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第5話 春の訪れと共に



 ――この屋敷にもう私の味方は誰一人いない。


 ――母様が亡くなってからはただひたすら周囲からの理不尽に耐え、生き残る事だけを考える日々。


 ――けれどあの日、私は知ってしまった。


 ――この場所で私が幸せになれる事は未来永劫ないのだと。


―――――――――――――――――――――――――――


「何を呆けている?」

 馬車の荷台の外を眺めながら物思いに耽っていると、不意に声を掛けられた。
 振り向けば、そこにはユウがいた。

「......少し、考え事をしていました」

「そんなに暇なら、少し付き合え」

 ユウがこちらに手を差し出す。
 私はその手を取った。
 けれど連れて行かれたのは馬車の荷台から少し離れた、人目につかない場所だった。
 ユウは周囲を確認すると、私の前に立つ。

「腹が減った」

 その声音を聞いた瞬間身体が強張った。

「......血が欲しい」

 そして両腕で身柄を捕らえられる。

「ユウ......」

 名前を呼び終えるより早く、首筋に牙が突き立った。

「......っ」

 鋭い痛みが走る。
 けれど私は抵抗せずそれを受け入れる。

 あの日私はユウと盟約を結んだ。
 私がユウの秘密を誰にも話さない代わりに、ユウは私を殺さない。
 その代償として、私はユウの命令に逆らえなくなった。

『だからこれからよろしく頼むよ、涼香』

 そして盟約を結んだ夜、私達は逃げるようにマージナを離れた。
 昼間は人目を避けるように馬車の中で過ごし、夜になると人目のつかない場所で血を吸われる。
 それが何日も続いた。
 幸いなことにまだ食い殺されてはいない。
 単にユウが私に温情を持っているのか。
 それとも別の理由があるのか。

 ただ一つ分かるのは、私はもう自分の意思だけではどこへも行けないということだった。
 自由を求め実家を出たはずなのに。

(皮肉な話だ)

 だってそれはあれほど欲しかった自由を、自ら手放したようなものなのだから。
 やがてユウは私の首筋から牙を引き抜いた。

「......っ」

 そして首筋に残った傷にユウの湿った舌が触れる。

「あのっ......それ、止めて欲しいのですが......」

「傷口を塞いでいるだけだ」

 ユウは傷口を見下ろす。

「少しの間だけ我慢してくれ」

「......っ」

 私はそれ以上何も言えなかった。
 やがて傷口が塞がったのを確認すると、ユウはようやく顔を上げた。

「終わったぞ。明日も移動がある、早く寝ろ」

 そう言い残し、ユウは何事もなかったかのように馬車へ戻っていく。

「......はぁ」

 気づけば、溜息が漏れていた。
 私はそっと首筋に手を当てる。
 まだ肌を貫く牙の感触が残っている。

(......一体、どうすれば私はユウから解放されるのだろう)

 答えは分かっている。
 そんな方法など、今の私には存在しない。
 だから私は、その叶うことのない願いを胸の奥へ押し込み、静かに目を閉じた。





 その日の夜、私はなかなか寝付けないでいた。
 ふと気がつくと、馬車の中にユウの姿がない。

「......ユウ?」

 すると外から慌てふためくが聞こえた。
 私は様子を見るべく馬車を降りる。

「おい! 止めろ! こっちに来るな!」

 御者の叫び声が響いた。
 そして目線の先には巨大な魔獣がいた。
 見覚えがある。
 去年、マージナへの道を塞いでいた魔物。

「......デンジャラスベア」

 懐かしさすら覚えた。
 御者は必死に馬車を守ろうと魔獣を松明で威嚇している。

「下がっていてください」

「ちょっと! 君、何を――」

「私なら倒せます。ですが――」

 私は口に人差し指を当てた。

「今から目にする事は誰にも話さないでくださいね」

 そう言うと私は魔獣の方へ静かに近付く。
 そして魔獣の姿を見てふと思う。

(何故この魔獣はここまで来たのだろう?)

 腹でも空かせているのか?

 ......それとも。

「家族と離れてしまったのか?」

 魔獣が唸る。
 次の瞬間、巨大な身体がこちらへ飛び込んできた。

「――っ!」

 私は紙一重で身を躱す。
 鋭い爪が深く地面を抉る。
 その瞬間、魔獣の視線の先に気が付く。

「......荷物か」

 馬車に積まれた荷物。
 その匂いに引き寄せられたのだ。

(それなら――)

 私は右手を魔獣へ向けた。
 すると周囲を漂う冷気が一点へ集まっていく。
 そして細かな氷の粒はやがて一本の氷柱となり、魔獣の胸部を貫いた。

「グオオオオオ」

 巨大な身体が硬直する。
 次いで、ゆっくりと地面へ倒れた。

「......終わりました」

 御者は呆然と私を見ていた。

「き、君......まさか魔法使いなのか?」

「......まあそんなところです」

 正体を知られてはいけない為、私は御者に話を合わせた。
 すると御者は何度も頭を下げる。

「助かった! 本当にありがとう!」

「......」

 胸の奥が、妙にくすぐったかった。
 感謝なんてされたのは、初めてだった。

「......悪くないな」

 小さく呟く。
 誰かの役に立つというのは。
 こんな気分になるものなのか。

「恐らくまだ油断はできないと思います。ここは私が見張っておきますので貴方は休んでください」

「いや、しかし見張りなら――」

「明日も朝から移動でしょう?」

「それはそうだが......」

「なら遠慮はしないでください。こう言う時他人の好意は素直に受け取っておくべきです」

「そこまで言うなら......」

 そう言って私は御者と見張りを入れ替わった。
 その様子を少し離れた場所からユウに見られている事にも気が付かず。



***


 そして馬車に揺られること数日、突然ユウから馬車を降りる様に言われる。

「着いたぞ」

 どうやら目的の場所へと到着した様だった。
 ユウに言われるまま馬車の荷台から降りると、目の前には大きな屋敷があった。

「此処は......」

 そう聞くとユウは口を開いた。

「俺の屋敷だ」

 目の前の大きな扉が開く。
 そして中から薄緑色の髪をした糸目の男が姿を現した。
 片眼鏡をかけ、綺麗な姿勢でこちらに頭を下げている。

「おかえりなさいませ旦那様、久しぶりのご帰宅ですね」

「只今モーエヴィン、留守の間の屋敷の管理ご苦労だった」

 モーエヴィンと呼ばれたその男は満面の笑みを浮かべユウに首を垂れている。

「恐縮です、私わたくしの様な下僕はただ旦那様の生活のお役に立てるだけで光栄ですから」

(大きな屋敷に使用人......ユウは一体何者なのだろうか?)

 終始黙って二人のやり取りを見ていると私に気付いたのかモーエヴィンが私に声をかけてきた。

「おや、そちらはお客様ですか?」

「いや、客人では無い」

 するとユウは私の背中をトンと押した。

「今日からここに置くことにした。なので涼香に先輩として・・・・・屋敷のことを教えてやってくれ」

 するとユウの言っている事を理解したのかモーエヴィンは再び首を垂れた。

「......御意」

「教育......何のですか?」

 私がユウに尋ねるとそれを聞いていたモーエヴィンが口を開いた。

「では涼香様、これからは私わたくしの後輩・・としてよろしくお願い致します」

「......よろしくお願いします」

 そして私は戸惑いながら頭を下げた。


***


「涼香は飲み込みが早いですね」

 モーエヴィンは感心したように言った。

「これならある程度の仕事を任せても問題ありませんね。優秀な後輩ができて嬉しい限りです」

「......後輩」

 その言葉が、妙に耳に残った。

 私に与えられた仕事は二つ。
 一つは屋敷の管理、ユウの身の回りの世話だった。
 掃除に洗濯に料理、そして屋敷に必要な雑用。
 時には飛び込みの仕事もこなす為、日々仕事をこなすのに必死だった。
 けれど、不思議と嫌ではなかった。

「ではそろそろ旦那様の食事の準備に取りかかりましょうか」

 この時、私の勘が危険を察知する。

「今日は私わたくしがメインを担当致しますのでサイドは涼香に任せます」

「......いえ食事は全て・・私が作りますのでモーエヴィンは他の片付いていない仕事を進めて頂けますか?」

 私がそう返すとモーエヴィンは顎に手を当て私を見下ろした。

「ほぅ......涼香も少しは言う様になりましたね、流石私わたくしの育てた優秀な後輩です」

 そう言うモーエヴィンに私は乾いた笑いをあげるしか無かった。

「ハハハ......」

 モーエヴィンと働いているうちに分かったことがある。
 それはモーエヴィンが絶望的な味覚音痴なうえに化物胃袋の持ち主という事だった。

 私は初日にモーエヴィンから振舞われた賄いを食し人生で初めて走馬灯を見た。
 あの時、咄嗟に吐き出していなければとっくにこの世から消えていたと本気で思う。

『あの、この料理何が入っているんですか......オエッ』

『そのスープとても美味しいでしょう? 実は――』

 するとモーエヴィンの口からは料理に使うなど言語道断と言われる有毒な植物や魔物の名がポンポンと出てきたのだ。

『そんなものユウ......旦那様に出して大丈夫なんですか?』

 そう尋ねるとモーエヴィンは悔しそうにハンカチを噛みながら答えてくれた。

『それが旦那様は偏食の様で、私わたくしの用意した食事は一切口にしてくれないのです! あんなにも刺激的で美味しいのに!』

 その時、私は呆れを通り越して恐怖心を覚えた。

(こんな身近に無自覚兵器が居るだなんて、ユウもなかなかの苦労人だな......)

 その日以降、私はモーエヴィンを厨房の仕事から遠ざける様に徹底していた。
 その甲斐もあってか、最近のユウは少しずつだが屋敷で食事をとってくれる様になってくれたのだった。





 その日の夕食後、私はユウの自室に呼び出された。
 片付けをモーエヴィンに任せ、私はユウの自室に向かう。

「スゥ......ハァ......」

 ユウの自室の前に立つと落ち着く為に深呼吸をする。
 そして私は部屋の扉をノックした。

「旦那様、涼香です」

「入れ」

 扉の向こうから聞こえた合図。
 私はドアノブに手をかけ扉を開いた。

「失礼致します」

 部屋に入ると執務用の机に腰掛け、月明かりに照らされるユウの姿があった。

「こっちに寄れ」

 そしてこちらへ来いと角張った手が招く。
 獲物を狙う猛禽類のような目はじっと私を見据えていた。
 私は覚悟を決め恐る恐るユウの方へ近づく。

「首元を開けろ」

「......御意」

 私は小刻みに震える手でリボンタイを外し、シャツのボタンを首元から順に外していく。

 私のもう一つの仕事、それはユウに血を提供する事。

「そう案ずるな、壁紙の模様の数でも数えていればすぐ終わる」

 準備が整うとユウは私の首筋に顔を埋めた。

 ブチッ

「っ......」

 皮膚を食い破る音の後、痛みと恐怖感が首筋から全身へと這い回る。
 私は自身のズボン裾を握り締め、逃げ出したい感情を押し殺し耐え忍ぶ。
 すると首元からチュルチュルと血を啜る音が聞こえてくる。

(どうかこのまま食い殺されません様に......)

 血を吸われる度にあの町でユウと過ごした記憶がフラッシュバックする。
 それは楽しかった思い出も、泣きそうになるくらい優しい記憶も。
 そして私の人生が分岐したあの日の夜の事も全て。

「......今日はこのくらいにしておこう」

 そう言うとユウは噛み痕に舌を這わせ止血を始めた。

「んっ......旦那様、それ......」

「前にも説明しただろう、こうした方が傷の治りが早いんだ」

 そしてユウは再び私の傷口に舌を這わせ傷を丁寧に塞いでいく。
 吸血鬼とは元来、血そのものを自在に操れる特殊な力を持っているらしく、その力を使えば止血など容易らしい。

(だからってそんなに執拗に舐めなくても......)

 そんな事よりも早く解放して欲しい。
 私の頭の中はそんな考えで埋め尽くされていた。

「終わったぞ」

 そしてユウは私の首筋から顔を離す。

「明日もよろしく頼むよ」

(やっと、解放される......!)

 私は急ぎ衣服を整える。

「......では私はこれで失礼致します」

 そして最低限の挨拶を済ませるとユウの自室を急ぎ後にした。
 一刻も早くこの悍ましい空間から抜け出す為に。


♢♢♢


「......いつになったら涼香は心を開いてくれるのだろうか」

 涼香の背中を見送った後。
 自室に一人きりになったユウは独り言を溢した。
 だがユウの口から溢れた独り言は誰の耳にも届くことはなかった。





to be continued......
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吸血鬼ユウの御意のままに作者:有機鈴凛(トマチン)
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 ――この屋敷にもう私の味方は誰一人いない。


 ――母様が亡くなってからはただひたすら周囲からの理不尽に耐え、生き残る事だけを考える日々。


 ――けれどあの日、私は知ってしまった。


 ――この場所で私が幸せになれる事は未来永劫ないのだと。


―――――――――――――――――――――――――――


「何を呆けている?」

 馬車の荷台の外を眺めながら物思いに耽っていると、不意に声を掛けられた。
 振り向けば、そこにはユウがいた。

「......少し、考え事をしていました」

「そんなに暇なら、少し付き合え」

 ユウがこちらに手を差し出す。
 私はその手を取った。
 けれど連れて行かれたのは馬車の荷台から少し離れた、人目につかない場所だった。
 ユウは周囲を確認すると、私の前に立つ。

「腹が減った」

 その声音を聞いた瞬間身体が強張った。

「......血が欲しい」

 そして両腕で身柄を捕らえられる。

「ユウ......」

 名前を呼び終えるより早く、首筋に牙が突き立った。

「......っ」

 鋭い痛みが走る。
 けれど私は抵抗せずそれを受け入れる。

 あの日私はユウと盟約を結んだ。
 私がユウの秘密を誰にも話さない代わりに、ユウは私を殺さない。
 その代償として、私はユウの命令に逆らえなくなった。

『だからこれからよろしく頼むよ、涼香』

 そして盟約を結んだ夜、私達は逃げるようにマージナを離れた。
 昼間は人目を避けるように馬車の中で過ごし、夜になると人目のつかない場所で血を吸われる。
 それが何日も続いた。
 幸いなことにまだ食い殺されてはいない。
 単にユウが私に温情を持っているのか。
 それとも別の理由があるのか。

 ただ一つ分かるのは、私はもう自分の意思だけではどこへも行けないということだった。
 自由を求め実家を出たはずなのに。

(皮肉な話だ)

 だってそれはあれほど欲しかった自由を、自ら手放したようなものなのだから。
 やがてユウは私の首筋から牙を引き抜いた。

「......っ」

 そして首筋に残った傷にユウの湿った舌が触れる。

「あのっ......それ、止めて欲しいのですが......」

「傷口を塞いでいるだけだ」

 ユウは傷口を見下ろす。

「少しの間だけ我慢してくれ」

「......っ」

 私はそれ以上何も言えなかった。
 やがて傷口が塞がったのを確認すると、ユウはようやく顔を上げた。

「終わったぞ。明日も移動がある、早く寝ろ」

 そう言い残し、ユウは何事もなかったかのように馬車へ戻っていく。

「......はぁ」

 気づけば、溜息が漏れていた。
 私はそっと首筋に手を当てる。
 まだ肌を貫く牙の感触が残っている。

(......一体、どうすれば私はユウから解放されるのだろう)

 答えは分かっている。
 そんな方法など、今の私には存在しない。
 だから私は、その叶うことのない願いを胸の奥へ押し込み、静かに目を閉じた。





 その日の夜、私はなかなか寝付けないでいた。
 ふと気がつくと、馬車の中にユウの姿がない。

「......ユウ?」

 すると外から慌てふためくが聞こえた。
 私は様子を見るべく馬車を降りる。

「おい! 止めろ! こっちに来るな!」

 御者の叫び声が響いた。
 そして目線の先には巨大な魔獣がいた。
 見覚えがある。
 去年、マージナへの道を塞いでいた魔物。

「......デンジャラスベア」

 懐かしさすら覚えた。
 御者は必死に馬車を守ろうと魔獣を松明で威嚇している。

「下がっていてください」

「ちょっと! 君、何を――」

「私なら倒せます。ですが――」

 私は口に人差し指を当てた。

「今から目にする事は誰にも話さないでくださいね」

 そう言うと私は魔獣の方へ静かに近付く。
 そして魔獣の姿を見てふと思う。

(何故この魔獣はここまで来たのだろう?)

 腹でも空かせているのか?

 ......それとも。

「家族と離れてしまったのか?」

 魔獣が唸る。
 次の瞬間、巨大な身体がこちらへ飛び込んできた。

「――っ!」

 私は紙一重で身を躱す。
 鋭い爪が深く地面を抉る。
 その瞬間、魔獣の視線の先に気が付く。

「......荷物か」

 馬車に積まれた荷物。
 その匂いに引き寄せられたのだ。

(それなら――)

 私は右手を魔獣へ向けた。
 すると周囲を漂う冷気が一点へ集まっていく。
 そして細かな氷の粒はやがて一本の氷柱となり、魔獣の胸部を貫いた。

「グオオオオオ」

 巨大な身体が硬直する。
 次いで、ゆっくりと地面へ倒れた。

「......終わりました」

 御者は呆然と私を見ていた。

「き、君......まさか魔法使いなのか?」

「......まあそんなところです」

 正体を知られてはいけない為、私は御者に話を合わせた。
 すると御者は何度も頭を下げる。

「助かった! 本当にありがとう!」

「......」

 胸の奥が、妙にくすぐったかった。
 感謝なんてされたのは、初めてだった。

「......悪くないな」

 小さく呟く。
 誰かの役に立つというのは。
 こんな気分になるものなのか。

「恐らくまだ油断はできないと思います。ここは私が見張っておきますので貴方は休んでください」

「いや、しかし見張りなら――」

「明日も朝から移動でしょう?」

「それはそうだが......」

「なら遠慮はしないでください。こう言う時他人の好意は素直に受け取っておくべきです」

「そこまで言うなら......」

 そう言って私は御者と見張りを入れ替わった。
 その様子を少し離れた場所からユウに見られている事にも気が付かず。



***


 そして馬車に揺られること数日、突然ユウから馬車を降りる様に言われる。

「着いたぞ」

 どうやら目的の場所へと到着した様だった。
 ユウに言われるまま馬車の荷台から降りると、目の前には大きな屋敷があった。

「此処は......」

 そう聞くとユウは口を開いた。

「俺の屋敷だ」

 目の前の大きな扉が開く。
 そして中から薄緑色の髪をした糸目の男が姿を現した。
 片眼鏡をかけ、綺麗な姿勢でこちらに頭を下げている。

「おかえりなさいませ旦那様、久しぶりのご帰宅ですね」

「只今モーエヴィン、留守の間の屋敷の管理ご苦労だった」

 モーエヴィンと呼ばれたその男は満面の笑みを浮かべユウに首を垂れている。

「恐縮です、私わたくしの様な下僕はただ旦那様の生活のお役に立てるだけで光栄ですから」

(大きな屋敷に使用人......ユウは一体何者なのだろうか?)

 終始黙って二人のやり取りを見ていると私に気付いたのかモーエヴィンが私に声をかけてきた。

「おや、そちらはお客様ですか?」

「いや、客人では無い」

 するとユウは私の背中をトンと押した。

「今日からここに置くことにした。なので涼香に先輩として・・・・・屋敷のことを教えてやってくれ」

 するとユウの言っている事を理解したのかモーエヴィンは再び首を垂れた。

「......御意」

「教育......何のですか?」

 私がユウに尋ねるとそれを聞いていたモーエヴィンが口を開いた。

「では涼香様、これからは私わたくしの後輩・・としてよろしくお願い致します」

「......よろしくお願いします」

 そして私は戸惑いながら頭を下げた。


***


「涼香は飲み込みが早いですね」

 モーエヴィンは感心したように言った。

「これならある程度の仕事を任せても問題ありませんね。優秀な後輩ができて嬉しい限りです」

「......後輩」

 その言葉が、妙に耳に残った。

 私に与えられた仕事は二つ。
 一つは屋敷の管理、ユウの身の回りの世話だった。
 掃除に洗濯に料理、そして屋敷に必要な雑用。
 時には飛び込みの仕事もこなす為、日々仕事をこなすのに必死だった。
 けれど、不思議と嫌ではなかった。

「ではそろそろ旦那様の食事の準備に取りかかりましょうか」

 この時、私の勘が危険を察知する。

「今日は私わたくしがメインを担当致しますのでサイドは涼香に任せます」

「......いえ食事は全て・・私が作りますのでモーエヴィンは他の片付いていない仕事を進めて頂けますか?」

 私がそう返すとモーエヴィンは顎に手を当て私を見下ろした。

「ほぅ......涼香も少しは言う様になりましたね、流石私わたくしの育てた優秀な後輩です」

 そう言うモーエヴィンに私は乾いた笑いをあげるしか無かった。

「ハハハ......」

 モーエヴィンと働いているうちに分かったことがある。
 それはモーエヴィンが絶望的な味覚音痴なうえに化物胃袋の持ち主という事だった。

 私は初日にモーエヴィンから振舞われた賄いを食し人生で初めて走馬灯を見た。
 あの時、咄嗟に吐き出していなければとっくにこの世から消えていたと本気で思う。

『あの、この料理何が入っているんですか......オエッ』

『そのスープとても美味しいでしょう? 実は――』

 するとモーエヴィンの口からは料理に使うなど言語道断と言われる有毒な植物や魔物の名がポンポンと出てきたのだ。

『そんなものユウ......旦那様に出して大丈夫なんですか?』

 そう尋ねるとモーエヴィンは悔しそうにハンカチを噛みながら答えてくれた。

『それが旦那様は偏食の様で、私わたくしの用意した食事は一切口にしてくれないのです! あんなにも刺激的で美味しいのに!』

 その時、私は呆れを通り越して恐怖心を覚えた。

(こんな身近に無自覚兵器が居るだなんて、ユウもなかなかの苦労人だな......)

 その日以降、私はモーエヴィンを厨房の仕事から遠ざける様に徹底していた。
 その甲斐もあってか、最近のユウは少しずつだが屋敷で食事をとってくれる様になってくれたのだった。





 その日の夕食後、私はユウの自室に呼び出された。
 片付けをモーエヴィンに任せ、私はユウの自室に向かう。

「スゥ......ハァ......」

 ユウの自室の前に立つと落ち着く為に深呼吸をする。
 そして私は部屋の扉をノックした。

「旦那様、涼香です」

「入れ」

 扉の向こうから聞こえた合図。
 私はドアノブに手をかけ扉を開いた。

「失礼致します」

 部屋に入ると執務用の机に腰掛け、月明かりに照らされるユウの姿があった。

「こっちに寄れ」

 そしてこちらへ来いと角張った手が招く。
 獲物を狙う猛禽類のような目はじっと私を見据えていた。
 私は覚悟を決め恐る恐るユウの方へ近づく。

「首元を開けろ」

「......御意」

 私は小刻みに震える手でリボンタイを外し、シャツのボタンを首元から順に外していく。

 私のもう一つの仕事、それはユウに血を提供する事。

「そう案ずるな、壁紙の模様の数でも数えていればすぐ終わる」

 準備が整うとユウは私の首筋に顔を埋めた。

 ブチッ

「っ......」

 皮膚を食い破る音の後、痛みと恐怖感が首筋から全身へと這い回る。
 私は自身のズボン裾を握り締め、逃げ出したい感情を押し殺し耐え忍ぶ。
 すると首元からチュルチュルと血を啜る音が聞こえてくる。

(どうかこのまま食い殺されません様に......)

 血を吸われる度にあの町でユウと過ごした記憶がフラッシュバックする。
 それは楽しかった思い出も、泣きそうになるくらい優しい記憶も。
 そして私の人生が分岐したあの日の夜の事も全て。

「......今日はこのくらいにしておこう」

 そう言うとユウは噛み痕に舌を這わせ止血を始めた。

「んっ......旦那様、それ......」

「前にも説明しただろう、こうした方が傷の治りが早いんだ」

 そしてユウは再び私の傷口に舌を這わせ傷を丁寧に塞いでいく。
 吸血鬼とは元来、血そのものを自在に操れる特殊な力を持っているらしく、その力を使えば止血など容易らしい。

(だからってそんなに執拗に舐めなくても......)

 そんな事よりも早く解放して欲しい。
 私の頭の中はそんな考えで埋め尽くされていた。

「終わったぞ」

 そしてユウは私の首筋から顔を離す。

「明日もよろしく頼むよ」

(やっと、解放される......!)

 私は急ぎ衣服を整える。

「......では私はこれで失礼致します」

 そして最低限の挨拶を済ませるとユウの自室を急ぎ後にした。
 一刻も早くこの悍ましい空間から抜け出す為に。


♢♢♢


「......いつになったら涼香は心を開いてくれるのだろうか」

 涼香の背中を見送った後。
 自室に一人きりになったユウは独り言を溢した。
 だがユウの口から溢れた独り言は誰の耳にも届くことはなかった。





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