五、あかねさす
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや 君が袖ふる (額田王 巻一 二〇)
後に「壬申の乱」として知られる事件......戦は、大海人皇子側の勝利として終わった。圧倒的な勝利と言ってよかった。
皇位についた大海人皇子と、額田の逢瀬は、これより可能になるかと思われた。だが、そうはならなかった。皇后の影響があまりに強すぎたということもあったが、額田自身がそれを望まなかった。大海人皇子も、額田の名を一切口に出さなかった。
互いの身を案じて、別離を望んだのだ。
額田は、実子である十市皇女とも会うことを避けた。皇女の立場がひどく危ういことを、額田は知っていた。傍にいて慰めてやりたかったが、皇女の「母親」として傍に上がることは、さらに皇女の身を危険にさらすことになる。
ならばもう、身を隠し以外にない。
額田は徹底的に宮中から自分の痕跡を消し去った。
残したのは、いくつかの歌だけ。
歌だけが残るのなら、それでいい。
いずれは、かの皇后......葛城皇子の娘であった皇女、 鵜野讃良皇女が天の下を治めるということをも、額田は予見している。それが、苛烈を極める治世となりうることも。
鵜野讃良皇女はずば抜けた呪力を持つ皇女であることを、額田は知っていた。
かの皇女は「歌」さえも利用した。
渡来した呪術への関心は一方ならぬものがあった。その呪術を用いて、額田のような古い巫術は縮小されるか排斥されるかするだろう。
変遷していく時代を額田はその肌身にひしひしと感じていた。
新しい時代への扉が開く。
額田は一人、息をひそめ、静かにそれを見守っていた。
――わかっていたのだ。
大海人皇子との出逢いから、このような運命がくることを、額田は心のどこかで予感していた。
それでも、来る運命を額田は漫然と受け入れてきただけではない。自ら選び、歩んできた道であった。だから悔いてはいない。
額田は、今はもう、独りきり。
独りきり、夜空を見上げて嘆息した。横にいるのは、冷たい秋風だけ。心に在るのは懐かしい日々の思い出。
懐かしい情景を詠んだ歌は、天皇への祈りでもなければ、民草のひそかな声ですらない。
他愛無い歌は、風の吹くままに詠み、消えていく。
不思議なほど虚しさはなかった。
姉にも、娘にすら、もう会うことは叶わない。消息を風の便りに聞くだけである。
隠遁生活を強いられ、そうすることで生を永らえている。
何故、生き続けているのか。その問いへの答えを望まずにいた。
せめて与えられた命が神に召されるその日までは、こうして想いを紡いでいこう。祈り続けていこう。
煌めく星々を眺め、額田はいくつかの歌を詠んだ。
それは、何にも記録されない、額田の想いの欠片だった。
だが、ふと口をついて、出た歌があった。春の日の若々しく、きらびやかでまぶしい日の、恋。
「あかねさす......」
――今はもう、秋。
白いあかねの花はない。
応え、花を摘んでくれた、その人も。
三輪山をしかも隠すか雲だにも 情あらなむ隠さふべしや (額田王 巻一 一八)