二、いたく鳴きそ
神無備の伊波瀬の杜の喚子鳥 いたくな鳴きそ わが恋まさる (鏡王女 巻八 一四一九)
季節は疾く巡り、変遷の時代を迎えていた。
額田王も時代の変化に抗うことはできずにいた。しかしなお毅然と立ち、己が身を崩さずにいる。
今、額田が一番気に掛けているのは姉のことだった。
姉、鏡王女は天皇の妃となることが正式に決まり、明日には後宮へと入る。しかも正妃ではない。妃つぐ 夫人 の役に就く。
「お姉さま、こちらをお持ちになって」
額田は透明な水晶で造られた勾玉の首飾りと、手に納まるほどの大きさの手鏡を、姉に手渡した。祝いの品というより、お守りのつもりなのだろう。額田はこの二つに安慰がもたらされるよう、心をこめて祈念した。
鏡王女は微笑んで、妹の手からそれを受け取った。
「ありがとう、額田の君」
姉のまろやかな笑顔に僅かばかりの翳りがさしているのを、額田は見逃さなかった。しかし優しい心根の姉は、心の内の不安をありありと面にあらわしたりしない。妹に心配をかけまいと、静かに微笑んでいるのだ。その気遣いを、額田も無下にはできなかった。
片親だけの血の繋がり......異母の姉妹ではあったが、額田王は鏡王女を実の姉のごとく慕っていたし、鏡王女もまたそんな額田を何の隔たりもなく、実の妹として可愛がってきた。
巫女としての能力は、額田の方が勝っていた。それに対しても、鏡王女は妬心を持つよりもむしろ感嘆の思いで妹を見つめ、才を伸ばすために助力を惜しまなかった。
何者からも守り、慈しんできた。
才走ってしまいがちな、少しばかり自由奔放な妹に「歌」を教えたのは、鏡王女だった。
「歌」とは「呪歌」でもある。巫女が紡ぐ言葉と音律、そして声は、神の御心を現す宣託だが、小さな民草の想いを形にするものでもある。願いや祈り、時には嘆きをも巫女は歌う。泥に塗れた呪罵の意を感じ取ってしまうこともある。そうした穢れは巫女の身を苛むものだが、額田は泥を厭わなかった。厭わず、しかし溺れない。額田は、額田のままにさまざまな想いを歌にすることができた。しかも、美しい。
額田は「歌」をこよなく愛した。
歌の才は、これからますます花開いていくことだろう。
鏡王女にとって額田はまるで美しい珠のような神宝そのものだった。
天皇からの勅が下り、後宮に入れられるのが額田ではなく、自分であったことに、鏡王女は安堵していた。
現世での栄華を我がものとすることに悦を感じたのではない。現世の栄華など、巫女たる自分にはなんら関わりなきこと。忌避すべきことでこそないが、溌剌とし、自由を愛する妹を、後宮という籠に閉じ込めたくはなかったのだ。天と地の間で、身を囚われずにいてこそ、額田は己の本領を発揮できる。――そう信じている。
額田を守らねばと、鏡王女は決意していた。
天皇の妻となる。
それは、巫女にとって重要な役割である。
巫女との「目合 」は神との交接であり、神聖な儀式であるとされた。巫女を媒体に神の「チカラ」を受けるのである。天皇の威権を示すのに必要な儀式でもあった。
しかし、三輪の巫女を妃に迎えるのは威を誇らしめるだけではなかった。
古くから三輪山の神を信仰してきた土着の勢力を懐柔し、取り込むためであったろう。
三輪の神に仕える姫巫女は、現世との結びつきを担う梯立(はしだて)ともいえる存在であった。完全に神社に封ぜられることはなく、ゆえに後宮に入る道筋も作られる。
天皇は、チカラのある巫女を欲する。
乱れの治まらぬ世にあって、神の「チカラ」をより能く顕す巫女は必需とされた。
鏡王女の気がかりは、何を置いてもやはり妹のことだ。神の言の葉を紡ぐ、美しい資質を持った額田王。
しかし当の額田王は......――
さりげなく、鏡王女は尋ねた。一度ならず尋ねてきたことではあった。
「大海人皇子様の妃になるつもりはないのですか、額田の君」
「............」
一瞬の迷いもなく、額田は首を横に振った。
――大海人皇子。
天皇の「兄弟」である皇子である。
今現在、皇子......日嗣の皇子になりうる可能性のある大海人皇子と、額田の仲は公然のものだった。
だが、額田は正式に大海人皇子の室に入ることはしなかった。やんわりと断り続け、確たる職宮につかぬままでいる。
妹の心情を、多少は察している鏡王女だが、それでも「何故」と問いたかった。
愛しているのに、と。
愛し、そして愛されているのに、何故。
かつて、中大兄皇子と称されていた皇子は御位につき、天皇(大王)となった。
中臣鎌足とともに蘇我家の頭領を討ち、軽皇子を即位させてから、実に十六年という年月を要しての即位だった。
即位前、そして即位後も、政権は落ち着かず、世は乱れを残したままでいる。
姉の問いに、額田王は朗らかな気性に似つかわしくない淋しげな微笑を湛えて、曖昧に応えた。
「大海人皇子様には成すべきことがあるのです。いまはまだ籠の中に囲われていても、いつか......」
ふいにかすめた予感を、額田は首を振って払った。
姉の鏡王女とともに、近江の宮に留まることになった額田は、宮廷を取り巻いている暗闇を、常に見つめていた。
中大兄皇子の即位以前から、その闇は続いている。ますます闇が濃くなっていく......――
年長者ではあるが、血筋ゆえに御位から遠ざかることになった大海人皇子との「出逢い」は、現在の近江宮ではない。かつてあった宮の近在地、狩場で二人は出逢った。
いつか再び相見える日がくる。
幼い頃の予感が現実となり、運命的な恋に額田を導いた。
今でも忘れられない、「出逢い」。
再会だった。
――最初の邂逅から幾年が経ったか。
あどけない童女から、聡明な娘へ。額田は美しく成長した。
しかし慎ましくしとやかな姉とは違い、闊達で奔放な気質の額田は、一人で気ままに出歩いては、彼女に仕えている者達の気を揉ませていた。
その日も、よく晴れた青空のまぶしい日だった。
花を摘むために森へ出かけ、そこであやうく馬上の青年に矢を射掛けられるところだった。
身を強張らせて立ち尽くしていた額田の前に現れたのは、美々しい青年だった。
「すまない、まさかこのような所に人がいるとは思わず、雄鹿かと......。怪我はないか」
狼狽した様子で額田に声をかけ、青年は素早く馬上から降りた。凛とした声が耳に心地好い。目元の涼しげな、端正な顔立ちのすがしい青年である。秀でた額に、一房ぱらりと髪が落ちている。
額田は目を見開き、青年を見つめた。胸中で、まるで花が音をたてて咲いたようだった。胸が高鳴り、気持ちが高揚していく。
「......あなたは」
一目で分かった。
初な童女だった頃に出逢った、三輪山の神様だと。あの時の御方だと。
ああなんと、ご立派になられたのだろう。あの時よりもさらに美しく、凛々しい。まぶしいほどの「光気」が全身を覆っている。
「大事ないか? 驚かせて本当にすまなかった」
「いいえ、大丈夫です、こちらこそ驚かせてしまいました。......アヤノミコさま」
「......何故その名を?」
今度は青年の方が瞠目する番だった。訝しげに眉をひそめ、目の前の娘を見つめ返す。
凛と背筋を伸ばしている娘は、里の娘ではないことが一見して分かる。
着衣も、色こそ濃緑と茶といった地味な重ねにしているが、襟元に覗く黄みをおびた緋色が、上等な裳であることをさりげなくしめしていた。小さな籠を腕に下げ、そこに軽く添えられている手が眩しいほど白い。
何よりも、全身から匂い立つような浄妙とした雰囲気は、並々の娘の持つ雰囲気ではない。
それでいて、人懐こく気安げな娘の笑顔に、ふと既視感を覚える。
気圧されるような様子を微塵もみせない。まっすぐにこちらを見据えてくる、清らかなまなざし......――
「憶えていらっしゃらないのですね。残念ですけど、それもしかたありませんわ。あの時、わたしはまだ子供でしたもの」
額田は悪戯っぽく笑う。あけすけな好意が満面の笑みをさらに明るくしている。無防備すぎるといっていいほどの笑顔だった。
ややあってから、青年は思い出した。あ、と声を漏らす。
「三輪山の麓で出逢った、あの少女か、君は」
何年前のことであろうか。
川の辺で、白菊を手折ろうと立ち往生していた、童女。
僅かの間の出逢いにしか過ぎなかったが、不思議なほど心に残り、今、ありありと思いだせる。
「そうか、君はあの時の」
「あの時は、花をありがとうございました。あの時、ちゃんとお礼を言ってなかった気がしますわ」
「そうだったかな? 君は何かいろいろと話してくれていたのは憶えているが。そういえばお互い名乗りもしなかったな」
青年は改めて娘に名を問うた。額田は微笑み、それには答えなかった。
ただ、「鏡王の娘」だということだけは告げた。軽々しく名を教えるのはたしなみがないと理性が止め、しかし別のところで「焦らしてみたい」気持ちが起こり、それが名を秘させた。父の名を告げた以上、隠すつもりはない。それを青年は察してくれたようだった。
「ところで、漢皇子という呼び名を、どこで憶えたのかな? あの時、名乗りはしなかったはずだが」
「お供の方がそう呼んでおられたように思ったのですが......違うのですか?」
「今は、違う。......今は、大海人と呼ばれている」
「オオアマ......皇子様?」
その名前を知らされ、額田は少したじろいだ。
知らぬ名前ではない。いや、知らぬわけがない名だ。
姉の鏡王女がいずれお傍に仕えることになる「中大兄皇子」の兄弟の名だ。ゆくゆくは姉の背の君になろうかという皇子の血縁者である。名を聞かぬはずがなかった。
「皇子」であろうことは名が示していたので知っている気になっていたが、数多くいる「皇子」の中でとりあけ身分の高い......それどころか日継の君というそれこそ天上人の名ではないか。
それでも、急に態度を改めて、恭しく礼をとるような真似を額田はしなかった。いまさら態度を急変させるのは、かえって礼を失する行為になるのではなと、彼女なりに思ったのだろう。
尊い身分の御方ではあるが、堅苦しい態度を好まぬような、そんな雰囲気が大海人皇子にはあった。額田と相通じるものがある。
「鏡王の娘が宮中に上がるとうかがったが」
大海人皇子は独り言のようにそう言った。それから、あなたの縁者なのだろうかと額田に尋ねる。「姉です」と額田は頷いてから、ふと訊き返した。
「お姉さまにお会いしましたの?」
「いや。だが、美しい方だとうかがっている。歌の才もおありだと」
「その通りですわ。お姉さまはお美しいだけではなく、とても優しい方で、わたしの自慢の姉です。詠まれる歌もその心映えをよくあらわして、玲瓏とした珠の音のような歌なのです」
頬を紅潮させ、語気も高らかに、額田はここぞとばかりに姉を自慢しきる。本心からの言葉だった。
大好きな姉を侮られまいと意気込む様子はいかにも幼げで、大海人皇子は思わず口元をほころばせ、微笑を零した。
「鏡王は、よい娘御をもたれたものだ」
大海人皇子は目についた花を手折り、それを額田に差し出した。いつかもそうしたように。
それもまた、白い花だった。だが白菊ではない。皇子はその花の名を知らなかった。
夏の野に咲く、小さな白い花。
「いつか、また会おう。その時こそは、きっとそなたの名を教えてくれ」
「............」
額田は頷いて、そして花を受け取った。
恋をし、唯一人の相手に巡り合えた喜びと幸せに胸を満たしていられたのは、しかし短き年月でしかなかった。