05
母がインフルエンザに罹患したとき、ぼくとなのかは祖父母宅に預けられたことがある。あれはぼくが中学3年の時だ。ちょうど受験勉強の真っただ中だということと、父が単身赴任でいないことが重なった。
母も昔ピアノを習っていたらしい。消音機能のある電子ピアノだが、ぼくは祖父母の家に来ると必ずそのピアノを弾いていた。ぼくがあの曲を弾いたのは、一度きりだ。深夜に、ほんの少し音を出して、ラジオから流れてきたあの音楽を奏でた。
まさかそれをなのかが聞いているとは思わなかった。でも、なのかは否定をしなかった。母に告げ口もしなかった。誰の音楽か教えてと言われたけれど、ぼくはなのかには教えず、「忘れた」とだけ答えるにとどめたのだ。
だから......というわけではない。なのかとだけはさほど関係が悪いわけではないと思っている。
ぼくの指摘をどう受け止めたかは、なのか次第だ。
ぼくが聞いて、素晴らしかったと褒めるのもおかしな話で、その解釈は少し違うようだとアドバイスを送るのもまた違う。
なのかはぼくになにかを言ってほしそうだったけれど、母の目があることを知っているからか、都会に行く日も、なのからしいクールさだった。
不意に、スマホのバイブレーションが鳴った。母からだろうか。徐にデスク上のスマホに手を伸ばし、ディスプレイを操作する。
メッセージアプリの名前を見て、ぼくは目を瞠った。なのかだ。
『いますぐデパートのFMブースに行って』
そうとだけ書かれている。ぼくは意味がわからなかったが、そのあとに添付された情報を見た瞬間に、周囲のすべての音がなにか別のものに変わっていくのを感じた。
◇
ぼくは走った。蒸し暑さや、照り付ける太陽なんて、気にならなかった。雑踏の音。セミの鳴き声。すべてがまるで違う世界の音のようだ。
夏休みだということもあり、デパートは入り口周辺からごった返していた。人にぶつからないように注意を払いつつ、FMブースへと向かう。
徐々にそこが近付いてくるにつれて、ぼくは自分の胸の音が、走ったせいなのか、興奮からくるものなのかが分からずにいた。
周囲の音なんて、なにも聞こえない。ぼくの鼓動と、そして――ぼくがずっと気になっていた、その声だけ。