第一話 二宮余次就辰の受難
永禄八年、二月。
「二宮余次、ただいま馳せ参じましてございます」
暖かい日差しの元、吉田郡山城の日当たりの良い縁に座る老齢の男に、若いその男は、深々と頭を下げる。
「虎法丸......いや、就辰、か」
よう、参られた......と、背を丸めたまま、振り返った老人は、目を細めて微笑む。
膝の上には何処から連れ込んだのか、見慣れない黒い猫を抱えていた。
「ふむ、お前の頭に冠を乗せたのが、昨日のことのようじゃの」
「御戯れを......もう、三年も前のことでございまする」
赤面を隠すように伏す就辰に、老人は、可笑しそうに笑った。
穏やかで人のよさそうなその老人が、就辰の主であり、後年、『謀神』と称される、毛利元就その人である。
「すまんの。唐突に呼びつけて」
「いえ。構いません」
就辰は首を横に振り、「直々に」といって呼びつけた、主の言葉を待つ。
国を譲ったはずの嫡男隆元が亡くなってから、早二年。
つい先日、その隆元の息子であり、元就の孫にあたる幸鶴丸が元服。毛利家として時の将軍足利義輝から初めて偏諱を受けることとなり、幸鶴丸は以後輝元と名乗る。
その吉日の勢いで、主だった家臣の面々は尼子攻めのため、北の月山富田城へ向かっていった。
元就自身も、すぐに向かうと聞いていたのだが──。
「我らが尼子攻めに向かっている間、お前には、ある役目についてもらいたい」
「お役目......で、ございますか!」
パッと、就辰の表情が明るくなった。
「若輩ながら二宮余次就辰! 全力でお役目、全ういたします!」
「これこれ、元気と勢いが良いことは大変良いが、どのような役目か聞いて、内容をきちんと把握、確認してから、答えぬか......」
先走り過ぎて、先ほど以上に赤面して突っ伏した就辰を、「まったく、誰に似たのやら......」と、可笑しそうに元就は笑った。
「実は......の......?」
◆◇◆
上座に静かに座った女性に、就辰は平伏する。
「二宮余次にございます」
「ようこそいらっしゃいました。余次様」
面をどうぞ、お上げになって。と、おっとりとした口調で女性は答えた。
『乃美の大方』と呼ばれるその女性は、元就の正妻妙玖の死後に嫁いだ、元就の三人の側室の一人である。
口調通り──おっとりとした、朗らかで穏やかな女性だ。
七十が近い元就とは、親子以上に年齢が離れ、三十をいくつか過ぎた程であると、就辰は聞いていた。
「今回の件、御屋形様から、どのくらいお聞きしましたか?」
「いえ。それが、ほとんど......詳しくは、大方様から、きいてくれ、と......」
まぁ......と、乃美の大方は、細い目を見開いた。
「まぁ......ほんとうに、しょうがない人」
乃美の大方は、呆れながらも、クスクスと笑う。
わかりました。と、居住まいを正し、乃美の大方は、改めて口を開いた。
「余次様。貴方へのお願いというのは、ほかでもありません。私の息子、宮寿丸の事でございます」
元就には、亡くなった正室、妙玖との間に、後世に名を残す有名な三人の息子と、溺愛する一人の娘がいる。
二年前に亡くなった長男、毛利隆元。
吉川家に養子に入った、武勇轟く次男、吉川元春。
小早川家へ養子に入った、父譲りの知将、三男の小早川隆景。
そして、元就最愛の娘であり、かつては敵対していたものの、元就の家臣となった宍戸隆家の元に嫁いだ、五竜局。
しかし、それ以外にも、元就には子が何人かいるのだ。
前述の通り、元就は大変な愛妻家であった。
政略的に結婚した吉川氏の娘、妙玖が死ぬまで、彼は側室を一人も持たなかった。
妙玖を失った元就のあまりの嘆き様を、三人の息子が揃って心配し、それぞれが一人ずつ父に薦めた。
小幡元重の姉『中の丸』、三吉隆亮の妹『三吉氏』、そして乃美の大方の三人である。
乃美の大方は、元就の三男、隆景が養子に入った小早川家の庶流にあたる茶臼山城主乃美隆興の娘で、嫁いで間もなく懐妊し、生まれたのが、元就の四男、宮寿丸である。
就辰の記憶が正しければ、宮寿丸は今年、十六。
そろそろ、元服の話がちらほら出てきてもおかしくない頃合い──であるはずなのだが。
「実は、宮寿丸は此処にはいないのです」
なるほど。どおりで姿を一度も見たことが無いわけだ。と、就辰は納得した。
次男の元春しかり、三男の隆景しかり。
元就は昔から、子が生まれると他家に養子に出し、成長したその息子を当主とした家を丸ごと、毛利家の家臣として、取り込んでしまう策をよく使っていた。
しかし、乃美の大方の言葉に、就辰は思わず言葉を失う。
「四郎は、その......御屋形様と折り合いが悪く、八年前から私の父と、隆景殿に預けているのですが、連絡が取れないのでございます」
「は......?」
ぎょっとした就辰の顔に、慌てたように乃美の大方は首を振った。
「あ、ごめんなさい。ちょっと語弊がありました。......父からも、隆景殿からも、まめにお手紙はいただいております」
ですが──と、乃美の大方は表情を曇らせた。
「返事は常に「息災である」と。本当に息災であるのならよいのですが、先日、椙杜家の吉満丸殿......えっと、四郎とは半年離れた異母弟に、元服の話があがりまして......その話のついでというわけではないのですが、四郎の元服もそろそろ......といった話を、父に非公式に伝えた途端、連絡がぱったりと......」
もちろん、尼子攻めの件については知っているので、父と隆景、二人そろって四郎どころではなく、そのせいで連絡が無い。ということも、考慮はしているのですけれど。と、乃美の大方は肩を落とす。
「母として心配である。という事を御屋形様に相談したところ、御屋形様が、丁度良い適役がおるぞと仰せになり......」
自分が適役かどうかは正直言って不明なのだが、渋い顔を就辰は浮かべた。
「お願いします。余次様。父や隆景殿が留守の間に、四郎の様子を、見てきてくれませんでしょうか?」
とりあえず、乃美の大方が、どこまで知っているかは不明だが、妙な役回りを毛利元就は就辰に押し付けてくれたな。と、思う心の苦虫を噛み潰して呑み込み、にっこりと笑い、頭を下げる。
「わかりました。どうぞ、この余次に、お任せくださいませ」