第二話:引き抜いた鉄刃と、渇いた喉
胃の中のものをすべてぶちまけても、吐き気は収まらなかった。
すでに吐き出すものなど何一つ残っていないのに、喉の奥と横隔膜が勝手に跳ね上がり、ひくひくと無意味な痙攣を繰り返す。胃液と胆汁に焼かれた食道が、まるで熱湯を呑み込まされたかのように熱く、ヒリヒリと痛んだ。
「おえっ......げほっ、ごほっ......」
涙と鼻水が混ざり合って顎を伝い、泥まみれの地面にぽたぽたと落ちる。
口の中には、耐えがたい苦味と酸味、そして鉄を舐めたような生温かい血の臭いがこびりついて離れなかった。舌を動かすたびにその臭気が蘇り、そのたびに胃壁が引き絞られるように痛む。
だが、いくらえずいても、乾いた空気と微かな胃液が泡立って口から溢れるだけだった。
どれほどそうして蹲っていただろうか。
やがて、狂ったように早鐘を打っていた心臓の鼓動が、少しずつ、鉛のように重い拍動へと落ち着きを取り戻していった。
両手をついていた冷たい岩肌の感触が、ようやく皮膚を通じて脳に届く。
泥と吐瀉物がこびりついた手の甲で、荒っぽく口元と涙を拭った。指先に付着していた化け物の乾きかけた血が唇を掠め、ぞっとするような悪寒が背筋を駆け上がったが、それを気にする余裕すら今の自分にはなかった。
――落ち着け。息を吸え。
心の中で自分に言い聞かせる。
浅く、途切れがちに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
肺に満ちる空気はひどく湿り気を帯びていて、カビと腐葉土、そしてあの怪物が撒き散らした体臭と血の臭いが混じり合っていた。
両膝に力を込め、壁に手を預けながら、ゆっくりと上体を起こす。
全身の筋肉が強張り、まるで重い荷物を背負い続けたあとのように関節がきしんだ。後頭部から頭の奥がズキズキと脈打つように痛む。
改めて、薄暗い洞窟の中を見回した。
ごつごつと尖った岩肌が歪な天井を作り、ところどころからぽたぽたと水滴が滴り落ちて、静かな空間に規則正しい音を響かせている。
外からの光がわずかに差し込む開口部――そこへ向かって逃げようとしていた痕跡が、泥を削り取った足跡として生々しく残っていた。
そして視線を落とすと、自分が最初に目を覚ました場所の近くに、いくつかの物が転がっているのが目に入った。
分厚く硬い革で作られた、使い込まれた肩掛けの革袋。
ベルトに通すための金具がついた、小ぶりな革の腰袋。
そして、先ほど自分が無我夢中で引き抜いたはずの、刃を失って空になった革巻きの鞘。
どれも埃と泥をかぶっていたが、明らかに人工物であり、誰かが使っていた道具だった。
――この身体の、持ち主のものだ。
力が入らない足を引きずりながら、よろよろとそこへ近づいた。
一歩踏み出すごとに膝の関節が頼りなく揺れ、尖った小石がブーツの底を通して足裏を痛めつける。クッション性の高いスニーカーとはまるで違う、硬く無骨な履物だった。
しゃがみ込み、震える指先でそれらを拾い上げる。
革袋はずっしりと重かった。中には何かが詰まっているようだが、今は中身を一つひとつ検分している余裕はない。腰袋と鞘を抱え、革袋の太いストラップを肩に引っ掛ける。
それだけの動作で、息が上がった。
荷物を手にし、ふと、背後を振り返る。
そこには、先ほど自分が命を奪った化け物がいた。
思わず息を呑み、足が竦む。
怪物は――完全に死んでいるはずなのに、地面に横たわってはいなかった。
異様な格好だった。
緑色の小柄な肉体は、両膝を地面につけ、だらりと両腕を垂らしたまま、前のめりに深くうつむいていた。
その胸の中央に、無骨な鉄の剣が深々と突き刺さっている。切っ先が胴体を貫き、背後の岩肌か地面の硬い土にまで達しているのか、斜めに突き立った剣そのものが突っかい棒となって、死体の崩落を支えていたのだ。
まるで、自らに突き刺さった刃にすがりついて祈っているかのような、歪で不気味な姿勢だった。
薄暗がりの中、怪物の顔が影になっていた。
恐る恐る距離を詰め、覗き込む。
――ひっ、と喉が鳴った。
見開かれたままの黄色い瞳。
濁りきったその瞳孔は光を失い、焦点も合わないまま、自らの胸元――自分が突き立てた刃の根元をじっと凝視していた。
裂けた口からは、赤黒い泡だった血が乾きかけて固まり、緑色の皮膚にどす黒い筋を作っている。
さっきまで自分を殺そうと飛びかかってきた生々しい殺意は霧散し、そこにあるのは、急速に体温を失っていく冷たい『肉の塊』だった。
目を背けたい。今すぐにでもこの場から逃げ出したい。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
視線は、怪物の胸に突き刺さったままの鉄剣に釘付けになっていた。
あの剣がなければ、自分はこの暗闇の中で完全に無防備になる。
もし洞窟の外に、あるいはこの奥に、こいつの仲間や別の怪物がいたら?
武器を持たない自分が襲われたら、今度こそなす術もなく引き裂かれ、食い殺されるだけだ。
生き延びるためには、あの剣を取り戻さなければならない。
頭では分かっているのに、足がすくんで動かなかった。死体に触れなければならないという生理的な嫌悪感と、先ほどの殺傷の感触が脳裏をよぎり、指先が強張る。
それでも、奥歯をギリリと噛み締めた。
死にたくない。その一心で、震える足を一歩、また一歩と前へ踏み出す。
怪物のすぐ目の前に立ち、片膝をついた。
生臭い血と、内臓が破れたような悪臭が立ち込めて、鼻腔の奥を容赦なく刺激する。吐きそうになるのを必死で呑み込んだ。
この突っかい棒のようになっている状態では、剣をまともに引っ張ることすらできない。
まずは、この怪物を地面に転がさなければならなかった。
躊躇しながらも、泥にまみれた右手を伸ばし、怪物の細く筋張った肩に触れた。
――冷たい。
だが、骨の奥にはまだ、生きていた頃の微かな熱の残滓が閉じ込められているような、ぞっとする生々しさがあった。濡れた爬虫類のような、ざらついた皮膚の感触が掌に直接伝わってくる。
「う......っ、く......」
声を漏らしながら、力を込めて肩を突き倒した。
ぐにゃり、と首と手足が無抵抗に揺れ、怪物の体が重い湿った音を立てて泥の上へと仰向けに転がった。
その瞬間、胴体に刺さっていた刃がねじれ、
――ぐずっ、ぎちっ。
と、肉と骨が擦れ合う鈍い異音が響いた。
耳を塞ぎたくなるようなその音に鳥肌が立ち、胃の腑が再び痙攣する。
だが、怪物は仰向けになった。胸から突き出た鉄の柄が、斜め上を向いて天を指している。
荒い息を吐きながら、剣の柄に両手を伸ばした。
柄に巻きつけられた革紐は、先ほどの戦いで飛び散った怪物の返り血と、自分自身の脂汗でねっとりと濡れ、不気味に滑った。
滑り落ちないよう、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。
「ふーっ......ふーっ......!」
息を整え、足を踏ん張り、腰を落とす。
そして、一気に腕に力を込めて、真上へと引き抜こうとした。
「ん、ぐぅぅぅっ......!?」
抜けない。
まるで、硬化したゴムか硬い木の幹に楔を打ち込んだかのように、切っ先はびくともしなかった。
刃が怪物の胸骨と肋骨の隙間に強烈に挟み込まれ、さらにその奥、背骨の脇の筋肉にまで深く食い込んでいるのだ。肉が刃に吸い付き、骨が鋼を噛んで離さない。
「うそだろ......っ、抜けろよ......抜けろ!」
必死になって両腕を引く。
だが、力を込めて引っ張れば引っ張るほど、剣と一緒に怪物の死体そのものが泥から持ち上がり、ぶらりと浮き上がるだけだった。
傷口の裂け目からは、ジュクッ、ジュクッと泡立った赤黒い血が新たな気泡を吹きながら滲み出し、服を汚していく。
ゲームやアニメのように、刺さった刃が滑らかに抜けることなどあり得ない。
生き物の肉体は、異物を強固に締めつけ、刃物を骨ごと抱え込んで離さないのだという無慈悲な物理の現実が、そこにあった。
すぅ、と背後から冷たい風が吹き込んできた。
洞窟の入口から流れ込んできた外気だった。湿り気を帯びた木々と土の冷たい匂いが、淀んだ血と吐瀉物の熱っぽい悪臭をわずかに散らしていく。
恐怖と焦りでびっしょりと汗ばんでいた首筋や背中を、その冷気が容赦なく撫で上げ、肌を粟立たせた。
――このままじゃ、駄目だ。
いつまでもここで手間取っていれば、血の匂いを嗅ぎつけた別の何かがやってくる。
激しく乱れる息を整えながら、怪物の胸元を見つめた。
刃を引き抜くには、手だけの力では足りない。足で固定し、全身の体重をかけるしかなかった。だがそれは、自分が殺めたばかりの死体を、土足で踏みつけることを意味していた。
胸の奥が痛烈に軋む。
「ごめん......ごめんよ......」
震える唇から、誰に届くとも知れない掠れた謝罪がこぼれ落ちた。
躊躇う右足を上げ、怪物の鎖骨のあたり、傷口のすぐ脇に泥まみれの靴底をあてがった。
ぐにゅり、と硬い革越しに、冷えかけた肉の弾力と骨の感触が足裏へ伝わってくる。全身の毛穴が開くような嫌悪感に吐き気を催しながらも、奥歯が砕けんばかりに噛み締めた。
柄を握り直す。
両手の革紐を軋ませ、靴底で死体を強く踏みつけながら、背筋と腰のバネのすべてを使って一気に引き上げた。
唇を真一文字に結び、喉の奥から押し殺した呻きを絞り出す。
――ズチッ、ギチギチッ。
骨が鋼を擦る鈍い軋み音と、肉が裂ける不気味な音が響く。
そして、真空の栓が弾け飛ぶような湿った感触とともに、刃が一気に抜け出た。
その瞬間、傷口から行き場を失っていた赤黒い血が、ジュッと鈍い音を立てて噴き出した。
抜けた反動と、足元から伝わった勢いに身体が耐えきれず、そのまま後ろへとよろめいた。
べしゃり、と冷たい泥水の中に激しく尻餅をつく。
尾てい骨に鈍い痛みが走ったが、手の中には、確かに引き抜かれた血塗れの鉄剣が握られていた。
肩を激しく上下させながら、自分はその場に座り込んでいた。
胸を突くのは、助かったという安堵感などでは毛頭なかった。
奪ってしまった。
自分の都合で、生き延びたいというエゴだけで、目の前に転がるひとつの生命を、完全に終わらせてしまった。
自分にできることなど、もう何一つ残されていない。
ただ謝ることと――。
ふらつく手で地面を押し、膝立ちになって怪物の顔へと身を寄せた。
見開かれたまま、濁った黄色い瞳が、今も動かずに虚空を見つめている。
震える指先を伸ばし、その瞼の上にそっと触れた。
乾きかけた冷たい皮膚のざらつきと、眼球の丸みが指の腹に伝わる。
そのまま、ゆっくりと下へ撫で下ろした。
怪物の目が、静かに閉じられた。
すぅ、と。
再び、背後から冷たい風が吹き抜けていった。
洞窟の奥へと吸い込まれていく風が、洞内を満たす静寂をかすかに揺らす。
力なく息を吐き出すと、壁に手をつき、軋む両膝に力を込めてよろよろと立ち上がった。
手にした剣の刃先からは、どす黒い血が滴り落ちて地面を汚している。服の裾で刃を拭うべきか迷ったが、もはや自分の服も血と泥で汚れきっていた。
そのまま、腰に抱えていた革巻きの鞘へ、ゆっくりと刃を滑り込ませた。
シュルリ、と乾いた摩擦音を立てて、鉄刃が鞘に収まる。
カチリと金具が噛み合う小さな音が、異様に重く響いた。
鞘に取り付けられていた太い革紐を掴み、斜めに肩へと掛ける。
背中に回った鞘の重みが、ずっしりと骨身に染み込んできた。人を殺した重みそのものが、背中に張り付いたようだった。
またひとつ、冷たい風が背中を抜けていく。
薄暗い洞窟の出口の向こうには、見たこともない鬱蒼とした森の緑が、ざわめきを立てて揺れていた。
――ここを出なきゃ。
――早く、一刻も早く、ここから離れたい。
その思いが、熱を帯びた焦燥となって胸を突き動かした。
背後には、自分が命を奪った怪物の冷えゆく死体がある。目を閉じてやったとはいえ、その存在そのものが放つ禍々しさと、鼻をつく生臭い血の臭気が、洞窟の湿った空気に溶け込んで肌にまとわりついてくるようだった。
振り返りたくない。もう二度と、あの緑色の皮膚も見たくない。
もし今、死んだはずのあいつが音もなく起き上がってきたら。もし、この悪臭を嗅ぎつけた仲間が洞窟の奥から現れたら――。
妄想めいた恐怖に背中を押され、もつれる両足を無理やり前へと繰り出した。
つま先が泥を蹴り、小石を跳ね上げる。
走ろうとしても、全身に鉛を流し込まれたように足が重く、ぎこちない早足にしかならない。肩に掛けた重い革袋と、背中の鞘が走るたびに激しく跳ねて腰骨を強打し、そのたびに鈍い痛みが走る。
それでも洞窟の壁に肩を擦りつけ、縋るようにして、前方の光だけを目指して出口へと急いだ。
数歩、十数歩。
岩肌の切れ目を抜けた瞬間、洞窟の冷たく澱んだ空気から解き放たれ、濃密な外気が真正面から顔面を打った。
「っ......あ......」
思わず足が止まり、息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどの圧倒的な原生林だった。
日本で目にしてきたような、人の手で管理された公園や里山の雑木林とは根本から異質だった。
見上げるほどに太くねじ曲がった巨木が、幾重にも重なり合って空を覆い尽くしている。太古から一度も刃を入れられたことのないような樹皮には、びっしりと分厚い苔や蔦が絡みつき、地面には人の背丈ほどもある奇妙な形のシダ植物が、青黒い葉を狂い咲きのように広げていた。
湿った土と、腐りかけた落ち葉、濃厚な青臭い樹液の匂いが鼻腔を埋め尽くす。
どこまでも、どこまでも緑が連なり、人工物――電柱も、ガードレールも、アスファルトの欠片すら何ひとつ存在しない。
完全に、見知らぬ世界だった。
夢でも見間違いでもない。自分は本当に、現代日本の日常から切り離され、途方もない野生の真っ只中に放り出されたのだという現実が、冷徹な暴力となって叩きつけられる。
逃げ出そうにも、足元は生い茂る藪と、地表を這う太い木の根に阻まれていた。
途方に暮れかけたその時、足元の茂みの切れ目に、わずかな隙間があることに気づいた。
草が不自然に踏み倒され、湿った黒土が露出した、人ひとり分の幅もない細い筋。
道と呼ぶにはあまりに頼りない、微かに踏み固められた獣道だった。
それが森の奥へと、蛇のようにうねりながら続いている。
それが何の獣が通る道なのか、あるいは先ほどの怪物の仲間が踏み固めた痕跡なのか、自分には判断がつかない。
だが、刃物のように尖った枝や棘のある藪をかき分けて進む気力も体力も、今の自分には残されていなかった。
ただ、あの血生臭い洞窟から少しでも遠くへ離れたい。その本能だけに従って、自分はその細い獣道へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、ぐちゃりと湿った土が靴底を吸い寄せる。
地表に浮き出た木の根は濡れて苔むし、油断すれば足を取られて滑りそうになった。
両足の太ももは乳酸が溜まりきって小刻みに震え、膝が笑っている。頭痛は依然として側頭部を締め付け、肩に食い込む革袋の帯が皮膚を痛めつけた。
それでも、立ち止まることはできなかった。
背後を振り返る勇気すらない。ただただ下を向き、泥にまみれた自分の足先と、頼りない踏み分け跡だけを見つめながら、重い体を引きずるようにして一歩一歩を重ねていく。
どれほど歩いただろうか。数十メートルか、それとも数百メートルか。距離の感覚すら定かではなかった。
ふと、視界の端が急速に暗さを増していることに気づき、顔を上げた。
幾重にも重なり合う樹冠の隙間から、見上げる空がわずかに覗いていた。
その空が、鈍い灰色から、濁った赤銅色へと染まり始めている。
夕暮れだった。
木々が密集する森の中は、開けた平地よりも遥かに早く夜が訪れる。
枝葉の天井が残光を遮り始め、周囲の木々の根元には、急速に濃密な闇が澱のように溜まり始めていた。
冷たい風が原生林の木々をざわざわと揺らし、遠くの茂みの奥で、ガサリと何かが蠢く気配がした。
日が、暮れていく。
街灯も、家の明かりも、コンビニの看板もない。
かつて経験したことのない、本物の漆黒の『夜』が、すぐそこまで迫っていた。
細い獣道を夢中で辿り続けた先で、ふいに視界が開けた。
そこだけ密集していた巨木が途切れ、学校の教室ほどの広さを持った丸い空間が広がっていた。地面には丈の低い草が疎らに生えているだけで、頭上を覆い尽くしていた枝葉の天井がぽっかりと抜け落ちている。
立ち止まり、見上げた。
丸く切り取られた視界の先に、夕闇に沈みゆく薄暗い空が広がっている。赤銅色の光はすでに失われ、冷たい濃紺と紫のグラデーションが、音もなく空を塗りつぶしていた。
――これ以上進むのは、危険だ。
頭で考えるより早く、全身の皮膚が粟立ち、本能がそう告げていた。
夜の帳が下りれば、ここは完全な闇に包まれる。ましてやこんな開けた広場では、どこからでも姿が見通せてしまう。もし夜行性の獰猛な獣や、あの化け物の群れが通りかかれば、逃げ場もなく格好の獲物にされるだけだ。
息を殺し、広場から数歩後退して再び森の縁へと身を引いた。
震える視線で周囲の木々を見回す。身を隠せる場所はどこかにないか。
薄闇の中、広場のすぐ脇にそびえ立つ、ひときわ太い老木の根元に目が留まった。
長い年月を経て風雨に削られたのか、幹の根元が大きく裂け、大人の身体がすっぽりと入り込めるほどの深い洞が空いていた。
足音を忍ばせ、吸い込まれるようにその洞へ駆け寄った。
濡れた木の皮の匂いと、乾いた木屑の匂いが立ち込める狭い空間。背中を丸め、泥だらけの身体を滑り込ませると、まるで測ったようにぴったりと収まった。
三方を分厚い樹皮に囲まれたことで、吹き抜ける冷たい風が遮られ、ほんのわずかだけ寒さが和らぐ。
壁に背を預け、膝を抱え込んだ瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
荒い呼吸とともに、耐えがたい生理的な苦痛が喉元を襲った。
――喉が、焼けるように痛い。
洞窟での激しい嘔吐で胃液をぶちまけ、その後の恐怖と疲労で汗をかき続けた身体は、極限まで水分を失っていた。
食道の内壁が貼り付き、息を吸い込むたびに乾いた喉の奥が擦れ合って激痛が走る。舌は乾ききって上顎に張り付き、唾液の一滴すら滲み出てこない。
「水......水、ないのか......」
掠れきった声で呟きながら、肩から外した革袋を膝の上に抱え込んだ。
手探りで袋の口を縛っていた革紐を解く。薄暗い木の洞の中で、目を凝らしながら、初めてこの身体の持ち主の所持品を改めた。
中から現れたのは、見たこともない実用一点張りの道具の数々だった。
手のひらほどの大きさの、使い込まれた小ぶりの片刃ナイフ。
丁寧に巻き取られた丈夫な麻紐と、指の太さほどの短いロープ。
煤で黒ずんだ硬い鉄片と、角の丸い灰色の石――火打ち金と火打石だろう。
そして、手のひらに収まる大きめの二枚貝。貝殻の表面には、擦れかけた赤い染料で何かの印が描かれており、貝の隙間からは独特の油と乾いた薬草のような微かな匂いが漏れていた。
さらに、薄い布の小袋に分けられた、カチカチに硬化した黒っぽい干し肉の塊。
過酷な世界を生き抜くための、無駄を極限まで削ぎ落としたサバイバルの道具たち。
そして、袋の底から現れたのは、大きなしずくのような形をした、先端に木製の栓が差し込まれた分厚い革袋だった。
持ち上げた瞬間、ずっしりとした重みとともに、タプン、と内部で液体が揺れる音がした。
――水だ。
指先が狂ったように震えた。
革袋を抱き寄せ、固くねじ込まれていた木の栓を、指に爪を立てて力任せに引き抜く。
ポン、と湿った音がして栓が外れた。
口元に近づけると、革袋の内側から、冷たさと、微かな湿り気を含んだ匂いが漂ってくる。
だが、見知らぬ世界の、見知らぬ他人の荷物だ。毒や、得体の知れない薬品だったらどうする?
恐怖が頭をよぎり、栓の口に指の腹を当て、わずかに滲み出た液体を、乾いた舌先でぺろりと舐めた。
冷たくはない。ぬるい。
鞣した獣の革の脂っこい匂いと、鉄さびのような風味が混ざり合い、決して美味いとは言えない雑味だらけの味だった。
だが――間違いなく、水だった。
「っ......あ......!」
理性が吹き飛んだ。
革袋の注ぎ口に唇を押し当て、一気に傾けた。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
ぬるい水が、焼けるように熱を持っていた喉仏を押し広げ、干からびた食道へと滑り落ちていく。
砂漠に水が染み渡るように、乾ききった胃壁が水分を吸い上げ、全身の細胞が歓声を上げているかのような錯覚を覚えた。美味いとか不味いとかではない。生きるための水分が、命そのもののように身体の内側を満たしていく。
無我夢中で喉を鳴らし、貪るように呷り続けた。
だが――半分ほど喉に流し込んだところで、ハッと我に返った。
――待て。全部飲んで大丈夫なのか?
慌てて唇を離し、息を荒らげながら革袋を手元に戻した。
ここは、蛇口をひねれば透明な水が出る日本じゃない。コンビニも自販機もない。深緑の原生林の只中であり、次に行き当たる水場がどこにあるのか、そもそも飲める水なのかすら分からないのだ。
未知の世界において、清潔な水は、金や食料以上に命に直結する。
喉はまだ「もっとくれ」と激しく渇望していたが、強い意志でそれを押し殺した。
震える手で木の栓を拾い上げ、革袋の注ぎ口にぎゅっと力任せに押し込んで蓋を閉じる。
ずっしりと軽くなった革袋を胸に抱きしめながら、深く、長く息を吐き出した。
背中を包む木の洞の外では、いよいよ光が消え去り、夜の深い帳が原生林を飲み込もうとしていた。
すぅ、と冷気が足元から這い上がってくる。
喉の激痛が引いたことで、今度は急速に身体が芯から冷え込んでいることに気づいた。汗ばんでいた背中や首筋が冷たい外気で一気に冷やされ、ガタガタと歯の根が合わなくなる。
身を縮め、薄れゆく残光を頼りに、自分が今身につけている衣服を手で探り、改めて見下ろした。
肌の上に直接着ているのは、粗く織られた厚手の麻の長袖シャツ。その上に、擦り切れた飾り気のない鞣し革のベストを重ねている。下半身は同じく泥と草汁にまみれた麻のズボンで、足元には膝下近くまで覆う頑丈な革のブーツを履いていた。
どれも実用的で、現代の化学繊維とは違う、ずっしりとした重みと硬さがある。
ふと、右足のブーツに手を触れたとき、硬い異物の感触に指先が止まった。
目を凝らしてよく見ると、革ブーツの右足外側、足首のすぐ近くに小さな細い鞘が頑丈な糸で縫い付けられていた。その中に、手のひらにすっぽり収まるほどの小さな短剣――靴底に忍ばせるような護身用のナイフが収まっていた。
こんな死角にまで、武器が仕込まれている。
この身体の持ち主が、どれほど過酷で、常に命のやり取りが隣り合わせにある世界で生きてきたのかを無言で物語っていた。
衣服も、革のブーツも、何から何まで泥と返り血にまみれていた。
泥で汚れた指を額に当て、額に張り付いていた髪をぐしゃりとかきあげる。
汗と泥、そして先ほどの怪物の飛沫でバサバサに固まり、ひどくごわついていた。首の後ろに手をやると、細い革紐で一つに束ねられている。だが、それほど長くはない。首筋を少し覆う程度の短さだった。
指先が触れる頭皮の輪郭も、髪の硬さも、自分の記憶にあるものとはどこか違っていた。
ぐぅ、と腹の底が鈍く鳴った。
胃の中のものをすべて吐き出した後の内臓が、強烈なエネルギー不足を訴えかけている。
革袋の中から、先ほど見つけた小袋を取り出し、中から黒ずんだ干し肉の塊をひとつ引き抜いた。
木片のようにカチカチに乾燥した肉片。鼻を近づけると、強い塩の香りと燻煙、そして得体の知れない獣の脂の匂いがツンと鼻を突く。
それを口に咥え、思い切りかじりついた。
「っ......かた......」
前歯では到底噛みちぎれそうになかった。
奥歯の隙間に押し込み、ギリギリと音を立てながら、すりつぶすように強く噛みしめる。
なんの獣の肉だろうか。牛でも豚でも鶏でもない。野生の獣特有の強い臭みと、舌を刺すような塩辛さが口いっぱいに広がる。現代の柔らかな食品に慣れきった顎の筋肉が痛んだ。
それでも、必死になって咀嚼を続けた。
唾液が滲み出し、時間をかけて噛み砕いていくうちに、カチカチだった繊維が次第にほぐれ、凝縮されていた濃厚な脂と肉の味が滲み出てくる。
十分に柔らかくなった塊を、喉を鳴らして胃袋へと飲み込んだ。
硬い肉塊が食道を通り、胃の底に落ちる。
すると不思議なことに、冷え切っていた胃の腑から、じんわりと小さな熱が生まれ、それが血管を通じて身体の末端へと広がっていくような感覚があった。内臓が活力を取り戻し、だんだんと身体の芯が熱くなっていく。
生きるための燃料を、泥臭く補給した瞬間だった。
残りの干し肉を袋に戻し、革袋と腰袋の口をぎゅっと閉じた。
そして、二つの袋を木の洞の一番奥、狭い窪みへと押し込んだ。自分が手前に座り込めば、外から荷物が見えることも、奪われることもない。
深く腰を落とし、体育座りのように両膝を抱え込んだ。
そして、肩から外した鞘入りの鉄剣を、両腕でしっかりと胸に抱き抱える。
冷たい鉄と硬い革の感触。命を奪った忌まわしい凶器でありながら、今の自分にとっては、この狂気の闇から身を守る唯一の拠り所だった。
ざわざわ、と木々の梢が冷たい風に揺れる。
広場を見下ろす木の洞の外は、いつの間にか一筋の残光すら失われ、完全な夜に覆い尽くされていた。
月明かりすら届かない、圧倒的な暗黒。
指先すら見えない闇の中で、剣を抱きしめたまま、ただ一人、震えながら息を潜めた。
(続く)