第一話:奪った命と、汚れた手
生きるために、その命を奪えるか――
自分の世界は、六畳間のワンルームと、誰とも言葉を交わさない夜勤のバイト先、そして徒歩三分にあるコンビニの往復だけで完結していた。
高校を卒業して就職した小さな会社は、職場の空気に馴染めず数ヶ月で逃げるように辞めた。それからは夜間の倉庫仕分けや清掃など、黙々と作業するだけの単発バイトで最低限の生活費を稼ぎ、それ以外の時間はすべて部屋に閉じこもっていた。
他人の視線が怖くて、昼間はまともに外を歩けない。昼夜逆転した生活の中、自分が外気に触れるのは、夜勤の行き帰りか、深夜二時にコンビニへ向かう薄暗い夜道だけだった。液晶ディスプレイの青白い光に照らされながら、誰かが作った物語の主人公に自分を重ね、クリック一つで魔物を倒し、経験値を稼ぐ。画面の向こうの英雄たちはどれだけ傷ついてもポーション一つで立ち上がり、返り血で汚れることもなければ、奪った命の重さに吐き気を催すこともない。
そんな清潔で安全な箱庭のなかで、自分はただ、息を殺して時間を浪費していた。
部屋に迷い込んだ小さなハエトリグモすら、丸めたティッシュでそっと包んでベランダから逃がすような男だ。害意を向けることも、向けられることにも耐えられない。世界から完全に爪弾きにされた、無害で無価値な存在。それが、自分という人間だった。
最期は、驚くほど呆気なく、そしてみじめだった。
四十八時間ぶっ続けでゲームをやり込み、激しい空腹に耐えかねて深夜のコンビニへ向かった帰り道。雨で濡れた急勾配の階段で、すり減ったサンダルの底が滑った。
手すりを掴もうと伸ばした手は空を切り、重力に引かれるまま視界がぐるりと反転する。
後頭部をコンクリートの角に激突させた瞬間、バキリ、と耳の奥で硬いものが砕ける音がした。痛みすらまともに感じる暇はなかった。買い込んだカップ麺とペットボトルがアスファルトを転がっていく乾いた音を聞きながら、ぬるい雨水が首筋を伝うのを感じて――そこで、自分の人生の幕は下りた。
誰にも惜しまれず、誰の記憶にも残らない、ただの自滅。
冷たくなっていく意識の底で、「ああ、せめて部屋のゴミくらい捨てておけばよかったな」と、それだけをぼんやりと思っていた。
次に目を覚ましたとき、視界を塞いでいたのは薄暗く湿った天井だった。
「......っ、が......」
肺に空気を吸い込もうとして、強烈な喉の渇きにむせ返る。
コンクリートの硬さではない。背中に当たるのはゴツゴツとした岩肌と、ひんやりと冷たい泥の感触だった。鼻腔を満たすのは、カビと腐葉土、そしてどこか動物の排泄物に近い嫌な匂い。
身体を起こそうとしたが、鉛のように重い。自分の手を見下ろして、息を呑んだ。
白くふやけてマメ一つなかったはずの指先は、泥と擦り傷で汚れ、爪の間には黒い土が詰まっている。着ているのは着古したスウェットではなく、粗末な麻の布切れと、硬く鞣された革のベスト。
そして、そのすぐ傍らに横たわっていたのは――長さ六十センチほどの、刃こぼれした金属の塊。
使い古された、無骨な鉄の剣だった。
「な、んだよ......これ......」
声が震えて、掠れていた。自分の声なのに、どこか聞き慣れない響きがある。
なぜこんなところに本物の刃物が転がっているのか。恐ろしくて触れることすらできず、無意識に身を引いた。
周囲を見渡すと、そこは自然に穿たれた洞窟のようだった。立ち上がれば頭が届きそうな低い天井と、自分のいた六畳間より少し広い程度の、ごつごつとした岩の空間。十数歩ほど離れた出入り口とおぼしき場所からは、木漏れ日のような微かな光が、宙に漂う塵を照らして光の筋を作っている。外から聞こえてくるのは車の走行音でも、都会の雑踏でもない。聞いたこともない鳥の不気味な鳴き声と、木々をざわめかせる重苦しい風切り音だけ。
頭の芯に、言葉にならない違和感と恐怖が雪崩のように押し寄せてくる。
夢なのか。それとも、あの階段で本当に死んで、頭がおかしくなってしまったのか。
わけがわからない。ここはどこだ。なぜ自分の手がこんなに汚れ、見覚えのない服を着ているのか。
頬を撫でる冷たい風も、肌を刺す湿気も、心臓が肋骨を激しく叩く衝撃も、すべてが痛いほど本物だった。
現実味のない混乱のなか、その場から立ち上がることすらできずにいた、その時。
洞窟のさらに深い闇の奥から、カタカタと硬いものが擦れ合う音が響いた。
鼻を突く、腐った生ゴミと錆びた金属が混ざり合ったような悪臭。
暗がりのなかから、ぬっと姿を現したのは――奇怪な人型の異形だった。
背丈は自分の腰ほどしかない。しかし、子供のそれとはまるで違っていた。泥と脂でぬめる濃い苔色の皮膚が、洞窟の微かな光を鈍く跳ね返している。
おとぎ話の絵本やゲームで見る、小鬼の姿に似ていた。だが、画面や紙の上の記号とは何もかもが違う。
「ひっ......!」
情けない悲鳴が喉から漏れ、腰を抜かしたまま、両手両足を使ってなりふり構わず泥の地面を後ずさった。
距離を取ろうとする自分の視界に、その異様な顔がはっきりと焼きつく。横に長く尖った耳、潰れたように低い鼻。突き出た下顎からは黄ばんだ乱杭歯が覗き、血走った濁った黄色い瞳が、じっとこちらを射抜いていた。
そこにあるのは、容赦なく獲物を仕留め、喰らい尽くそうとする剥き出しの捕食者の殺意だ。
――殺される。
その手が、偶然にも冷たく硬い感触に触れる。
さっき傍らに転がっていた、あの剣だった。
考える余裕などなかった。藁にもすがる思いでその柄を両手で掴み、がたがたと震えながら切っ先を突き出す。
「く、来るな......っ! こっちに来るなよぉ......っ!」
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃに歪ませ、上ずった裏声で叫ぶ。
威嚇のつもりだったが、喉から絞り出されたのは、ただの惨めな哀願だった。
切っ先の向こうに見える怪物の姿は、どこまでもアンバランスで不気味だった。痩せ細った首や手足に対して、下腹だけが異様にぽっこりと膨らんでいる。腰には血と汚物で黒ずんだ獣の皮を巻き、その右手には――木の枝に鋭利な割れ石を蔓で括りつけただけの、粗末な石斧が握られていた。
コンビニに行くことすら億劫で、他人の視線から逃げて部屋に閉じこもっていただけの自分が、なぜこんな場所で、化け物相手に震えながら剣を握りしめているのか。
「ギャッ!」
こちらの怯えきった姿を見て完全に侮ったのか、その怪物は嘲笑うような奇声を上げ、脂汗を撒き散らしながら跳びかかってきた。
鼻が曲がるほどの強烈な体臭と熱気が、真正面から叩きつけられる。
反射的に身体をのけぞらせる。
頬のすぐ横を石斧の刃先が掠め、風を切る音が耳元で鳴った。そのまま背後の岩肌を激しく打ち据え、ガツンと鈍い火花が散る。
――無理だ。戦うなんて絶対にできない。
あまりの恐怖と間近で浴びた殺意に、わずかに残っていた気力すら完全に消し飛んだ。
怖い。逃げたい。部屋に閉じこもって、布団を被っていたい。
激しい動悸で胸が張り裂けそうになり、息が上手く吸えない。
剣を両手で握りしめたまま、立ち上がることすらできず、化け物に背を向けて四つん這いになった。ごつごつと隆起した岩肌や泥、水たまりに膝を打ちつけ、尖った小石が薄い布越しに膝の皿へめり込むのも構わず、微かに光が差し込む洞窟の出口へ向かって、必死の思いで這うように逃げ出す。
「ギヒヒッ!」
背後から嘲笑と、肉を断ち切ろうとする追撃の足音が迫る。
終わった、追いつかれる――そう思った瞬間だった。
ぐちゃり、と濡れた苔を踏み抜く鈍い音が響き、背後で足音が乱れた。勢い余って踏み込んできた小鬼が足元を滑らせ、ほんの一瞬、その体勢が前方に大きく崩れる。
咄嗟に振り返った自分のすぐ目の前に、無防備な背中と首元が投げ出されていた。
隙だらけだった。素人の目から見ても、今なら刺せる。
手にした剣の柄を両手で握り直す。指先は氷のように冷たくなっていた。
――本当に殺すのか?
部屋に閉じこもっていた頃の記憶がフラッシュバックする。虫一匹まともに潰せず、ティッシュでそっと包んで外に逃がしていたような自分が、命を奪う。
どんなに醜くても、こいつは動いて、息をして、痛みに顔を歪める生き物だ。それを、この手で?
「ガアッ!」
化け物が体勢を立て直そうと顔を上げた。その目が、明確に自分の喉元を捉えている。
迷っている猶予はなかった。やらなければ、こいつの石斧が自分の頭蓋を叩き割る。
「う、あぁぁぁぁっ!」
喉が千切れるほどの絶叫が口を衝いて出た。
目をつぶりそうになるのを必死で耐え、体重のすべてを乗せて切っ先を突き出す。
鈍い抵抗感。
まるで厚手の生肉に硬い棒を無理やり押し込むような、ぬちゃりとした生々しい感触が、剣の柄を通じて両腕、そして骨にまで伝わってきた。
「ギャ、ギ......ッ!?」
緑色の胸に、刃が半ばまで深々と突き刺さっていた。
至近距離で目が合った。苦悶に歪む表情。瞳孔が開きかけた黄色い瞳。口からゴボリと赤黒い泡が溢れ、その細い両手が、刃を引き抜こうと死に物狂いでしがみついてくる。
温かい。熱い。
こいつの体温と、傷口から噴き出した生温かい液体が、剣を握る自分の手に容赦なく降りかかる。
「ひっ......!」
反射的に剣を引き抜こうとしたが、骨に引っかかっているのかびくともしない。化け物は喉をヒューヒューと鳴らしながら、痙攣し、やがてその小さな手から力が抜けてだらりと垂れ下がった。
どさりと、地面に崩れ落ちる。
動かない。胸の上下も止まった。
静まり返る洞窟の中に、ただ自分の荒い呼吸音だけが響いていた。
手が、指が、全身が狂ったようにガタガタと震えている。
視線を落とすと、自分の両手はどす黒い血液でべっとりと染まっていた。鼻を覆うのは、強烈な血の匂い。生きているものを、自分の手でただの物に変えてしまったという、取り返しのつかない絶対的な事実。
その感触が、匂いが、脳の芯を直接引っ掻き回した。
胃の底から猛烈な吐き気がせり上がり、たまらずその場に崩れ落ちた。
両手を地面につき、激しく嘔吐する。
胃液と苦い胆汁が、喉を焼けつくように通り抜けて岩肌にぶちまけられた。それでも吐き気は治まらず、空っぽの胃を激しく痙攣させながら、何度もえずき続けた。
あふれ出た涙で視界が歪み、伏せた視線の先では、足元の濁った水たまりだけが揺れていた。
これが、命を奪うということなのか。
経験値を稼ぐとか、モンスターを倒すとか、そんな軽い言葉で済むようなものじゃない。
たった一匹の、子供ほどの大きさしかない化け物を殺しただけだ。
それなのに自分は、力が入らない膝を起こすことすらできず、暗い洞窟の床で泥と吐瀉物にまみれながら、いつまでも涙を流して震え続けていた。
(続く)