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四、隠り逝く水の

 秋山の樹の下隠り逝く水の われこそ益さめ 御思よりは (鏡王女 巻二 九一)



 この先、逢瀬は叶わないだろう。
 愛しい人のぬくもりを全身に受け止めながら、額田はそれを思っていた。
 愛しい人達との別離は額田の心をひどく苦しめたが、もはやそれを嘆くことはなかった。
 未来への祈りが、額田の心を支えていた。


 大海人皇子は、抱きしめた額田の温もりをその腕に閉じ込めて、離さなかった。今は天皇の室に入った、額田王。もはや額田は遠い人になってしまった。後悔ばかりが大海人皇子の胸を軋ませる。
「......すまない」
 切なげな皇子の声だった。大海人皇子は、吉野へ隠棲する旨をすでに額田に告げていた。額田はすでに知っていた。誰から聞いたのでもないだろう。
 額田は、巫女なのだ。
 
 吉野へ、ともに連れて行けいないことを謝罪しているのではない。大海人は、自身の言葉が虚しいこともわかっていた。
 それでも、額田の顔を見ると揺らいでしまう。
「皇子様」
 額田はそっと腕を大海人皇子の背に回した。優しく、包むように。
「皇子様、どうかそのように仰らないで」
「額田」
「もしかしてご迷惑かもしれませんけれど」
 少しおどけた口調を、額田は作ってみせた。やや憔悴した面持ちの大海人皇子を優しいまなざしで見つめる。
「額田の心は、いつでも大海人皇子様とご一緒ですわ。どこまででもお供いたします。どうぞ、この心をお召しください」
「額田......」
 その言葉でも、大海人皇子の愁眉は開かなかった。

「お迷いにならないで。皇子様には、成すべきことがおありのはずです」
「成すべきこと......。額田、そなたにはそれが見えるのか? その先も?」
「皇子様、わたしは三輪の巫女です。望むと望むところに関わらず、時には先を見ることもあります」
「そう、だな。そうだったな。そなたの歌は、光のようにきらきらしく、いつも神の宣賜のように明らかだった」
 苦味の混じった大海人皇子の微笑は、額田の眉目を曇らせてしまう。せっかく、笑んでみせたというのに。
「先を、お知りになりたいのですか、皇子様?」
 不安げに額田は尋ねた。このような質問を、今までただの一度もしたことがなかった。額田の心の惑いが、そうさせた。
「......いや、その必要はない」
「............」
 知りたくない。と言わないのが、大海人皇子という人物だった。ましてや、知りたいなどとは言うはずもない。

 己の道は己が決め、振り返らず、大胆に突き進んでゆく。それが大海人皇子という人であった。迷いがないわけではない。それでも信じるものを貫き、強く生きていける人なのだ。
 額田は、だからこそ大海人皇子を愛した。
 愛される幸せに満ち足りていられた。

 秘密の逢瀬、それはほんの僅かの時間しかない。こうして人目を忍んで逢っていることすら罪なのだ。戯れ事めいた歌を詠み交わすのでさえ、いまはもう......――
「私は、私の前に敷かれた道を、進んでいこうと決めたのだ。この道を回避する方法も模索したが、やむを得ない。逃げられぬのならば、戦うまでだ」
 毅然と、大海人皇子は語った。
「私は謀反人となるだろう。大友と争うことは本意ではないのだが、それも、今は甘んじて受けよう」
 愚痴もある。後悔もある。だが、それすら享受して、茨の道を選んだ。

 この人を愛せてよかったと、額田は心から思う。
 一片の悔いなく、大海人皇子を愛しきれたことが、額田には嬉しかった。
「やはり皇子様は、三輪の神様の化身だったのですわ」
 額田は大海人皇子の両手を取った。
「わたしは三輪の神に捧げられた、巫女です。どこにいても、いつでも祈っています。いつも、あなたのことを」
「ありがとう、額田」
 大海人皇子は、もう一度だけ額田を抱き寄せ、美しい朱唇に口づけた。

 ひとときの逢瀬は、永遠の逢瀬となった。
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 この先、逢瀬は叶わないだろう。
 愛しい人のぬくもりを全身に受け止めながら、額田はそれを思っていた。
 愛しい人達との別離は額田の心をひどく苦しめたが、もはやそれを嘆くことはなかった。
 未来への祈りが、額田の心を支えていた。


 大海人皇子は、抱きしめた額田の温もりをその腕に閉じ込めて、離さなかった。今は天皇の室に入った、額田王。もはや額田は遠い人になってしまった。後悔ばかりが大海人皇子の胸を軋ませる。
「......すまない」
 切なげな皇子の声だった。大海人皇子は、吉野へ隠棲する旨をすでに額田に告げていた。額田はすでに知っていた。誰から聞いたのでもないだろう。
 額田は、巫女なのだ。
 
 吉野へ、ともに連れて行けいないことを謝罪しているのではない。大海人は、自身の言葉が虚しいこともわかっていた。
 それでも、額田の顔を見ると揺らいでしまう。
「皇子様」
 額田はそっと腕を大海人皇子の背に回した。優しく、包むように。
「皇子様、どうかそのように仰らないで」
「額田」
「もしかしてご迷惑かもしれませんけれど」
 少しおどけた口調を、額田は作ってみせた。やや憔悴した面持ちの大海人皇子を優しいまなざしで見つめる。
「額田の心は、いつでも大海人皇子様とご一緒ですわ。どこまででもお供いたします。どうぞ、この心をお召しください」
「額田......」
 その言葉でも、大海人皇子の愁眉は開かなかった。

「お迷いにならないで。皇子様には、成すべきことがおありのはずです」
「成すべきこと......。額田、そなたにはそれが見えるのか? その先も?」
「皇子様、わたしは三輪の巫女です。望むと望むところに関わらず、時には先を見ることもあります」
「そう、だな。そうだったな。そなたの歌は、光のようにきらきらしく、いつも神の宣賜のように明らかだった」
 苦味の混じった大海人皇子の微笑は、額田の眉目を曇らせてしまう。せっかく、笑んでみせたというのに。
「先を、お知りになりたいのですか、皇子様?」
 不安げに額田は尋ねた。このような質問を、今までただの一度もしたことがなかった。額田の心の惑いが、そうさせた。
「......いや、その必要はない」
「............」
 知りたくない。と言わないのが、大海人皇子という人物だった。ましてや、知りたいなどとは言うはずもない。

 己の道は己が決め、振り返らず、大胆に突き進んでゆく。それが大海人皇子という人であった。迷いがないわけではない。それでも信じるものを貫き、強く生きていける人なのだ。
 額田は、だからこそ大海人皇子を愛した。
 愛される幸せに満ち足りていられた。

 秘密の逢瀬、それはほんの僅かの時間しかない。こうして人目を忍んで逢っていることすら罪なのだ。戯れ事めいた歌を詠み交わすのでさえ、いまはもう......――
「私は、私の前に敷かれた道を、進んでいこうと決めたのだ。この道を回避する方法も模索したが、やむを得ない。逃げられぬのならば、戦うまでだ」
 毅然と、大海人皇子は語った。
「私は謀反人となるだろう。大友と争うことは本意ではないのだが、それも、今は甘んじて受けよう」
 愚痴もある。後悔もある。だが、それすら享受して、茨の道を選んだ。

 この人を愛せてよかったと、額田は心から思う。
 一片の悔いなく、大海人皇子を愛しきれたことが、額田には嬉しかった。
「やはり皇子様は、三輪の神様の化身だったのですわ」
 額田は大海人皇子の両手を取った。
「わたしは三輪の神に捧げられた、巫女です。どこにいても、いつでも祈っています。いつも、あなたのことを」
「ありがとう、額田」
 大海人皇子は、もう一度だけ額田を抱き寄せ、美しい朱唇に口づけた。

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