2-1 なれるもの
◇
午後の鐘が鳴る少し前、クリエは広場へ着いた。辺りを見渡したが、まだジュリアたちは来ていないようだった。
少女が島へ流れ着いてから、数週間。
少女は今、ジュリアたちのもとで保護されている。
当初はほとんど反応を示さなかった少女も、指差しや簡単な合図には応じるようになっていた。
診療所へ様子を見に行くたび、仕草や表情にも少しずつ変化が見られるようになった。
日常の生活にもある程度慣れてきたことから、今日は少しだけ診療所を離れた場所へ連れて行くことになった。
日差しに髪がじんわりと熱を帯びるのを感じ、クリエは建物の庇の影へ身を寄せた。
区域同士をつなぐ広場は、休日になると人々の憩いの場へと姿を変える。
半裸で寝転び、日差しを浴びる人。椅子を並べ、談笑に花を咲かせる人。その間を駆け回る子どもたちの姿もあった。
クリエがぼんやりとその光景を眺めていると、商業区域へ続く道から、見慣れた青いワンピースが現れた。
手を挙げると、ジュリアもこちらに気づき、振り返すように手を振った。
その後ろには、小さな影がぴたりと寄り添っていた。少女はジュリアの腕にしがみつくように歩きながら、忙しなく辺りを見渡している。
「ごめん、待たせちゃって」
クリエは小さく首を振った。
ジュリアの後ろへ身を寄せた少女が、影からそっとクリエの様子をうかがっている。
「ほら、あいさつできる?」
背中を軽く押されると、少女はおずおずと前へ出て、小さく頭を下げた。
クリエも腰をかがめ、同じように会釈を返す。それから、そっと少女の頭を撫でた。
少女は少し照れくさそうに視線を伏せた。
「それにしても暑いわね。夏服でも良かったかも」
ジュリアはハンカチを取り出し、少女の鼻先に浮かんだ汗を軽く拭った。
少女が身にまとっているのは、白い長袖のワンピースだった。
『おさがりだね』
「あら、よく覚えてるわね」
クリエが手帳に書いた文字を見て、ジュリアは微笑んだ。
「寄付も考えたんだけど......お気に入りだったから」
そう言って少女の襟元を整える。そこには、小さな青い花の刺繍が丁寧に縫い込まれていた。
クリエの視線に気づいたのか、少女は襟をつまみ、目を伏せた。
カーン、カーンと午後を告げる鐘が広場に響いた。集まっていた人々も、少しずつ動き始める。
「それじゃあ、行きましょうか」
少女は一度だけ広場を振り返ると、再びジュリアの手を握り、歩き出した。
*
市街地の外れへ進むにつれ、通りは少しずつ静かになっていった。
薄く赤みがかった石造りの建物が狭い路地に並び、窓辺には植木鉢が飾られている。手入れの行き届いた花々は、日差しを受けて鮮やかに咲いていた。
少女は流れていく景色を目で追いながら、きょろきょろと辺りを見渡している。
「この辺りに来るのは初めてなの。買い物ついでに近所や商業区域へ行くことはよくあるんだけど」
ジュリアは少女の様子を眺めながら、小さく笑った。
「......まあ、逃げ出したときは別だけどね」
苦笑混じりに、そう付け加える。
目に映るものすべてが新しいのだろうか。少女の表情には、先ほどまでの緊張よりも好奇心の方が強く表れていた。
少女が何かを指差すたび、ジュリアがそれに答える。そんなやり取りを重ねながら歩いていると、やがて丸い屋根の建物が見えてきた。
門の前では、一人の奉仕者が箒を動かしていた。クリエたちに気づくと、手を止めて穏やかに笑った。
「やあ、ジュリアちゃん。クリエちゃんも久しぶりだね」
「こんにちは、ディキさん」
「その子が前に話してくれた、例の子?」
ジュリアが頷く。
ディキは少女の前にしゃがみ込み、目線を合わせた。
「僕はディキ。この島の奉仕者だよ。これから末永く、よろしくね」
そう言って、右手を差し出す。
少女は差し出された手とディキの顔を交互に見つめていた。その様子に気づいたディキは微笑み、少女の手を優しく包んだ。
「こうやって、手を握るんだ」
そうして、そっと上下に揺らす。
「あいさつ」
少女は握られた自分の手をじっと見つめていた。
二人のやり取りを見守っていたジュリアが、思い出したように鞄の中を探り、袋を取り出した。
「パパからです。追加の軟膏と消毒液」
「助かるよ、ありがとう。元気な子が多くてね」
「あと、夏風邪が流行ってきてるから気をつけてと言ってました」
「もうそんな時期か。去年は大変だったから......」
ディキは袋を受け取ると、大事そうに抱えた。
「ところで、今日はどうしたの?」
「この子を少し外に慣れさせようと思って。教会の中を見せてもらっても大丈夫ですか?」
「もちろん。ちょっと待ってて」
そう言って、ディキは一度門の中へ入っていった。
しばらくして戻ってくると、二人に向かって口を開いた。
「これからリール教の礼拝の時間だから、参加していくかい? 終わった後、お茶菓子も出るよ」
ディキに案内された礼拝堂では、白い衣装をまとった初老の男性が教壇の前に立っていた。
卓上には、通り沿いにも植えられていた花が生けられている。窓から差し込む光も相まって、その光景はどこか絵画のような美しさを帯びていた。
クリエたちが一番後ろの席に腰掛けたのを見届けると、ディキは軽く手を振り、礼拝堂を出ていった。
しばらくして、聖典の朗読が始まった。
噛み砕いていえば、他者を重んじることについて説く、ごくありふれた話だった。
けれど、低く、独特な抑揚を帯びた語り口が、そのありふれた話をどこか特別なものに変えているのかもしれない。
そんなことを考えていると、視界の端で何かが揺れた。
少女が椅子の上で足をぶらつかせ、窓の外へ目を向けていた。
丸くくり抜かれた窓の向こうには、小さな中庭が見える。
中央にある井戸では、何人かの信徒が水を汲んでいた。
少女はその姿をじっと眺めている。
やがて信徒たちがいなくなると、少女は視線を礼拝堂へ戻した。
導師の声だけが、静かな礼拝堂に残っていた。
そういえば。
この少女の声は、どんな声なのだろう。
高いのか、低いのか。
それとも、自分と同じように――。
そこまで考えて、クリエは視線を少女から導師へ戻した。
導師の話が終わるまで、視界の端では少女の足がぶらぶらと揺れ続けていた。