第三話:耐え忍ぶ夜と、瞼の裏の悪夢
これほどまでに、何も見えない夜を経験したことはなかった。
暗闇、という言葉が生ぬるい。
日本の都市部であれば、深夜の路地裏であっても街灯の鈍い光が届き、自販機の灯りやコンビニの看板が夜空を淡く染め上げている。六畳間のアパートでカーテンを閉め切った部屋ですら、冷蔵庫の作動ランプや充電器の小さなLEDが、周囲の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせてくれていた。
だが、ここにあるのは完全なる「無」だった。
目の前にかざした自分の手のひらすら、輪郭の一片も見えない。
瞼を開けているのか、それとも閉じているのかすら判別できず、視覚という感覚そのものを根こそぎ奪い去られたかのような錯覚に陥る。
広場を囲む巨大な木々の葉擦れの音、吹き抜ける冷たい風の唸り声だけが、暗黒の奥から絶え間なく鼓膜を震わせていた。
――寒い。
容赦のない底冷えが、じわじわと足先から這い上がってきていた。
日暮れ前までは生暖かい湿気に満ちていた原生林は、日が沈んだ途端に恐ろしい勢いで熱を失い、冷気を吐き出し始めていた。
老木の洞の中に体育座りで縮こまり、両腕で膝を抱え込んでいるものの、冷え切った木の根と湿った土が、ズボンの生地を通り越して尻と太ももから無慈悲に体温を奪っていく。
肌着代わりに着ている麻のシャツも、さっき洞窟で流した冷や汗と泥、そしてあの怪物の返り血を吸ったまま生乾きになっており、それがまるで冷たい湿布のように背中に張り付いていた。
「っ......く......っ、ひ......」
噛み締めた奥歯の隙間から、意思とは無関係に小刻みな息が漏れる。
ガチガチと、歯の根が合わずに音を立てて鳴った。
全身の筋肉が寒さで強張り、震えを止めようと力を込めれば込めるほど、かえって痙攣のような微細な振動が胸や太ももを支配していく。
火を起こしたい。
わずかでもいい、暖を取りたい。
革袋の中には、確かに火打石と火打ち金が入っていた。先ほど中身を確認したとき、指先で触れたあの無骨な鉄片と角の丸い石。
だが、今の自分にはどうやってそれを使えばいいのか見当もつかなかった。
ただ石と鉄を打ち合わせれば火が点くわけではないことくらい、おぼろげな知識として知っている。火花を捉えて燻らせるための、乾燥した綿や薄い樹皮――火種となるものが必要なはずだ。
だが、この湿り気を含んだ原生林の中に、そんな都合のいい乾燥した落ち葉がどこにあるというのか。ましてや一寸先も見えないこの暗闇の中で、手探りで火口を探し出すことなど不可能だった。
それに――仮に火が起こせたとして、焚き火などして本当に大丈夫なのだろうか。
暗黒の森の中で赤々と炎を燃やし、白い煙と匂いを立ち上らせれば、それは遠くからでも一目で分かる巨大な目印になる。
あの緑色の小鬼が、あるいはそれ以上に凶悪な夜行性の獣が、光に引き寄せられてこの木の洞に群がってきたら?
逃げ場のないこの狭い窪みの中で、獣や怪物に取り囲まれる光景を想像しただけで、心臓が凍りつきそうになった。
火を起こせないだけではない。仮に火が点いたとしても、それは化け物たちに自ら居場所を教える自殺行為でしかないのだ。
手探りで、胸元に抱え込んだままの鞘入りの鉄剣をぎゅっと抱きしめ直した。
革巻きの鞘に頬を押し当てる。冷え切った革と金具の匂いが、鼻腔をかすかに刺激した。
人を殺めた凶器であり、返り血を吸ったおぞましい鉄の棒。それでも、この冷たい塊だけが、今の自分が縋りつける唯一の防壁だった。
ザッ、と。
不意に、洞の外、広場の枯れ草を踏みしめるような音が耳を打った。
心臓が跳ね上がり、呼吸が喉の奥で詰まった。
全身の毛穴が収縮し、寒さとは異なる鋭利な悪寒が背筋を駆け上がる。
――なにか、いる。
息を止めた。心臓のドクドクという激しい鼓動すら外に漏れ聞こえるのではないかと恐ろしくなり、胸を圧迫するように膝を抱え込む。
暗闇を見つめようと目を凝らすが、網膜に映るのは依然として濃密な黒だけだ。
カサリ。
先ほどよりも近い。
四本足の獣だろうか。体重を乗せて泥濘んだ土を踏みしめ、低く何かを嗅ぎ回るような、荒い鼻息の音がかすかに風に乗って聞こえてきた。
自分と、その何者かを隔てているのは、数メートルの空間と、老木の樹皮一枚だけだった。
もし洞窟からここへ逃げてくる際、自分が木の枝を折ったり、泥に深い足跡を残していたら?
服に染み付いた怪物の血の臭いや、自分の汗の臭いが、外へ漏れ出して届いていたら――。
見つかれば終わる。
こんな狭い窪みの中では、剣を振り回すことすらできない。頭から食い破られるか、引きずり出されて八つ裂きにされるだけだ。
――来ないでくれ。頼むから、通り過ぎてくれ。
心の中で、神仏の名すら定かでない無様な祈りを狂ったように繰り返した。
爪が手のひらに食い込み、奥歯がギチギチと音を立てる。
その獣は、広場の縁をゆっくりと徘徊しているようだった。
時折、足元の小枝を踏み折るパキリという硬い音が響き、そのたびに全身がビクリと跳ねる。
永遠にも思える数分間。張り詰めた糸のような緊張が、頭蓋骨の内側をギリギリと締め上げた。
やがて――。
フシュー、と太い吐息の音が遠ざかり、草を踏む足音は広場の向こう、鬱蒼とした森の奥へと消えていった。
「......っ、ふ......はぁっ......」
肺の底に溜まっていた空気を、音を立てないようにゆっくりと、細く吐き出した。
額からたらりと冷や汗が流れ落ち、冷えた頬を伝う。
助かった。だが、安堵感など微塵も湧かなかった。ただ単に、今この瞬間の死が数十分、あるいは数時間先延ばしにされたに過ぎないのだという現実が、重たくのしかかるだけだった。
頭痛がひどかった。
後頭部の打撲痕がズキズキと脈打つように痛み、こめかみの奥が熱を持って締め付けられる。
日中の極度の緊張、命のやり取り、激しい嘔吐による脱水、そして今の寒冷。現代社会でぬくぬくと育った自らの軟弱な精神と、この過酷な異世界で酷使されてきた見知らぬ肉体の双方が、限界を超えて悲鳴を上げていた。
意識が重く沈み込み、瞼が自然と下がってくる。
眠りたい。
ただ丸くなって、何も考えずに眠ってしまいたい。
そう思って、瞳を閉じた――その瞬間だった。
ドクンッ!
網膜の裏側に、鮮烈すぎる色彩の像が焼きつくように弾け飛んだ。
濁った、黄色い瞳。
自らの胸に突き刺さった鉄剣を、信じられないものを見るように見開いた怪物の、死の瞬間の苦悶に歪んだ顔。
――ギチッ、ズチッ!
骨が鋼を擦る、あの吐き気を催すような摩擦音が耳の奥で爆音となって蘇る。
怪物の鎖骨を踏みつけた足裏の、生温かく硬い感触。
引き抜いた瞬間に吹き出した、赤黒い泡立つ血液の鉄さびた臭気。
そして――自分の掌にべっとりと付着していた、粘り気のある熱い血の温度。
「ひっ......!?」
短い悲鳴を呑み込み、弾かれたように目を見開いた。
荒い呼吸とともに飛び起きかけ、頭上の幹の内壁に頭をぶつけそうになって反射的に縮こまる。
胸が狂ったように早鐘を打っていた。
喉がヒリつき、胃の底から再び酸っぱい胃液がせり上がってくる。
慌てて両手を口元に当てた。
だが、暗闇の中で触れた自分の指先は、数時間前に怪物の血で汚れた感触そのままで、まだ生温かい体液がこびりついているのではないかという強烈な錯覚に襲われた。
服の膝のあたりで、なりふり構わず両手を擦りつける。
ゴシゴシと、皮膚が擦り切れるほど強く、何度も、何度も。
だが、拭っても拭っても、あの「生きている肉を裂いた感触」と「骨を断ち割った衝撃」が、手のひらの皮膚の奥、骨の髄にまでこびりついて消えてくれない。
「う、そだろ......っ、消えてくれ......」
掠れた声で喘ぎながら、膝に頭を埋めた。
目を閉じることができない。
瞼を下ろせば、暗闇の中にあの怪物の断末魔の形相が鮮明に浮かび上がり、自分が奪った命の重みが喉元を締め上げてくる。
眠ることすら許されない。
自分が生き延びるために他者を殺したのだという事実が、逃げ場のない悪夢となって精神を食い破ろうとしていた。
気を紛らわせたかった。
少しでも、この狂気じみた思考のループから意識を逸らさなければ、夜が明ける前に発狂してしまう。
震える手で、洞の奥の窪みに押し込んであった革袋を引き寄せた。
何も見えない。けれど、手のひらの触覚だけを頼りに、中に収められている物を一つひとつ手探りで確かめていく。
硬い干し肉の入った布袋。
先ほど命を救ってくれた革水筒。木栓がしっかりと閉まっていることを指先でなぞって確認する。
火打ち金と火打石。
麻紐の束。
そして、手のひらに収まる平たい二枚貝。
指先で貝の合わせ目を弄ると、隙間からわずかに油分を含んだ軟膏のようなものが指に付着した。独特のハーブのようなツンとした薬草の匂いが鼻をかすめる。傷薬か、あるいは化膿止めの軟膏だろうか。大事そうに紐で括られていた。
そして、革袋の最深部――底の縫い目の隅に、小さな硬い感触が指先に触れた。
「......なんだ、これ......?」
つまみ出してみると、それは細い革紐に通された、指の関節ふたつ分ほどの小さな長方形の金属片だった。
表面を親指の腹でなぞる。
薄く、ひやりと冷たい板の感触。あちこちに何かと擦れ合ったような、無数の細かな引っかき傷が指先にざらりと触れた。
だが、その板の中央には、明らかに人工的に刃物か何かで彫り込まれたような深い凹凸があった。
目を凝らしても暗闇で文字は見えない。
指先を滑らせてその形状を追ってみる。
直線と斜線が交差するような、幾何学的な刻印。
アルファベットでも、漢字でも、カタカナでもない。
見たことも、触れたこともない、異世界の文字――。
ドッグタグ、認識票のようなものだろうか。
兵士や傭兵が、自分が戦死したときに身元を証明するために首から提げるような金属板。
冷たい金属片を握りしめながら、息を呑んだ。
――この身体の持ち主は、誰なんだ?
改めて、突きつけられる疑問。
粗末だが実戦的な衣服。使い古され、手入れの行き届いた武器と道具の数々。ブーツに仕込まれていた短剣。
そして、この古びた金属片。
この身体の持ち主は、自分のような無気力な引きこもり青年とは何光年も離れた、血生臭い世界で生きてきた人間なのだろうか。生きるために刃を握り、日々命を削り合ってきた、本物の兵士か傭兵のような――。
その男の魂は、今どこへ行ってしまったのだろうか。
自分があの日本の階段から落ちて意識を失ったように、この男も戦闘で頭を強打して、命を落としてしまったのだろうか。
そして空っぽになったこの肉体に、何の因果か、自分のような役立たずの魂が滑り込んでしまったのか。
もしそうだとしたら――。
自分は、この男の人生の抜け殻に入り込み、その道具を使い、その肉体を動かして、生き延びようともがいていることになる。
じわりと、目頭が熱くなった。
突然、激しい郷愁が胸を突き破るように込み上げてきた。
あの、みすぼらしい六畳間のアパートの光景が、鮮やかに脳裏をよぎる。
万年床の、ぺちゃんこになった煎餅布団。
部屋の隅でかすかにファンを回し続ける安物のデスクトップパソコン。
散らかったコンビニのゴミ袋や、飲みかけのペットボトル。
夜勤バイトから帰ってきた明け方、駅前のコンビニで買った温かい肉まんと、カップのインスタント味噌汁の匂い。
あの部屋にいた頃、自分は自分の人生を呪っていた。
社会に適応できず、他人とまともに会話もできず、親からも見放され、ただ息をしてゲームをして、時間を浪費して消えていくだけの無価値な存在だと、毎日自己嫌悪に苛まれていた。
何もない、空っぽな日常。退屈で、鬱屈としていて、死んでしまいたいとすら思ったことがあった。
だが――。
――帰りたい。
胸の奥から、絞り出すような思いが溢れ出した。
あの部屋には、誰かが自分を殺しにくる恐怖なんてなかった。
布団を被れば温かく、蛇口をひねれば透明で冷たい水がいくらでも出た。
他人の生き血を浴びることも、怪物の骨を足で踏みつけて剣を引き抜くことも、暗闇の中で獣の足音に怯えて震える必要もなかったのだ。
なんて平和で、安全な世界に、自分はいたのだろう。
失って初めて、あの無味乾燥だった日常が、どれほど奇跡的な温もりに満ちていたのかを思い知らされる。
「帰りたいよ......っ、母さん......誰か......」
声を出せば獣に気付かれる。
だから声を殺し、両手で顔を覆って、ただ泣いた。
ぽろぽろと零れ落ちる大粒の涙が、泥で汚れた指の隙間を伝い、膝の上に染みを作っていく。
泣いたところで、誰も助けに来てはくれない。日本の警察も、救急車も届くはずがない、どこかも分からない世界の、底知れない暗闇の中なのだ。
それでも、涙を止めることはできなかった。
孤独と、寒さと、後悔と、殺人の罪悪感。
そのすべてが濁流となって押し寄せ、細い精神の堤防を決壊させていた。
どれほどの時間が流れただろうか。
泣き腫らした目は痛覚を失いかけ、鼻水をすする音すら立てないよう服の袖で必死に拭い続けた。
やがて、極限の緊張と寒冷の中で、身体から少しずつ生気が失われ始めた。
足先の感覚が麻痺し、まるで氷の塊をぶら下げているかのように冷たい。
それでも、洞の奥に押し込んだ荷物と、胸に抱いた鉄剣だけは離さなかった。
死にたいと泣きながら、決して手放せない武器。
自らの心の奥底には、自分自身でも気付いていない、泥臭く醜い「生への執着」が確実に根を張っていた。
ふと――。
潜んでいる老木の隙間から流れ込んでくる空気が、わずかに色を変えたような気がした。
顔を上げた。
相変わらず周囲は暗い。けれど、黒一色だった視界の輪郭が、ほんのわずかに、墨汁を薄めたような淡い藍色へと滲み始めていた。
広場の向こう、木々の梢の隙間から見上げる東の空。
そこにあった圧倒的な暗黒が退き、薄い白銀の光が、静かに夜の帳を押し上げようとしていた。
夜明けだった。
朝の澄んだ空気が、昨夜よりもさらに研ぎ澄まされた冷たさとなって肌を刺す。
遠くの木々の上で、夜を越えた見知らぬ鳥が、甲高い声で短く鳴き交わした。
「......あ......」
掠れた吐息が、白い霧となって口からこぼれた。
生き延びたのだ。
あの恐怖と悪夢の漆黒の夜を、自分はただ一人、この木の洞の中で耐え抜いた。
けれど、昇りくる朝の光を見つめる瞳に、歓喜の色はなかった。
照らし出された自分の両手は、泥と、乾ききって黒ずんだ怪物の血液で汚れたままだ。
そしてどこまでも広がる深い森は、その淡い陽射しを浴びてもなお、巨大で、無慈悲で、人間を拒絶するように鬱蒼と生い茂っていた。
夜が終わっただけだ。
この過酷な世界での、生き残りを懸けた地獄の二日目が、今まさに始まろうとしていた。
(続く)