れ、別の作業員が猫車を運んできた。
少女はクリエの隣に座り、その様子をただぼんやりと眺めていた。
しばらくして、エドニールが戻ってきた。
「まだ少しかかりそうだから、一旦、君たちを送るよ」
クリエは手帳を開き、エドニールに見せた。
『ごめんなさい。騒がせてしまいました』
「大したことじゃない。無事でよかった」
エドニールは油で汚れた手袋を外しながら、少女を一瞥した。
「場所を移そうか」
エドニールを先頭に、クリエたちは人混みを避けて裏道へ入る。少女はクリエに手を引かれるまま、黙って後に続いた。
しばらく歩いたあと、エドニールが静かに口を開く。
「漂流者だね。協会から連絡は受けてる。診察中に逃げ出したって」
クリエは頷いた。
「ひとまず、診療所にもどろう」
工業区域を抜け、診療所へ続く坂道へ差しかかった、そのとき、少女の足取りがふらつく。力が抜けるように、膝が落ちた。
「背負うから、手伝ってくれるかい」
エドニールが少女のそばへしゃがみ込み、背を向ける。クリエが少女を支えると、彼女は抵抗することなく、その体を預けた。
*
診療所へ戻ると、ジュリアの父が待っていた。クリエたちの姿を認めるなり、安堵した表情を向けた。
「無事でよかったよ」
エドニールの背から降ろされた少女は、再びベッドへ寝かされた。ジュリアの父は少女に抑制帯を巻くと、手早く診察を進めていく。
その間、少女は抵抗することはなかった。背負われている頃から重たそうに揺れていた瞼は、今にも閉じてしまいそうだった。
「うん、大丈夫」
ジュリアの父は小さく呟き、抑制帯を外す。
クリエは道中で起きた出来事を書き記した手帳をジュリアの父に渡した。
ジュリアの父は壊れた眼鏡を掛け直し、ひびの入ったレンズ越しにその文字を追う。
「......ほんとに無事でよかった」
そう言って眼鏡を外し、机の端へ置く。顔を覆うように額へ手を当て、大きく息を吐いた。
「でも、騒ぎになったとなると......もう、知れ渡っていますよね」
探るようにエドニールへ視線を向ける。
「僕の方でも、できる限り対応しておきます」
「助かります。すみません......」
ジュリアの父は頭を下げると、ふと、少女へ目を向けた。
「ごめん。クリエちゃん。あの子の服、替えてもらってもいい?」
病衣を受け取り、クリエはカーテンを閉じた。少しだけ薄暗くなった空間で、身振りで着替えることを伝える。
少女をベッドに腰掛けるように誘導し、工場の油で汚れた服を脱がせ、新しい病衣へ袖を通させた。
衣擦れの音だけが静かに響いていた。
カーテンの向こうでは、大人たちの低い話し声がかすかに聞こえている。
折れ曲がった袖を整えようとしたとき、少女の体からふっと力が抜けた。
クリエは、肩にもたれるように倒れ込んだ少女をささえる。耳元で静かな寝息が聞こえてきた。
クリエは少女を、そっとベッドに横たわらせ、投げ出された足を持ち上げる。すると、カチン、と小さな音がした。
床に、透明な硝子片が落ちていた。親指の先くらいの大きさだった。
尖った部分に赤い色がうすくこびり付いていた。
クリエは少女の足裏を確認した。土の汚れに混じって、わずかに血が滲んでいた。
濡らしたタオルで、そっと拭う。土も血も、すぐに落ちた。
けれど、傷はどこにも見当たらない。
クリエは少女の足裏を指先でゆっくりとなぞる。なめらかな感触だけが指先に残った。
もっとよく確かめようと、処置灯へ手を伸ばした、そのとき。
「ダメ! どこにもいなかった!」
息を切らしたジュリアの声が、カーテンの向こうから響く。
「あ、二人ならもう戻ってきてるよ」
「え?」
穏やかに答えるジュリアの父の言葉に、ジュリアの呆けた声が聞こえる。
慌ただしい足音が近づき、勢いよくカーテンが開いた。