三、恋ひめやも
紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも (大海人皇子 巻一 二一)
時代は昏迷を極めていた。
昏いうねりの中に額田王も否応なく巻き込まれていく。
有間皇子が紀温湯で非業の死を遂げた。......抹殺されたのだということは、誰の目にも明らかだった。
茅淳王の血筋であられた有間皇子は、聡明な人物であった。
それを、額田王は知っていた。恐れ多くも、弟のように思い、歌を詠みかわしていた少年。常に周囲の目を気にしながら孤独に生きていた少年であった。
有間皇子は、時代の犠牲となるべく生まれたようなものだ。
それでも一縷の望みを抱いてはいたのだ。
有間皇子が叛意を抱いていないことは誰の目にも明らかだったからだ。皇位を狙うなど、繊細な少年は考えもしなかったろう。
それでも、聡い少年は知っていた。周りがそれを本気にとってはくれないのだろう、と。いや、知っていてなお、気弱な少年だからこそ担ぎ上げようとしていた。この当時、宮中は疑心暗鬼の念が渦巻いて、謀略が謀略を呼び、後宮の女人らでさえ、権謀の波の吞まれていた。
有間皇子は狂人を装い保身を図っていた。ほかに手段はなかった。しかし、結局それも虚しかった。
謀反の罪に問われ、都から半ば追放の憂き目にあい、ついには療養先で命を断たれてしまった。
この事件は、額田の心をひどく傷ませた。皇子の死にだけではない。有間皇子を「陥れた」主犯格に姉の夫となる人物が関わっている。中大兄皇子と称されていた、葛城皇子である。この時点ではまだ皇位にのぼってはいなかったが、政治の実権を鎌足とともに掌握していた。
額田は成す術もなかった。額田だけでない。他の誰も......有間皇子の「味方」になろうとすり寄った者達も、結局は有間皇子を切り捨てるしかなかった。
致し方のないことだと、誰もが有間皇子の「事件」から目を逸らし、諦念の気持ちを募らせていた。
薄幸の少年は、哀しい歌を額田に残していった。
嘆き悲しみ、涙を流すことしかできない自分がもどかしい。
もっと本気で、有間皇子を庇護するべきだった。いっそ三輪山の奥深くに隠し、安寧が訪れる日を持つべきだった......――
額田は何度も有間皇子に御身を隠すことを促した。私の命にかけても、お守りしますから、どうか宮中からお逃げくださいと、切々と嘆願した。だが、有間皇子は苦く笑うばかりだった。
額田の切実な訴えこそが、有間皇子に運命を悟らせた。
額田は風に枝を揺らす松を見やり、頬を濡らす涙を袖で拭った。
風の音が虚しい。まるで愁訴の声だ。額田の胸に迫ってくる。
せめてもの名残にと、有間皇子は手ずら書いた歌を、額田に遺した。
額田は癒えぬ悼惜を、遺された有間皇子の歌とともに胸に抱いた。
終生、忘れることはできぬだろう。
そして、幾つかの血腥い事件を経て、さらに額田を悩ませる事が身の上に降りかかってきた。
「どうして......どうしてこのような心無いことをお上はなさるのでしょう!」
悲憤に、額田は激しく身を震わせた。
姉が突然、臣下である鎌足に下賜された。その報を聞いて、額田は怒りと共に姉の下へ訪れた。すでに後宮から去り、鎌足の用意した別邸に起居していた姉は、妹の突然の来訪を予期していたようだった。
泣き伏す額田の姿は、もう稚い少女のものではない。
葛城皇子の方から鏡王女を求めておきながら、いったいなぜこのような無体な仕打ちをなさるのか。
腹心の部下である鎌足に下賜するだけなら、まだいい。まだ納得もできる。
だが、鏡王女の後釜に額田王を据えるというのだ。そのような横暴な所業が赦されてよいものか。
額田は峻拒した。しかし拒みきれるものではなかった。
「額田の君。お辛い目にあわせてしまいますね」
「そんな、お姉さま! わたしなどより、お姉さまの方がずっとお辛いのに」
「............」
鏡王女は笑った。悲しみを胸の奥底に沈め、ただ静かに微笑むばかりだった。胸中の悲しみを、聡い妹には隠しきれないと分かっていても、もう鏡王女には泣く涙すらなかった。
後宮に入り、夫人という職宮を得、葛城皇子から情けはいただいた。しかし結局は「道具」でしかなかったのだ。その上、鏡王女という「道具」では物足りなくなった。
権威を示すために、さらに力のある巫女が必要なのだ。
巫女としてのチカラは、鏡王女より妹の方が数段上であった。
また、額田は歌人としての評価も高い。
歌には呪力がある。巫女の歌は、神の御声そのもの。
言の葉を美しく強く紡ぐことのできる額田は、神の意を表す最高位の巫女なのだ。
ただ一人の巫女として、あるいは歌人として、人の思惑に左右されず、自由に在ろうとした額田ではあったが、宮中に在る以上、それは「身勝手」にしか過ぎなかった。
愛する人......大海人皇子との間に一子をもうけていたが、それでも皇子の室にはあえて身を入れなかった。大海人皇子の公的な「妻」にはならず、もうけた姫だけを皇子の庇護に入れた。
額田は己を神の妻と定めていた。神以外の誰の妻にもならぬと。
それを大海人皇子が許してくれたのは、愛ゆえでもあったろう。だが、政治的な都合もあるにはあったのだ。
大海人も、葛城皇子には逆らえない。......有間皇子より、さらに深刻に。
額田は、私は神の妻たる皇子ですと子供っぽい言い訳で葛城皇子の命令を退けていたが、それももう聞き入れてはもらえぬだろう。
「神の妻とそなたは言う。なれば、天皇の妻となるのは必定」
神の妻を名乗るのであれば、天皇の妻となり、生涯仕えるのが道理。神の妻として、我が元にて仕えよ。そのように押し迫られた。
大海人皇子の元にゆかなかったせいでこのような事態を招いたのとか、額田は自分の浅慮を、この時ばかりは呪わしく思った。自分の無力さを思い知った。
――いや、たとえ大海人皇子の室に入っていたとしても同じだったろう。
身分柄、第一の存在にはなりようがないのだ。側室のひとりとして扱われるのが当然の身なのだ。
額田は唇をかみしめた。
「額田の君」
宥めるような、優しい声音が額田の耳に届いた。
鏡王女の穏やかなまなざしが額田をみつめている。
「私のことよりも、額田の君、あなたこそ心確かに、お気をつけなさい」
「お姉さま」
「......わたし達は、このように利用されてしまうのがさだめなのかもしれませんわね。巫女であるがゆえに、人を愛する気持ちさえままならず、身を縛られてしまう」
諦念のこもった鏡王女の声が額田の胸を締めつけてくる。憤りが抑えられない。
「お姉さま! いやです、わたしは......! 他人の思惑に振り回され、利用されるだけの一生だなんて......! 巫女であると同時にわたし達は女です。愛し、愛される喜びをなぜ奪われねばならないのです」
「......額田の君」
「分かっています、幼い考えだと。己の役割を忘れてもいません。けれど、心を縛られるのは嫌。わたしが愛しているのは大海人皇子様だけです。その気持ちは誰にも譲れない、触れさせません」
涙目になりながらも、額田の心の強さは揺るがない。
幼い頃から、この妹はそうだった。勝気で奔放で、清すぎるほどに清い。たとえ泥を被ったとしても、額田の存在自体を汚すことはできないだろう。いや、額田は泥を被ることすら厭わない。そうしながら、懸命に己の心を強く保っている。
だからこそ額田王の歌は人の心に深く沁み込むのだ。
額田は自身の嘆きを素直に表す。優しい姉を困らせたくないのに、止められなかった。
「不要になれば捨てられる、そんな道具のように扱われるなんて、嫌です! わたし達は道具ではないのです。感じる心を持つ人間です。心失くして、歌など詠めるはずがありません。ましてや神の御心を伝えるなど......!」
「............」
額田の悲歎は、そのまま鏡王女の悲歎でもあった。痛いほどに気持ちが分かる。返す言葉などありはしなかった。
まっすぐな気性の妹は、強情ともいっていい頑なさで必死に時流に抗おうとしている。自分の意志を貫こうとしている。
だが、抗いきれない事を、二人はとうに知っていた。
時代という大きな流れに逆らうには、二人の乗る舟はあまりに小さい。
「額田の君。どんな処遇の中にいても、その心だけはいつも忘れないでいて。あなたの言うように、心は、私もあなたも自由よ。誰にも縛られたりしない」
「お姉さま......」
鏡王女は優しく妹を諭す。それは自分をも慰め、言い聞かせるものだった。
「私達はきっとこの大きなうねりに呑まれ、流されてしまう。けれど、何もかも失ってしまうわけではないわ。残るものもあるはずよ。それを信じていましょう」
「お姉さま」
信じられるものなどないこの時代に、いったい何を真実だと言い、信じたらよいのか。
その答はない。けれど、鏡王女は遥を見つめるようにして、言葉を継いだ。
「あなたが謳う歌は多くの人を惹きつけます。歌は、あなたの自由な心そのもの。そこには嘘も偽りもない。歌に込められた想いを、いつかきっと見知らぬ誰かも、解かってくれるでしょう。私は、それを信じています。あなたの歌を信じています」
悲しみに呑まれぬよう、沈まぬよう、額田の手を握り、鏡王女は微笑んで言祝いだ。
歌を紡ぎ続けてほしい。額田王の心が自由であれるように。
そう願わずにはいられなかった。
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磐白の野中に立てる結び松 情も解けず いにしへ思ほゆ (長忌寸意吉麻呂 巻二 一四四)